第二十話 子供のように
自宅に入った拓也がまず最初に行ったのは着替えだ。
段々と暑さを実感してくるこの季節は登下校だけでも汗をかいてくるし、さっぱりとした私服に着替えなければ気持ち悪くて仕方がない。
以前ならばリビングで着替えはしていたが、今ではリビングには唯がいるのでそこでは服を脱げない。
まぁ着替え程度ならば寝室でしてしまえばいい。
適当に持ってきた紺のTシャツとちょうどいいズボンに履き替えたら、それまで着ていたワイシャツたちは洗面所の洗濯機に放り込む。
洗濯かごを見れば先日脱いだばかりの衣服も少し溜まっていたので、いいタイミングだと思いそれもまとめて洗濯してしまうことにする。
「よい、しょと。ボタン一つでできるんだから便利なもんだよな」
蓋を閉めて洗剤と柔軟剤を入れ、あとは適切なコースさえ選んでしまえば機械にお任せだ。
あいにく乾燥機能までセットされているわけではないので乾かすのはこちらでやらなければいけないが、それでも十分すぎるくらいに楽なものだ。
「時間は…結構かかるな。あとは課題でもやって待ってれば……うわっ!?」
洗濯機が回り始めたので拓也もリビングでくつろごうと洗面所を出ようとすれば、いつの間にか入口の柱からこちらを見つめていた唯の姿に気づかず、声を上げてしまう。
「あ、ご、ごめんね! 驚かせるつもりじゃなかったんだけど…!」
「…びっくりした。いつの間にそこにいたんだよ」
完全に気配を消したまま立っていたので、この不意打ちは想像以上の衝撃をもたらしてきた。
未だに脈打っている心臓の音がうるさく聞こえてくるが、それを無視して彼女に質問する。
「その…さっきまでリビングにいたんだけど、何かガサガサ音がするのが気になっちゃって……。家事なら手伝おうかなーと思って来てたんだけど…」
「そこにちょうど居合わせたと。別に見に来るのはいいから、せめて声はかけてくれ。心臓にも悪い」
「うぅ…ごめんね……」
覗き見るような真似をしていた自覚はあるようで、うつむきながら反省しているようだ。
あまりいじめてやるのもかわいそうなので、ここらで切り上げておくか。
「そんな気にしてないしいいよ。それに手伝いって言っても洗濯なんてやることもないし、出番もないと思うぞ?」
挙げるとすれば干すときの作業が出てくるが、洗濯物の中には肌着だって混ざっているし、異性のそんなものを触れるなど積極的にやりたいやつなどいない。
それは彼女としても例外ではなかったようで賛同してきたが、どうやら別の場所に着眼点を向けたようだった。
「それなんだけど、もしよかったらシャツのアイロンがけなんかをしてあげたいんだけどいいかな?」
「アイロンがけ? そりゃまたどうして……」
「だって原城君、ワイシャツとかちゃんと片付けてないでしょう? この前から思ってたけど、しわが残ってたし気になっちゃったんだよ」
「…そんなところまで見られてたのか」
洗い終わった洗濯物を干すとき、基本的にそれで満足してしまう拓也はアイロンをほとんど使わない。
実家から持っていけと言われて持たされたものがあるので、できないわけではないのだがここでも拓也のずぼらは発揮されている。
結果。シャツなどはしわが残ってしまい、だらしない見た目になっていたのだ。
本人はこれでもいいかと思って納得していたのだが……隣の少女はそれを見逃さなかったようだ。
「…聞いておきたいんだけど、変な義務感から言ってるわけじゃないんだよな? それならこういうことはやらなくてもいい」
しかし、そう易々と頼むわけにもいかない。
そのためにもこれは聞いておかなければならないことだった。
もし唯が拓也の家で過ごさせてもらうのだから、そのお礼としてさせてほしいなんて考えているのなら、この提案は蹴るつもりだった。
拓也はそんな対価を望んで招き入れているわけじゃない。
あくまで料理を作ってもらう代わりにこの家を使うという条件を飲んだのであって、それ以上は一方的な押し付けになってしまう。
ゆえにこの提案は、彼女自身が納得していない限り許容はしないつもりだった。
だが当の唯は一瞬キョトンとした後、ニコニコとした顔で拓也の方を見てくる。
