第十九話 合鍵


 翌日、いつも通りの時間に目を覚ました拓也は若干寝ぼけながら洗面所へと向かい身支度を整える。

 軽く寝ぐせを直して顔を洗い、歯を磨いて口内環境まで洗い流してしまえば一通り完了だ。


 その後は着ていた寝間着から学校に着ていく制服に着替え、まだ残る眠気にあくびをしながらも着々と登校の用意を済ませる。

 着替えもそつなく終わり、朝食を食べるためにキッチンに常備している食パンをトースターに入れてしばし待つ。


 この時間はいつも退屈なので、携帯を見て時間を潰そうと電源を入れて確認してみれば……メッセージの通知が入っているのが見えた。


(ん? こんな朝早くからなんて誰が…って、秋篠か。あいつも朝早いな)


 拓也の連絡先を知っている者は多くない。

 登録されているのは離れて暮らしている両親と、友人では颯哉と真衣くらい。

 そして今連絡を送ってきたのはその中の誰でもない、昨日連絡先を交換し合ったばかりの唯だった。


 内容は今日の買い出しの材料の報告で、きっちりとまとめられた書き方が非常に彼女らしいと思ってしまう。

 とりあえず確認してそのままにするのも忍びないので、『了解した』と打ち込み送っておく。


 そうこうしているうちにトースターに入れていた食パンも焼き上がり、中から取り出して皿に置いていく。

 朝はそこまで食欲があるわけではないが、少しでも腹に入れていかなければ昼まで持たない。

 なので無理やり腹に収めていくが、やはり味気なく感じてしまうのはきっと気のせいではないだろう。


「昨日あれだけのものを食べればな……。割り切って食べよう」


 先日の夕食のクオリティと比較してしまえば、たとえどんなものでも質素な味わいに感じてしまうだろう。

 それほどのものだったと断言ができるし、それを待ち遠しく思っていることも事実だ。


 そしてそれも夜までの辛抱だ。

 放課後になれば彼女の料理が待っている。この前まではなかった楽しさが待っているというのは、拓也の心に一日のやる気を漲らせている。


 朝食を食べ終え、少しばかりの休憩を取ってから家を出る。

 気持ちのいい快晴を肌で感じ取りながら、俺は学校へと向かっていった。





     ◆





「そんじゃ今日はここまでだー。しっかり復習しておけよー」


 一日の授業が終わり、体を伸ばして凝った全身をほぐした拓也に対して近くの席にいた颯哉が近寄ってきた。


「やっと終わったな。授業の話長すぎないと思わないか?」

「まぁ脱線はよくするよな。けど結構面白い話だし、いいんじゃないか?」


 机上に出していた教科書を片付けながら、たわいもない雑談に花を咲かせる。

 さっきの授業の担当の教師は話が横道に逸れることで有名であり、そのせいで授業自体が遅れることも多々あるそうだ。

 ただその話自体は結構面白いし、個人的には結構好きだったりする。


 話の中身は自分の家族の事だったり最近の時事に関する事柄だったりと幅広く、ユニークな性格でいいと思うんだがな。

 好みは人それぞれだしいいか。


「今日も練習があんだろ? 頑張れよ」

「おうよ。もうすぐ大会があるからな。こっから気合い入れてかねぇと!」


 腕に手を当てて気合いに満ち溢れたオーラを見せる颯哉。

 …大会のために頑張るのはもちろん素晴らしいことだとは思うが、それよりも前に期末試験があることをこいつは忘れてるんじゃないか?

 後から地獄を見ることになりそうだが、今は放っておくか。


「俺も今日は委員会の仕事があるからな。それ済ませていかねぇと」

「図書委員だっけか? 最初は地味なもんになるなと思ったけど、考えれば結構ぴったりだよな」

「…地味で悪かったな」


 一言余計だという意思を込めて睨んでやれば、颯哉も苦笑いで謝ってくる。

 拓也はこのクラスでは図書委員会に所属しており、週に一度仕事が回ってくる。

 仕事は蔵書の貸し出しの管理やカウンターの店番といった作業が主であり、その退屈さからうちのクラスでやりたがる者は少なかった。


 拓也自身、その作業自体が好きというわけではない。

 ただ図書室という空間が作り上げる独特な静寂が気に入っており、そこでする読書も好んで時折立ち寄っているのだ。


 週一の作業日の間も、手が空いている間は本でも読んでいていいというお許しを頂いているので、特にすることもなくて苦痛だということもない。

 そんなわけで、あの時間は拓也にとって心安らぐ時間でもあるのだ。


(そうだ。秋篠にそのことも言っておかないと)


