第五十六話 不穏な気配
───それは、ある日のこと。
いつものように買い出しに出かけていた拓也は、自宅に戻る道中を歩いていた。
「もうすぐ降りそうだな……早く帰った方がいいか」
空を見上げれば一面の曇天模様であり、今にも雨が降り出しそうな天候を予感させてくる。
前のように雨に打たれてはかなわないので、ようやっと見えてきたマンションに入ってしまおうと足早に駆けようとした時………建物の前に、見慣れない女性が立っていた。
(ん? あの人は………?)
普段であれば、道端にいる人など気にも留めない。
だが何というか、視界に入ったその人物はオーラが違うとでも言うのか……避けようとしてでも目が引き寄せられるような、そんな力強さがあった。
服装はピッチリとしたスーツ姿で、どこか鋭さを思わせる雰囲気から一言で表すならできるキャリアウーマンといったところ。
バッサリと切りそろえられた栗色のショートヘアがそれを助長しているようで、近づき難さすらある。
明らかにビジネスに精通しているといった風貌をしているその女性は、マンションに入っていく素振りを見せるわけでもなく、ただただ入口近辺を見つめるのみで動く様子もなかった。
(誰かを待ってるのか? …まぁそれはいいか)
気になりはすれど、結局は他人のことでしかない。
目を引き付けられるとはいってもそれだけのことであり、拓也が関わるようなことでもなかった。
それよりも、今にも降ってきそうな曇り空から身を守るためにさっさとマンションに入ってしまおう。
今もなお、立ち去る様子も入っていく様子もない女性の横を通り過ぎ、中へと向かって行く。
そうすればあの一目見ただけの人の印象なんてすぐに忘れていくはずだ。
だから……これはただの気のせいなんだろう。
通り過ぎる際にちらりと見えた、あの人の横顔。
そこに、見慣れた少女の面影を感じたことなど。
「ただいま。…いやはや重かった」
「あ、おかえりなさーい! ごめんね、任せっきりにしちゃって」
「この量を唯に持たせる方が申し訳なくなるからいいよ。というか、こういう時くらいガンガン使ってくれ」
「私だって力はあるんだから、荷物くらい持てるよ! そんなにひ弱じゃないんだから!」
ふん! と言わんばかりの勢いでその細腕を見せつけてくる唯。
拓也が少し力を込めただけで折れてしまいそうなくらいに白いその腕は、正直頼りには出来なさそうだがそれを指摘するのも野暮だろう。
「また今度頼りにさせてもらうよ。それよりこれをしまっておかないと」
「そうだったね。ならそれ預かろうか?」
「結構重いし、俺が運ぶよ。唯はリビングで待っててくれ」
買い出しで買ってきたものは主に調味料の類で、瓶物も多いのでそれなりの重量感がある。
さすがにこれは彼女のパワーでは支えられなさそうなので、こっちで運んでしまおう。
「…なら、冷蔵庫まで運んでもらってもいい? そこからは私がやるから」
「強情だな……。だったらそっから先は任せるよ」
「うん!」
大抵の場合、こういった手伝いで唯が譲ることはないと分かっているので、最近ではある程度の譲歩のラインもわかってきた。
すべてを唯一人にさせることはしないようにしながら、お互いにできる範囲で役割分担を行う。
少し気を抜けば彼女が気づかぬ間に全てこなしてしまうこともあるので、絶対の基準でも何でもないが、それなりに上手く活用はできていると思う。
っと、そんなことより早く冷蔵庫に入れてしまおう。
せっかく買ってきたのに腐らせたりなんかしたら台無しだ。
「しまい終わったよ! こっちのやり方でやっちゃったけど良かった?」
「全然いいって。もう我が家のキッチンの主は唯だしな」
「そう言ってもらえると嬉しいけどね……」
一通り収納を片付け終わった唯が声をかけてきたので、労いの言葉をかければ嬉しそうにはにかんでいる。
実際、もう自宅のリビングの収納事情やキッチン用品の在りかなんかに関しては、拓也よりも唯の方が詳しいくらいなので頭が上がらない。
