第三十九話 母の願い


 長く感じられた説明もようやく一段落し、ふと時計を見てみればお昼時。

 体感していたよりもそこまで時間が経っていなかったことにも驚くが、いい具合に空腹になってくる頃だった。


「もうお昼なのね。そんなに話してたとは思わなかったけど、楽しい時間はあっという間って感じね」

「あ、私お昼ご飯作ってきますね! 美穂子さんもご一緒されますか?」

「せっかくだし、ここで食べていくわ。…ただ唯ちゃんに任せっきりなのもあれだし、私も手伝っていいかしら?」

「へ? それはもちろん構いませんが……」

「母さんの料理か……」

「…なに拓也。文句でもあるの?」


 いつものように唯が料理を作ろうとキッチンへと向かえば、そこへ美穂子が待ったをかける。

 さすがに息子の友人に押し付けてしまうのは、一人の母としても許せないらしく二人で料理をすることを申し出てきた。

 唯としては拒否する理由もないので受け入れるが、意外にも拓也の方が難色を示した。


「文句じゃないけど、唯の料理に慣れてから他のものを食べても味気なく感じるんだよ。俺個人としても、母さんのより唯の味付けの方が好みになってきてるし……」

「へぇ……。それを聞いたら俄然興味が湧いてきちゃった! うちの拓也を虜にした料理がどんなものか見せてもらおうかしら!」

「えええぇ!? ほんと、そんな大層なものでもないですから! た、拓也くんも適当言わないでよ!」

「適当でもないんだけど……。紛れもない事実だし」


 以前に実感したことだが、今の拓也の舌は肥えてきている。

 原因に関しては明らかに完成度がずば抜けている唯の手料理を食しているからであり、それ以外では満足感が薄まってきているのだ。


 母さんの料理も上手いことは確かなのだが、やはり唯のものと比べてしまうと一段階劣っているように思える。

 そしてその理由は、彼女の腕が拓也の好みにばっちりとはまっているからだろう。


 そんな拓也の発言を聞いた美穂子は、先ほどまでの穏やかなほほえみとは打って変わって、その笑顔を深めている。

 表情は笑っているはずなのにどこか背中に冷や汗が走るのは、きっと俺の気のせいのはずだ。


「さっ! 料理を始めましょ!」

「まぁなんだ……頑張れ」

「そんな投げやりに言われてもぉ…!」


 背中を押されて誘導される唯を見ながら、拓也は自身の携帯に何か連絡でも来ていないかと視線を移す。

 断じて現実から目を逸らしたわけではない。




「それじゃまず、メニューを教えてもらってもいいかしら。あ、私はあくまでサポートに回るから、そんなに気にしなくても大丈夫よ」

「わ、分かりました。今日は親子丼を作ろうと思ってたので、そんなにやることもないですかね。鶏肉と玉ねぎも下ごしらえは終わっているので」

「下準備までちゃんとやってるなんて偉いわねぇ……。確かにここまで手が込んでれば、拓也が夢中になるって言うのも頷けそうだわ」

「…あのー。プ、プレッシャーがすごいので、そんなに期待しないでもらえると……」


 コンロに置かれている片手鍋には煮汁に鶏肉と玉ねぎが浸けられており、現在進行形で下味が染み込ませられている。

 少し手間のかかる工程ではあるが、これをするのとしないのとでは出来栄えにかなり差異が出てくるので、律儀に実践していたのだ。


 そしてそんな丁寧な作業を心がける唯を見て、感嘆するかのように声を漏らす美穂子。

 細やかな気遣いではあっても、それを怠らない彼女の姿を見て、目の前の子の人間性が少し理解できたような気がした。


「もう大分時間も経ってるので、あとは醤油で軽く味を整えて……」

「唯ちゃんのお家ではお醤油を使っているのね。こっちじゃ使うのはめんつゆだったりしたから、なんだか新鮮だわ」

「あはは。めんつゆもたまに使うんですけど、個人的にこっちの方があっさりとした風味になるので好きなんです」

「なるほどねー。それは拓也も好むわけだわ。あの子、あっさりしたものとか好きだからね」


 息子が家にいた頃にはよくガッツリとしたメニューを良く出していたが、あまり評判は芳しくなかった。

