第四十六話 苛む悪意
その後、何とか唯の怒りを鎮めてもらい、間もなく波の発生時刻が迫っているというアナウンスが流れてきた。
「もうすぐかぁ……真衣たち大丈夫かな?」
「こっちはそんなに影響はないと思うけど、あいつらかなり奥まで行ったからな……。万が一の時は職員の人もいるし、問題はないだろうけど」
現在二人がいるのは、比較的水深も浅めの場所。
水も腰ほどの高さまでしかなく、余裕で足もつけられているので波が来たとしても大した高さにはならないだろうと思っている。
対して颯哉が向かったと思われるのは、さらに水の深い場所。
確か記憶が正しければかなりの深さが確保されていたと思うので、彼らの安否が気になるところだがそこまで心配もしていない。
そんな事故にまで発展するようなことにはまずならないだろうし、そんなことになれば周囲の人だって手を貸してくれるはずだ。
それがこの人の量ともなればなおさらである。
そんなわけで、拓也たちは悠々と水に浸かりながらその瞬間を待っているというわけだ。
…にしても、本当に人が増えてきたな。
間もなく開始のアナウンスが入ったからか、ここにやってくる人数が体感で五割増しぐらいになった気がする。
さっきは多少なりとも余裕のあったスペースも徐々に徐々に詰められていき、圧迫感を感じるくらいに狭まってきている。
このままのペースじゃ、それこそ動く余地もないなんてことになりかねなくないか…?
今はまだ平気だが、それこそいずれはそんなことになってもおかしくないという考えがよぎってしまうほどには増えてきている。
とにかく、この流れに負けて唯とはぐれてしまうわけにはいかないのでそこにだけは注意しながら、この場で待機していればいいだろう。
「人、増えてきたね。ちょっと油断したら押しつぶされちゃいそう…」
「そうなったら一大事だな……。もうちょいこっち寄っておいたらどうだ?」
「うん、そうさせてもらおうかな」
唯と周りの体格差を考えればいつ流されてしまっても不思議ではないので、拓也の目が及びやすい範囲にいてもらった方がこちらとしても何かあった時に対応しやすい。
そう考え彼女を近くにいるように誘導すれば、特に反発もされず寄ってきてくれた。
(こんだけの人混みだと何があってもおかしくない。…真衣の言う通りだったな。本当に一人にしなくてよかった)
内心でここにはいない友人に感謝を捧げながら、冷静に周囲を見渡す。
依然として混み具合が解消されるような気配は全くなく、もしもこんな中に唯を置いてけぼりにしていたらと思うとゾッとする。
(隣にいれば問題もないと思うけ、ど………? なんだ、あいつら?)
軽く辺りを見ていた拓也の目に入ってきたのは、唯の真後ろにいた男子集団。
賑やかに談笑をしており、それだけなら別に疑問に思うこともなかったのだが……その動きが少し妙だった。
集団にいた一人が会話をしながらまるでこちら側に少しずつ動いてきているようにも見え、そしてその先には警戒せずに無防備の唯がいる状態。
…なんの確証もないが、嫌な予感がする。
「…唯、ちょっと我慢してくれ」
「えっ? 我慢ってなにを……って、ひゃあ!?」
放っておけばろくなことにはならないと直感した拓也は、隣にいた唯の肩を引っ張り、自身の胸の内に抱き寄せた。
多少強引な手になってしまったので、彼女にもあとで謝罪しなければいけないが……それは後回し。
そうして唯を抱き寄せた結果、見えてきたのは……水中でこちらに向かって伸ばされていた腕だった。
…そういうことか、胸糞が悪い。
おそらく彼は、この混雑した状況を狙って彼女の体に偶然を装って触れようとでもしていたのだろう。
実際にこんだけ人がいれば、触れてきたとしても誰が触って来たかなんて判別するのは不可能に等しいし、もし特定ができたとしてもうっかりぶつかってしまっただけだと言われてしまえばそれまで。
悪辣としか思えない手段だが、その分効力も高い意地汚い手だ。
…防げてよかった。
あんな奴の毒牙に唯がかけられるなんて俺の方も耐えられないし、その程度のことで今日の思い出を汚されでもすれば最悪だ。
