第五十七話 もう一度会いたい
「はぁ……」
溜め息をつきながら道を歩いているのは、視線を地面に落としている唯だった。
彼女は今しがた夕食のための買い物から帰ってきたところであり、それだけならば普段となんら変わりはない。
ただ一点、違った点があるとするならば……それは、拓也の家で料理をするわけではないというところか。
あんなことがあってから、唯は拓也の家にお邪魔できていなかった。
自分勝手な都合であることは分かっている。
けれど、こんな状態で彼と会うことが嫌で……そんな我儘から拓也のもとに赴けておらず、こうして日に日に重くなっていく罪悪感から目を逸らしながら、一人の生活に戻ってしまっている。
(拓也くん、怒ってるよね……当然だよ)
今の唯の思考を埋め尽くしているのは、拓也への申し訳なさだった。
こんな唐突に、何も言わないまま会うことも無くなって、心配だってかけてしまっているだろう。
本来ならば何があったのかを言うべきなのに、自分はそれすらも放棄して楽な道に浸っている。
それはひとえに、彼に自分の弱さを見られることが嫌だったから。
…このことを話して、拓也が自分から離れてしまえば、本当に耐えられなくなってしまうだろうから。
だからこんな、自分からつかず離れずの距離を保つなんて、一番卑怯な道を選んでしまっている。
もう彼とは話せないかもしれない。会えないかもしれない。
そう思うだけで心に沈んだ鉛の塊は重くなり、唯の感情に陰を落とし続けている。
だが、それも自業自得でしかないのだ。
先に裏切ったのは自分だし、それで迷惑をかけてしまっているのも自分だ。
そんな中で唯だけが文句を言うなんてお門違いもいいところだというのは十二分に理解しているし、この辛さも受け入れるしかない。
「…あっ、もう着いたんだ」
伏せたままだった顔を見上げれば、沈んだ思考に耽っている間に自宅に到着していたようだ。
今日は夕食に何を作ろうか。そんないつもであれば楽しかったはずの考えでさえ、最近では重く辛いものになってしまっている。
自分のせいでしかないとはわかっていても、もうあの日々には戻れないのかと思うと涙が零れ落ちそうで……それを、歯を食いしばって必死にこらえる。
とぼとぼと亀のような遅さの歩みを進めながら、エントランスに入って自宅へと帰る。
そんな何の変哲もない行動。
…だが、今日に限っては、それにも大きな違いが見られた。
「………えっ、な、なんで……」
「…よぉ、久しぶりだな、唯」
エントランスを潜り抜けたその先。
そこには、誰よりも話したくて……誰よりも会いたくなかった、拓也が立っていた。
◆
拓也の考えていた手段はひどく単純なものだ。
現状、唯には自宅に赴いても会うことはできない。
そしてメッセージを送ったところで反応は一切なく、予定を合わせて会ってもらうといったことも不可能だった。
だが、どれだけ注意深く自分のことを避けていたとしても、永遠に家に引きこもっていることはできない。
なので彼の解決策は、外出する際に必ず通るエントランスの前で待ち続けるというシンプルな力技だった。
この方法を取りたくなかったのはほとんど待ち伏せのような形になってしまうので、唯に不快な思いをさせてしまうというのと、いつ帰るかもわからない唯を待ち続けるので相当な持久戦になるという理由からだった。
しかし当初の目論見通り、こうして唯に会うことはできた。
時間にしてみれば三時間近く立ち続けていたので多少なりとも疲労は蓄積しているが、そんなものはこの場ではどうでもいいものだった。
今やるべきことは、彼女ともう一度話すことなんだから。
「……とりあえず、俺の家に来ないか? ここじゃ話すにもなんだしさ」
「………うん」
しばらく会っていなかった気まずさゆえか、唯は拓也に目を合わせることはなかったが、了承してくれた。
まずは最初の関門は突破できたか。
これで誘いも拒否されていればいよいよ成すすべもなくなっていたので、一安心だ。
「………」
家に向かって行く拓也の後を無言でついてくる唯の姿に何とも言えない感情を抱くが、それも全ては話を聞いてからだ。
それをしなければ状況は何も進まないのだから。
「…さて、まずは何を話したもんだか……」
「………」
拓也の家に入った二人は、絨毯に座りながら向かい合っている。
まだ沈黙を貫いている唯が反応を示すようなことはなく、下を向いたままだ。
それでも拓也には、それを前に向かせるよりも先に言っておかなければならないことがあった。
「まあ何よりも……ごめん。待ち伏せるような真似をして」
「……えっ?」
確かに聞きたいことは山のようにある。そしてそれを進めなければ何も変わらないことも。
だがそうだとしても、拓也は他のどんなことよりも先に謝らなければいけなかった。
他に手段が思いつかなかったとはいえ、あんなことをされれば不信感だって募るだろうし、今の唯にとってはそれはなおさらだ。
そう思って謝罪に身を乗り出したが、彼女はまさか自分が謝られるとは思っていなかったのか、慌てた様子で頭を下げた拓也を止めてくる。
「あ、謝らなくていいよ! そもそも、悪いのは全部私なんだから……」
「そういうわけにもいかないよ。勝手に強硬手段を取ったのは俺だからな」
ようやく声を出してくれた唯に安心しつつも、謝罪を止めることはない。
今回の件と拓也が待ち構えたことは別問題であり、それはきっちりと区別しておかなければいけない。
「……分かった。拓也くんが待ってたことは気にしてないから、もう頭をあげて?」
「ありがとな。…それじゃあ、早速本題に入りたいんだが」
「っ!」
本題に入る。つまり唯が様子をおかしくし始めた件に触れると言った瞬間に、彼女は身を固くしてしまった。
それを見て一瞬、やはり触れてやらない方がいいのではないかという考えも浮かんでくるが、その思考を振り払って追いやる。
ここで聞き逃してしまえば、もう彼女の口から話してくれる機会など潰えるだろうし、これが最初で最後のチャンスなんだ。
後回しにすることは許されない。
「あの時、唯が走っていったのは多分、俺が見かけたって言った人が原因なんだよな?」
「…うん。そうだよ」
やっぱりそうか。
会話の脈絡から考えてもほとんど間違いないとは予想していたが、こうして唯から実際に語られると整合性も出てくる。
「良かったら聞かせてもらえないか? …あの人が、唯と何の関係があるのか」
「…いいよ。もうここまで来たら隠せないだろうし、ちゃんと全部話すね」
唯は緊張したように固めていた身をほぐし、打って変わって覚悟を決めたようにこちらに目を合わせてきた。
そこから目を離すまいと拓也も聞く態勢を整え、彼女から語られる話に耳を傾ける。
「…まず、拓也くんが見かけたっていうのは、私のお母さんなの」
「…そう、だったんだな」
…なんとなく、予期はしていた。
あのわずかに見かけた女性の髪色や、少しだけ見えた顔に唯の面影を感じたことから、彼女の身内に当たる人物なのではないかと。
それこそ、唯の反応から考えても相当に重要な人なのではないかと思ってはいたが……こうして語られると、不思議と納得する部分もあった。
「うん。あの時もお母さんに会いに行って……結局は会えなかったんだけどね」
「…会えなかった?」
唯から話されたことに、若干の疑問を覚えてしまう。
それこそ、子が親に会いに行くというのは何らおかしいことではない。
だが、今の彼女の言いぶりからして、それはまるで会えなかったのは今回が初めてではなかったとでも言わんばかりのような………。
「…私、昔からお母さんとちゃんと話せたことがないんだ」
「……え?」
そうして語られるのは、彼女の過去。
今まで触れられてこなかった、唯の本心だった。
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