第五十九話 支えるために
あれから数分後。
全身を震わせながら泣き叫んでいた唯の慟哭も次第に弱まっていき、今ではその声はかすかに耳に届く程度にまで収まっていた。
それでもつかまれた服を決して放そうとはせず、拓也も無理やり引きはがすつもりなんて欠片もないので、しばらくはこのままでいさせた。
そうして沈黙が場を包んでいた中で……胸の内に収まっていた少女が口を開いた。
「…ごめんね。こんなに我儘ばっかり言っちゃって」
「…気にしなくていい。そもそも、我儘なんて思ってもないからな」
大声を上げ続けていた弊害ゆえか、若干掠れてしまっている声で謝ってくる唯。
しかし、そんなことは全く気にしていない。
彼女に起きていたことを考えればもっと我儘を言ってもいいくらいだし、それどころか寄りかかってくるくらいがちょうどいい。
まぁこれまでに積み重ねてきた性格なんかを思えば、急激に変えることは難しいだろうから、それは追々だ。
「…拓也くんが言ってくれたこと、すごい嬉しかった。こんな私でも、まだ傍にいてくれる人がいたんだって思えたから……」
「そんな大層な人物になれてたなら光栄だけどな。…それこそ俺だけじゃなくて、颯哉とか真衣だっている。あいつらだってよほどのことが無ければ、唯から離れたりはしないだろうさ」
「うん。舞阪くんも真衣も、私の大切な友達だよ。…でもやっぱり、一番は拓也くんだから」
「……そうか」
そう言ってパッと見上げられた唯の顔には、先ほどまでの危うさは一片たりとも残っていない。
それどころか、どこか憑き物が落ちたかのような彼女の表情を見れば、もう大丈夫だと確信させてくる。
「服、放してもいいか? 無理にとは言わないけど」
「あっ、そうだね。もうだいじょう………ううん。申し訳ないけど、もう少しだけこうしててもいいかな?」
「それは全然いいけど……体勢辛くないか? もう少しゆとりがあった方が……」
今の唯はほとんどの体重を前のめりになって拓也に預けている状態であり、そのままでは体に負担もかかるだろう。
せめてもう少し距離を開ければ余裕も生まれると思ったのだが、彼女が望むのはそうではなかったようだ。
「これがいいな。拓也くんが辛いならやめるけど……」
「俺の方は何ともないよ。思う存分倒れ込んでくれていい」
「…なら失礼して、ちょっとだけお願いするね?」
そう言う唯の目元はとても穏やかに緩められていて……なんとなくだが、自分に甘えてくれているようにも思えた。
まだ慣れていないがゆえにぎこちなくなってしまっているのかもしれないが、それでも、他の誰かを頼ろうとしてくれているだけでも、彼女が前を向いてくれたようで嬉しく思えた。
しばしの間、再び場が静寂を支配する。
それでもその沈黙は、決して嫌なものだとは感じなかった。
「…もういいかな。ありがとうね」
「はいよ。お役に立てたなら結構だ」
ようやく満足したのか、それまで手にしていた服を手放し拓也の胸元からも離れていった。
少し赤くはれた目元が唯の涙の痕跡を詳細に物語っているが、今はそれもどうでもよくなるくらいにはつらつとした笑みを見せてくれた。
「今日は本当にありがとう。おかげで、色々と心の整理もつけられた気がするよ」
「それは唯が頑張ってきたからこそだ。俺は何もしてない」
「そうかもしれない。けど、拓也くんが引っ張り出してくれたから、私も本音を吐き出せた。…そこにはやっぱり、お礼を言わせてほしいな」
拓也は自分では何もしていないと思っているし、それはなんてこともない事実だとも考えている。
今回の一件は、これまでに唯が苦しんできた過去を乗り越えられたからこそ、起こりえたことだったと思っていた。
だが唯からすればそうではなかったようで、心からの感謝を込めた声色で礼を伝えられる。
…これを無碍にするのは、さすがに違うか。
「ああ。その礼は受け取っておくよ。…これからどうする? 唯も疲れただろうし、家に戻るか?」
あれだけ感情を露わにしていたのだから、泣き疲れてだっているだろう。
精神的な苦痛が緩和されたとしても、それと肉体の疲労はまた別の話だ。
「うーん……できれば、もう少しここに居たいな」