その前に手を伸ばせてやれたことには安心するが……相手への怒りが消えたわけではない。
なので、意趣返しや軽蔑の意も込めて近づいてきた男を睨み返してやれば、「ちっ!」っと軽く舌打ちをしてすごすごと遠くへ逃げて行ってしまった。
…舌打ちをしたいのはこっちだっての。最後まで頭にくるやつだったな。
ともあれ、一時の難は去っていった。
さすがにあれだけのことがそう何度も続くとは思いたくないが、実際にこうして目の前で起こってしまえば嫌でも実感が湧いてくる。
この一連の件は、彼女の魅力の影響力を甘く見ていたというのと、それに対する警戒心の重要さを教えてくれた。
だがそれと同時に、唯に近づく悪意を払ってやれたことも、俺にとっては大きな成果だった。
(今いたやつらを職員の人たちに突き出してやりたいところだが……証拠もないし、そこまでは無理か。ともかく、未然に防げたことだけは良かったと思っておこう)
もう先ほどの連中はどこかへと去って行ってしまったし、それを追いかけたところで適当に言い逃れされるだけ。
それに何より、唯が悪意に痴漢されかけていたことなんて、本人に知らせたくはなかった。
せっかく彼女が気づかない間に追いやれたのだから、それをわざわざ伝えて楽しい雰囲気を壊すようなことまでする必要はないだろう。
このことは、俺の心の中にしまっておこう。
っとそうだ。ずっとあの男連中に気を取られていたからうっかり忘れかけていたが、唯をこちら側に抱き寄せたままだった。
「急にごめんな? 少し人とぶつかりそうになってたから……て、唯?」
「………きゅう」
訳も分からないまま抱き寄せられ、さぞかし困惑させてしまっただろうと思いながら申し訳ないという思いを伝えると、唯からの反応が無かった。
それを不思議に思って顔を見れば……頭から湯気が立つほどに顔を赤くしながら、目を回してしまっていた。
「…そういや唯って、男の裸にも免疫なかったんだっけ」
冷静に考えてみれば、彼女は男の上半身にも過剰に反応するくらいには裸体に免疫がなかった。
以前に偶然とはいえ、自分の服を脱いだ姿を見られてしまった時にも唯は顔を赤くしながら決してこちらを見ようとはしなかったし、そういったものには慣れていないのだろう。
そしてそんなことをさっぱりと忘れていた拓也は、外からやってくる悪意から唯を守ろうと彼女を引き寄せた。
…具体的には、何も纏っていない上半身に。
いきなり引っ張られた彼女は何が起こっているのかもわからず、おそらく抵抗してしまえば自分に迷惑がかかると思い必死に羞恥心に耐えてくれていたのだろう。
しかし、いつしかそんな忍耐にも限界が訪れ、この予想もできない状況に混乱したまま頭がオーバーヒートしてしまったのだろう。
「おーい、唯。起きてくれ」
「………」
軽く肩を揺さぶって彼女の意識を起こそうとするが、手ごたえはなし。
回してしまっている目が覚める気配は全くなく、自然回復を待った方が早い気もしてきた。
(…待て。そうすると、唯が目を覚ますまでずっとこのままか?)
意識を手放してしまっている彼女の体には力が入れられず、拓也が手を放してしまえば水に溺れてしまうかもしれない。
水深の浅い場所ではあるが、それでもこんな状態で放り出してしまえば事故につながる可能性は十二分にありえる。
必然的に拓也は唯を解放してやることができず……今更になって意識してしまった彼女の肌の滑らかさや柔らかさを実感してしまう。
(あんま考えるな……! 心を無にしておけ!)
悶々と沸き上がってくる思考に理性を持っていかれそうになりながらも、必死になって一歩手前のところで堪える。
まさかこんな形で自分も羞恥を味わうことになるとは思っていなかったので、想定外の事態にどうしていいのか判断に困る。
しかし、これも自分の軽率な行動が招いたこと。ある意味では自業自得だった。
ちなみにその後、いつの間にか波は発生させられていたそうだが……今の二人にとっては、気づく余地すらないことだった。
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