第三十八話 愛でる相手


 母親と唯が自宅で出会ってしまうという最悪のケースが実現し、先ほどから頭痛が止まらない拓也。

 そして、当の美穂子と唯はというと───


「なにこの子! 可愛いじゃなーい! お名前は何て言うの?」

「ふぇっ!? えぇと、あ、秋篠唯です……」

「唯ちゃんね! もぉ、拓也ったら! こんな可愛い彼女がいたんなら隠さなくてもいいじゃない!」

「か、彼女!?」


 リビングにいた唯を見るなりテンションの振り切れた美穂子は、彼女を思いきり自分の胸の内に抱きしめ、力の限り愛でている。

 抱きしめられている唯は、相手が相手なのでどうしてよいのかもわからず、目を白黒させているが、実を言うとこの展開はある程度予測できていた。


 美穂子は身内に甘いという話は少し前にしていたが、まだ話していないことがあるのだ。

 それは、大の可愛いもの好きだということ。


 昔から自分が可愛いと思ったものには目がなく、それを気が済むまで抱きしめて愛でなければ終わらない。

 そのことを良く知っていた拓也は、ずば抜けているといってもいい美少女である唯を目の前にすれば、母は確実に彼女を弄り回すだろうと確信していた。


 実際に目の前では美穂子が暴走しているし、何やらあらぬ誤解をかけられている気がするが、その誤解も母の行動に拍車をかけているのだろう。


「た、拓也くん……! これ、どうしたらいいの!?」

「もう名前で呼び合ってるの! いいわね~、熱々じゃない!」

「…すまん、こうなったら俺にはどうしようもないんだ。諦めて構われてくれ……」

「そ、そんなぁ……」


 非常に申し訳ないが、ああなった母さんは俺の力ではどうにもならないことは分かり切っている。

 この場に父さんが居れば話は違ったかもしれないが、どうやら今回は母さん一人で来たようなので、その手も使えない。


 結局、唯は美穂子の気が済むまでその身を抱きしめられ続け、その間にもいらぬ誤解は加速していくのだった。




「はぁー……ほんと可愛かったわぁ……。こんなにパッションを解放したのはいつぶりかしらね」

「母さんの情熱は他人に毒すぎるんだよ。唯、大丈夫か?」

「う、うん。ちょっとびっくりはしたけど……」


 ようやく美穂子の暴走も収まり、落ち着いて話ができる状態になった時には、唯も母の腕の中から放されていた。

 もみくちゃにされていた影響から服が少ししわになってしまっているが、そのくらいならまだ軽いくらいなので、愛でるのにも一応の加減はしていたのだろう。


「それにしても、こんな子をいつの間に手籠めにしてたのよ? そうと分かってれば色々持ってきてたのに」

「…まず、俺たちはそういう関係じゃないし付き合ってるってこともない。友人だってさっき言ってただろ」

「またまた~。恥ずかしがらなくてもいいのよ!」

「恥ずかしがってねぇよ! 人の話を聞け!」


 ニヨニヨとした笑みを浮かべながら、こちらの弁明をのらりくらりとかわしてしまう美穂子に怒りを通り越して呆れが出てきてしまうが、事実と違うことを認識されたままでは余計な混乱を招きかねないので、説明はしっかりとしておかなけれなならない。


「…とにかく座ってくれ。詳しいことはちゃんと言うから」


 経緯がどうあれ、長時間をかけてここまで来てくれていたのだから、それなりに疲労はしているはずだ。

 そんな中で立ちっぱなしというのも何なので椅子に誘導しておく。

 ついでにこの現状の説明もしてしまおう。




「…って、わけだ。大体の流れはそんな感じだな」

「ふむ……なるほどね。唯ちゃん、ごめんなさいね。こんな頼りない息子を支えてくれていて」

「い、いえ! そんな大したことはしていませんから!」

「そういうわけにはいかないわ。たくさん迷惑をかけたでしょうし、面倒ごとだってあったでしょう? それに対するお礼は、この子の母として言わせてちょうだい」

「…分かりました。でも、面倒なんて思ってもないですし、私がやりたくてやっていることですからお礼なんてされなくても大丈夫です」


 事の流れを説明し終え、あらかたの状況を把握した母は、話を聞き終えるなり唯に頭を下げた。

 それは今まで自分の息子を支えてもらっていたことへの感謝であり、手間をかけさせてしまったことへの謝罪。

 しかし唯は慌てたように礼はいらないと言い、自分の好きなようにしたことなのだからお互い様だと言う。


「それに、私の方も料理を作る代わりにこの家を使わせてもらっているんですから、むしろ謝らなければいけないのはこちらの方です」

「そんなの気にしなくていいのよ。というかこの家が綺麗に片付いているのも唯ちゃんがいたおかげだろうし、どうせ拓也はずっと散らかしてたんでしょう? それなら使ってくれた方が嬉しいくらいだわ」