物の場所が分からなくなった時には彼女に聞けば解決することも増えてきたので、それくらい馴染んできたんだと思うと感慨深くもあるが、少しばかり情けなくもあるので覚える努力はした方が良さそうだ。
「よいしょー! …隣いい?」
「もう座ってるのにいいも悪いもないと思うが……いいよ」
「やった!」
ソファに飛び込んできたかと思えば、その直後に座ってもいいかの了承を確認してくる。
ほとんど意味のない行動に苦笑も出てくるが、その行動の一つ一つを許容している辺り自分もやられてきているのが肌で分かる。
そこでふと、あのマンション前で立ち尽くしていた謎の女性のことを思い出した。
なぜこのタイミングで思い出したのかは分からないが、よほど印象に残っていたのだろうか。
「そういやさっき、そこの前に不思議な人がいてさ」
「不思議な人? それってどんな?」
「なんていうか……格好はスーツ姿の女の人だったんだけど、なぜか目が引き付けられる感じだったんだよな」
「スーツ……?」
拓也としては、軽い雑談のつもりで話していたこと。
そこに深い意図なんてものはなく、たわいもない会話で終わるつもりだった。
…だから、彼女のあんな反応なんて思いもしていなかったんだ。
「ああ。栗色のショートヘアで仕事のできる人って感じだったな。全然動く様子もなくってマンションを見つめてるだけだったんだ。そういやちょっと唯に似てもいたような……」
「っ! その人、どこにいたの!?」
「うお!? ど、どこってそりゃ、家のエントランスのすぐ前だけど……」
それは、今までに聞いたこともないくらいに切羽詰まった声。
隠し切れない焦燥を含んだ声色で問い詰められた拓也はその気迫に気圧され、素直に場所を白状するが、すぐにそれが失敗であったことを悟る。
「っ!」
「あ、おい! 唯!」
ソファから飛び降り、慌ててリビングから飛び出していく唯。
それを止めようか止めまいか、一瞬の逡巡が頭を駆け巡るが……その間に彼女は家を出て行ってしまった。
「………唯?」
見たこともない彼女の姿。
一人取り残された拓也の声は静かに響いており、虚空に向かって伸ばされた手は宙をつかむだけだった。
外を見れば空には暗雲が立ち込めており、それがとてつもなく嫌な予感を加速させてくるようで……ひどく胸がざわついてくる。
───そしてその後、唯が家に戻ってくることはなかった。
◆
「……出ないか」
唯が家に来なくなってから三日。
あれから何度かメッセージを送ってはいるが、反応はなし。
電話もかけてみたり、さすがに心配になって彼女の家を訪ねにも行ったが……その全てが空振りで終わった。
まるで拓也のことを避けるかのような行動の数々に不安も湧きあがってくるが、それと同じくらいに心配にもなってくる。
唯が突然こんな状態になってしまったのは、明らかに拓也が話した会話に原因があるはずだ。
そうでなければ説明もつかないし、何より、唯がああも様子を変貌させるなんて想像だにしていなかった。
いずれにせよ、あのまま放ってはおけない。
どうにかして話を聞きたい。だが、いずれもアクションは空回りしてしまっている。
万策尽きたか。
そう思われるが、まだ一つだけ手段は残っていることは残っている。
「…あんまこういうことはしたくないんだけどな。けど、やるしかないか」
頭に浮かんできたのは、ほとんど強硬手段のようなものだ。
褒められるような行動ではないことは分かっているし、自分でもこれが最善ではないことは理解している。
しかし、もはやそんなことを言っていられるような状況でもない。
たとえ彼女に嫌われるようなことだったとしても、まずは唯に直接会うことが先決だ。
そうと決まれば、やることは分かり切っている。
長丁場になるため軽く準備だけ整えつつ、拓也は自宅を出ていった。
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