「そんなわけないよ。これは私がやりたいからやってるだけ。それ以上でもそれ以下でもない」
「………」
そう言う彼女の瞳は揺らぐことなく拓也の目を見つめ返してきており、そこに嘘を言っているような、気負うような雰囲気は感じられなかった。
…降参だな。どれだけこいつの世話になれば気が済むんだという話だが、向こうも折れてくれる気配はなさそうだ。
「…なら頼む。アイロンって準備が面倒だし手間だから、なかなか自分では使わないんだよな」
「ダメだよ、そんなんじゃ。こういうのは常日頃からやるのが大事なんだから!」
「それは分かってるんだけどさぁ……」
そんな自分の情けない面をさらけ出しながらリビングへと入っていく。
扉を開けると同時に飛び込んでくる光景はすっかり片付いた部屋であり、自分の家でありながら相変わらず慣れない。
「片付いてるとゆっくりできるけど、まだ見慣れないな。さすがにあの汚部屋に戻すつもりはないけどさ」
「…あのレベルになりそうだったらその前に私が原城君を叱ってるよ。こら! ちゃんと片付けなさい! …ってね」
「助かるな。俺の場合は叱ってくれた相手がいたほうが背筋も伸ばせる」
「ふふふっ。その時は私の出番だね」
冗談のように笑っている唯だが、現実として拓也が再びあの空間を作り上げそうになったらしっかりと背中を叩いてくれるだろう。
普段は優しい彼女だが、いざという時には厳しくしてでも立ち上がらせてくれる強さも持ち合わせており、これ以上にないくらいに頼れる友人だ。
「ひとまず課題だけ終わらせるか。秋篠も好きなことしてていいぞ」
「私も課題やっちゃうよ。家から勉強道具は持ってきてるから」
「なら、お互いに勉強だな」
今日は学校から課題が出されているので、何をするにしてもそれに手を付けてからだ。
後回しにすればその分だけ期限が迫って辛くなるのは分かり切っているので、早くやってしまうに限る。
唯も手持ちのバッグから教科書やプリントの類を持ち出しており、最初から勉強をするつもりだったのだろう。
となれば、しばらくは二人とも勉強の時間になりそうだ。
自前のシャーペンを手に取り、課題に向き合う二人の間からは余計な会話は消えていくのだった。
(…こんなもんか。あとは少し進めればいいし、復習も大丈夫だろう)
提示されていた課題も範囲は一通り終わらせ、数秒前までカリカリと動かしていたペンの動きを止める。
今日受けた授業内容の復習もある程度進めたし、残っている分は夜にでもやれば十分に間に合う。
今やるべきことはやっただろう。
(秋篠は……まだやってるな。邪魔したら悪いし静かにしておこう)
ちらりと対面に座りながら教科書と向き合っている少女を見れば、集中しているのかこちらの様子に気が付く気配はない。
もくもくと勉強に取り組む様は見ていて気持ちいいくらいだし、こういった弛まぬ努力が彼女の優れた学力を支えているのだろう。
邪魔をするつもりはないが、これだけ頑張っているのだから手助けくらいはしてやりたい。
キッチンに何か飲み物があったはずだし、それでも出そうか。
なるべく音を立てないように立ち上がり、キッチンに入る。
戸棚をごそごそとあさってやれば記憶は正しかったようで、大量のインスタントが見つかった。
(何が好きかわからないし、とりあえず作るか)
手順もそこまで難しいものでもないので、手早く用意していく。
用意したのはアイスココア。コーヒーにしようかとも思ったが、苦いものは苦手かもしれないのでそれは自分用として淹れておいた。
完成したココアを集中している唯の目の前に置いてやれば、ようやくそれに気が付いたようだ。
「ほれ、ココア入れたからよかったら飲んでくれ」
「あ、ありがとう! でもそのくらいなら私が入れたのに……」
「集中してたみたいだしちょっとした差し入れだ。こっちは終わったけどまだ続けるのか?」
「うん! 課題と復習はやったけど、予習が少し残ってるしそれをやらないといけないから」
彼女も同じように課題に取り組んでいたようだが、しっかりと予習までこなすつもりのようだ。
その勤勉さには敬服する思いであり、見習うべきところだろう。
「立派だな。俺も復習はするけど予習まで手は付けてないからさ」