 どうやら自分の息子は食が細い方だったようで、文句こそ言わなかったが苦しそうに食べ切っていたものだ。


 それを反省に活かし、その後は風味のさっぱりとしたものも出るようになったが、なかなか味の調整というものが難しく、納得のいくものが仕上げられなかった。

 それもこうして唯の手際を見ていれば、見事なものだと思う。


 もう何年も続けられていることが分かるほどにてきぱきとした作業は美穂子が手伝う隙なんて無いほどに洗練されているし、見ていて気持ちがいい。


「…唯ちゃんは絶対に良いお嫁さんになるわね! いっそのこと、うちの子になっちゃう?」

「っ!? ゴッホゴホッ!!」


 味の最終確認のために味見をしていた唯だったが、思いもよらない提案にせき込んでしまう。

 作りかけの鍋に飛沫が飛ばなかったのは不幸中の幸いだっただろう。


「え!? い、今なんて……」

「だから、うちの子になっちゃうって言ったのよ! 唯ちゃんなら大歓迎よ!」

「そ、そんな急に言われても……」

「今すぐ決めなさいなんて言わないけどね。それでも、拓也も顔立ちは悪くないと思うのよ~」


 確かに美穂子の言う通り、拓也はそれなりに目鼻は整っている方だ。

 普段から前髪で隠れてしまっているので目立つことこそないが、以前に出かけた時には周囲からナンパだってされていたし、堂々とした様を身に付ければ惹かれる者だっているのだ。


「あの子はどちらかと言えば、父親似じゃなくて母親似なのよね。それでもどこかどちらの面影も感じるから不思議なものだけど。ねぇねぇ、唯ちゃんは拓也のこと格好いいと思う?」

「…格好いい、とは思います。ただそれは外見だけじゃなくて、内面がというか……」

「内面?」

「…はい。拓也くんは私のことも外見で判断せずに、ちゃんと中身を見てくれるんです。それがすごい嬉しくて……。そういうところが彼の優しさであって、魅力でもあると思うんです」

「そっか。…やっぱり唯ちゃんが近くにいてくれてよかったわ」

「い、いえ! 他人が知ったような口を聞いてすみません!」


 話している途中で失礼なことを言っていると思ったのか、頭を下げて謝罪する。

 しかし美穂子は、微塵も気にしていないように微笑を浮かべている。


「謝ることじゃないわ。そんなにもあの子の中身を見てくれるくらい、一緒にいてくれたってことでしょう? それなら嬉しくこそあれど、怒ることなんてない」

「…そ、そうですか」

「えぇ。…だから、一つお願いしてもいいかしら?」

「……? はい、なんですか?」


 少し申し訳なさそうに、まるで面倒ごとを押し付けてしまうことを心苦しく思うかのような表情で、唯にお願いを告げてくる。


「これからも、拓也のことを見てあげてほしいの。…本当ならこんなことを頼むのはダメだってわかっているけど、それでも私たちだけじゃ見切れない部分もあるから……」

「それくらいお安い御用です! そもそも拓也くんと一緒いるのは私のわがままでもありますから、向こうに拒絶されない限りは一緒にいますよ!」


 わずかな迷いもない即答。

 あまりにもはっきりとした発言に、思わず美穂子の方が目を丸くしてしまうくらいだった。


「…ありがとうね。それと、せっかくの機会だから一つアドバイスをあげるわ」

「アドバイスですか?」


 一転して明るい雰囲気となった美穂子。

 顔には笑みを浮かべているが……どことなく、悪戯を画策している子供のような空気に思えるのは、考えすぎだろうか。


「拓也ってああ見えて意外と押しに弱いから、押せ押せで行っちゃえば割と簡単に陥落すると思うわよ?」

「ええっ!?」

「少なくとも私は歓迎だから、頑張ってね! 応援してるわ!」

「だから、私たちはそういう関係じゃなくて!」


 唯が弁明しようとするが、美穂子はどこ吹く風。

 何を言おうと聞くつもりのない彼女に翻弄されながらも、どこか賑やかなガールズトークは続いていくのだった。

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