「うぐっ……!」


 さすがは実の母というか、少し前までは物が散乱していた状況なんてお見通しらしい。

 言い返す言葉もないので口をつぐませていると、横にいた唯がクスクスと笑っている。


「確かに、拓也くんは一人でいた時には散らかしてましたね。最近ではちゃんと片付けてくれるようになりましたけど」

「…そりゃそうだろ。唯の手を借りて片付けられたもんなんだから、それをまた汚すような真似はしねぇよ」

「家にいた時には掃除の習慣なんて無かったのに、変わったものね。…どっちかと言うと、唯ちゃんがいるから頑張ってるのかしら?」

「母さん!」


 なぜか会話の流れで拓也がいじられるようになっているが、これはこれでいたたまれない。

 だが現実としてそうであったことも否定できないので、自分にできるのはこの羞恥に耐えるだけだ。


「まぁそこは良いけど……拓也、唯ちゃんにしっかりと感謝はしてるのよね? そこを蔑ろにしていたら、さすがに許さないわよ?」

「それはない。常日頃から礼は言ってるし、俺なりにはっきりと口で伝えるようにしてる」


 それまでのふざけた雰囲気を断ち切り、目を細めてこちらを見てくる。

 問い詰められるような、圧迫感すら出してくる母の言動に一瞬気後れしてしまうが、それでももたらされた問いかけに言い淀むことはない。


 普段から唯への感謝を忘れたことなど片時もないし、それを怠ってしまえば彼女との関係なんて即座に切り捨てられるものだと思っている。

 この環境を当たり前のものとは思わずに、自分が他よりも恵まれているのだと自覚し、その分の礼は返さなければならない。


 たとえそれが彼女の純粋な世話焼きだったとしても、それだけは頭から離してはならない。


「そっ、ならいいわ。これで何にもしてないとか言い出したら説教では済まさなかったけど、そうでないのなら言うこともないわね」

「…母さんは、俺が恩知らずなやつだとでも思ってたのか?」

「思ってないしそうならないように育ててきたつもりだけど、子供なんて親の知らない間に成長してるものなんだから心配もするわよ。現に女の子を家に連れ込んでるなんて思いもしてなかったんだから」

「……それは否定できないけどさ」


 実際にこの数か月の間で、唯と出会ったことで拓也の心持ちは随分と変化した。

 それはひとえに唯のおかげでもあるし、その変化は親にとっても嬉しいものでもあり、複雑なものでもあるのだろう。


「その……拓也くんのお母さん」

「そんな長ったらしく呼ばなくても、普通に美穂子って名前で呼んで大丈夫よ。どうしたの?」

「は、はい。美穂子さん。一つお聞きしたいんですが……これからも私はここに来ても大丈夫ですか? 部外者の身で人の家に入り浸っているのがご迷惑なら、控えさせてもらおうかと思ったんですが……」

「とんでもない! 全然遊びに来てオッケーよ! 唯ちゃんさえよければこっちからお願いしたいくらいだもの」

「そ、そうですか。……よかった」


 ずっと心配していたのだろう。

 安堵の溜め息を漏らしながら、滞在の許可が下りたことに一安心している様子だ。


 確かにいくら世話になっているからとはいえ、拓也の実の親である美穂子が家に通うことを拒否してしまえば、唯はここに来れなくなる。

 息子を心配する親心を思えば、全然ありえたことだ。


 それを不安に思って美穂子に尋ねれば、結果は快諾。

 母親の立場からすれば、家事も碌にできない息子を一人にするよりも、近くに頼れる者がいたほうがいいと考えたのだろうか。


 …割合としては、自分が気に入った唯との接する機会をなくしたくないから、ということの方が大きいような気もするが。


 いずれにせよ、親からの公認も得られた。

 これで二人の懸念は一つ減らせたと言ってしまっていいだろう。

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