「そこは人それぞれじゃない? 私だって時間があるからやってるだけだし」
「それでもだ。時間があるからやろうなんて考えても、実行に移せるやつは少ないからな」
進んで勉強する姿勢を当たり前のように思っている秋篠だが、それが立派なことには変わりない。
こいつの頭の良さは噂程度で聞いたことがある程度だったが、この光景を見れば納得もする。
「せっかくココアも入れたし飲んでくれ。飲めないなら俺のコーヒーがあるから変えるけど」
「ココアで大丈夫だよ。…コーヒーも飲めないわけじゃないんだけど、あまり好きじゃないんだ。飲めないわけではないからね!」
「ははっ。わかってるよ。苦いのがそんな好きじゃないんだろ?」
「あー! 笑ったね! 絶対今子供舌だとか思ってたでしょ!」
「…そんなこと思ってないって」
「変な間があったんだけど!?」
味覚が子供っぽいと思われたくなかったのか、必死で否定してくるがその様子が可愛らしくて思わず笑ってしまう。
しかしそれが馬鹿にされたと思ったのか、ぷんぷんと怒ってしまった彼女をなだめることになってしまった。
「子供舌なんて思ってないから、それ飲んで落ち着けって。勉強中の糖分は大切だぞ?」
「…話を逸らそうとしてるけど、忘れたわけじゃないんだからね! いつか絶対コーヒーを美味しく飲めるようになって見せるんだから!」
苦いものが好きではないことは別に欠点でもないし、拓也自身そうとは思っていないのだが彼女の中の何かに火がついてしまったようだ。
この調子では克復するのに時間もかかりそうだし、それは追々だな。
「…あ、美味しい。久しぶりに飲んだけどこんなに美味しかったっけ?」
「家の方では飲まないのか? それもそんなに大したものでもないぞ?」
「一人だと飲む機会なんてないからねぇ……。水分が取れればいいと思って水くらいしか飲まないし」
「へぇ……」
何気なくつぶやかれたことだったが、それはどうなのだろう。
いくら一人暮らしをしているとしても清涼飲料水くらい飲むことは多々あるだろうし、節約でもしているのかと思えばそこまで金銭的に
だが唯の口ぶりからするに、随分長いことそういったものは口にしてこなかったのだろう。
そこにどんな経緯があるのかは定かではないが、我が家にいる間くらいは好きにしていけばいい。
「…それとも、原城君が入れてくれたから美味しく感じたのかな?」
「なっ…!」
そこから漏れ出た一言は、拓也の意識を持っていくには十分すぎる威力だった。
意識して言ったのかは知らないが、男に対してそう言うものではない。
「…冗談でもそういうことは言うな。勘違いされても知らないぞ」
「なになに、照れちゃってるの? 意外と可愛いところあるね?」
「照れてねぇよ! …そうやって好きでもない相手に好意を持たれるような言動はやめておけってことだ」
「自宅に連れ込んでも何もしない人に言われてもねぇ……。今更何を疑えって話だよ」
いたずらを成功させた子供のようににやにやとしている唯から赤くなった顔を誤魔化すようにそっぽを向くと、見当違いな言葉が聞こえた。
…俺が何もしないと思っているのなら、それは買いかぶりすぎだ。
今はまだ、彼女を異性として見ていないので我慢はできているが、それもこんな言動を繰り返されれば限界は来るだろう。
そんなことになれば傷つくのは彼女だし、心にも残る爪痕を残してしまうことになる。
それはお互いの望むところではないだろうし、不幸な結末でしかない。
なので、そういったからかうようなことはやめておけと訴えるのだが……唯にはあまり響かなかったようだ。
言外にヘタレと非難されている気がしないでもないが、そういうことはきちんと好き合っている相手とするべきだ。
一時の気の迷いで台無しにしていいものではない。
「ともかく気を付けろよ。信用してくれるのは嬉しいけど、それも絶対ではないんだからな」
「はーい」
気の抜けた返事を返されて、絶対に理解していないだろうと思ったが、これ以上の追求は薮蛇になるだろうと思いとどまる。
───目の前の少女の、赤くなった耳には気づかないまま。
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