「…そっか。なら、好きなだけ居てくれればいい」
そう言われてしまえば、拓也には拒否することなどできない。
まだここに居たいと言ってくれるのはそれだけこの家を居心地よく思ってくれているということでもあるし、焦って帰る必要もないか。
穏やかな空気が満ちた部屋の中で静かな余韻が流れる中、もぞもぞと膝を抱えながらそこに顔をうずめた唯はゆっくりと口を開いた。
「…私ね、ずっとお母さんと話したかったんだと思うの」
「………」
「そればっかりに気を取られて、それ以外のことが見えなくなってた。…ちゃんと私の近くには、私を見てくれる人がいたのに」
「…やっぱり、後悔してるのか? 母親と話せなかったことは」
「そうだね。多分、それはこれから先もずっと消えないと思う。…だけど、もうそんなにこだわってないんだ」
「こだわってない?」
「…私の隣に、私の傍にいてくれるって、そう言ってくれる人ができたから……十分すぎるくらいに満たされちゃったんだ。だから、これ以上は固執しなくてもいいかなって」
「………」
それは唯にとって、気持ちに区切りをつけるための言葉だったのだろう。
かつて仲の良かった母親と、もう一度一緒に過ごしたい。
そんな願いは叶わないと知って……そしてその上で、拓也という寄りかかれる友人ができた。
だからもう、それ以上は望まないと………。
…それは、良いことなんだろう。
過去の挫折に別れを告げ、彼女は今前を向こうとしている。
ようやく踏み出した一歩は、今までとは比べ物にもならない幸福が待つ未来へと運んで行ってくれるはずだ。
…だが、拓也にとってそれは、どうしても良いことには思えなかった。
唯の過去を聞き、そこに秘められた思いを知り……そして、一つの疑問を覚えた。
その浮かび上がってきた疑問を解消するためにはまだ、話を聞かなければいけない相手が残っている。
しかし今は、今だけは。
誰よりも辛い道を歩んできた少女の気持ちに、寄り添うとしよう。
「本当にありがとう。…今日はゆっくり寝れそうだよ」
「一人で大丈夫か? なんだったら家まで送っていくが」
しばらく拓也の家で感傷に浸っていた唯だったが、時間も遅くなってきたため今日はこれで帰ることにした。
その表情はとても晴れ晴れとしたもので、それは何よりも雄弁に彼女の心境の変化を表していた。
「もう大丈夫。これからはいつも通りここにお邪魔させてもらうし、料理だっていっぱい作るから、楽しみにしててね! …それじゃあ、また明日!」
「…ああ、またな」
ドアを閉める間際に見えた、ほんのりと寂し気な唯の顔。
ただそれは一人になることへの寂寥感ではなく、拓也と別れることへの哀愁のようにも思えた……なんて言ったら、思い上がりも良いところだと言われそうだな。
「…さて、行くか」
そして唯と別れた拓也は、部屋に戻る……わけではなく。
少し外に出るための準備を整えるために、簡易的に荷物をまとめ始めた。
…これは、何の確証もない。
それこそ、行ったところで無駄骨に終わる可能性の方がはるかに高いだろう。
だが、今の拓也にはなぜかそこにいると確信できるだけの何かを感じ取っていた。
荷物は貴重品だけ持っていけば十分か。
それ以外のものは重荷になるだけだろうし、そもそもそんな長く出るつもりもない。
必要なものだけを手に持ち、自宅のドアを開いて外へと出ていく。
そのままエレベーターで階下に降りていき、エントランスを出て周囲を少し見渡せば………。
(……いた。やっぱりか)
そこに目的の人物が立っていたことに安堵しながら、拓也はかの人物に声をかけに行く。
「…すみません。少しお時間いいですか?」
「…? はい、なんでしょうか?」
拓也がいると確信していた女性。
短髪に切りそろえられた栗色のショートヘアに、どこか鋭い雰囲気を纏ったキャリアウーマン。
この前と何ら変わらない様子でマンションの前で立ち尽くしている様子は、一目で同一人物だと理解させられた。
…そして何より、今回の一件とも深い関わりを持っているであろう人。
俺は、唯の母親とコンタクトを取ることに成功した。
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