 何らかの用事があって帰りが遅れる時は連絡を入れる。

 昨日決め合ったルールを初日から忘れるわけにはいかないので、しっかりとメッセージを送っておく。


 その連絡は無事に届いたようで、少し離れた席に座りながら女子と会話をしていた唯は通知の入った自分のスマホを確認していた。

 …だがなぜか、俺から届いたメッセージを見てしょんぼりとした様子を出していたのは気のせいだろうか。




「俺練習行くからよ。また明日な」

「はいよ、気張って行ってこい」


 部活の練習のために体育館へと直行していった颯哉を見送り、拓也も自分の持ち場へと向かっていく。

 俺たち一年の教室は校舎の四階に存在しており、図書室も同じ四階に設置されている。

 登校の際には煩わしくさえ思える教室の位置の高さだが、それもこうして図書室への移動が楽ということを考えれば悪くはない。


 長い廊下を歩いていきながら、目的の教室へと足を進める。

 帰りの時間ということもあり喧騒に包まれた空間がようやく静かになり始めた頃、拓也は図書室というプレートが下げられた場所へと到着した。


 ドアを開けると、チリンチリーンという鈴の音が鳴り、それが来訪者を告げる合図となる。

 図書室へと踏み入り真っ先に目に入ってきたのは、カウンターで何やら作業をしている一人の女性。


「こんにちは、笹原ささはらさん。今日もお願いします」

「あら、こんにちは。早速だけど今日もお願いね」


 返ってきた声は少し響きがあるがよく通る透き通ったもの。

 そしてこの図書室の司書でもある笹原ささはらさんだった。


 年齢を重ねているとは思うが、それを一切感じ取らせない立ち振る舞いに上品な雰囲気。

 理想の年の取り方を体現したような女性であり、他者への接し方も丁寧で年下の俺にも気さくに話しかけてくれる人だ。


「今日もカウンターでいいですかね? それ以外に何かありますか?」

「そうねぇ……。特に点検も整理作業もないし、それでいいわ。私は裏にいるから、よろしくね」


 そう言って笹原さんは図書室に併設されている別の部屋へと入っていった。

 この部屋を一望してみれば放課後であってもいるのは数人。

 俺の仕事も大してないだろう。


(静かに本でも読んで待っておこう。時間もいつも通りだろうし)


 拓也はカウンターに入り、椅子に腰かけて適当な本を手に取る。

 あらゆる雑音が排斥されたかのようなこの場で味わう空気もまた、違った良さがある。




 貸し出しを申し出てくる生徒が現れることもなく四十分ほどが経過し、そろそろだろうかと思い本を閉じれば、笹原さんが別の部屋から出てくるところだった。


「ありがとうね。今日の仕事はもう終わりで大丈夫よ」

「分かりました。また来週来ますんで、またその時に」


 お互いに軽く挨拶をかわして自分の帰りの用意を済ませる。

 持っていた本を所定の位置に戻し、持ち込んでいた鞄を背負い部屋を出る。


 来た時と同じように景気のいい鈴の音が鳴り響き、誰かが立ち去っていく事実を周知させている。

 …ちょっと遅くなってしまったが、今から帰れると秋篠に言っておいた方がいいな。

 初日から任せることになってしまったが買い出しは終わっているだろうし、そうしておこう。


 アプリを立ち上げて帰る旨を彼女に送っておくと、その直後に返信がくる。

 二足歩行の猫のイラストが『OK!』と言っているスタンプが送られてきたのを見て、ほっこりとした気持ちになりながら帰路に付いていった。





     ◆





 マンションのエントランスを通り、郵便物が届いていないかどうかを確認したらエレベーターで七階まで上がっていく。

 上昇していく感覚に身を任せ、到着したことを把握すると同時に外に出る。


 そうして自宅の玄関前に目をやれば……そこで立ち続けている唯の姿が目に入ってきた。


「あっ! 原城君、おかえりなさい!」

「…おいおい、まさかずっと待ってたのか?」


 エレベーターから出てきた俺を見て彼女は嬉しそうにこちらを見てくるが、こちらとしては呆気に取られてしまうばかりだ。

 恰好が制服ではなくラフな私服になっているので一度自宅には戻っていたのだろうが、もしかすると拓也が連絡をしてからずっとここで待機していたのではないだろうか。


「…だっていつ帰ってくるかもわからなかったし……放課後はここで過ごさせてもらうって言ったからね!」

「そりゃそうだけど、立ちっぱなしっていうのも辛いだろ。…これ、必要なもんだし渡しておくよ」

「何これ? 鍵?」


 鞄からごそごそとあさって取り出したのは鍵。

 拓也の自宅の合鍵である。


 万が一今持っている方の鍵をなくした時のためにと用意しているものだが、彼女に渡してしまってもいいだろう。


「うちの合鍵だ。これからお前が先に帰ることも増えるだろうし、自由に使ってくれ」

「い、いいよそんなの! もし私が変なことしようとしてたらどうするの!?」

「そこは信頼してるから問題ない。それとも、何か変なことしようとしてるのか?」

「それはしないけど……。うぅ~! …わかった! これは責任を持って預からせてもらうね!」


 頭を抱えて受け取るべきか否かを悩んでいた唯だったが、結局引き取ることにしたようだ。

 管理面も特に問題だとは思っていない。

 彼女が鍵を悪用するだなんて思っていないし、ありえないとは思っているがもしそうなった場合には拓也の注意が行き届いていなかっただけだ。


 少なくとも今後のことを考えれば必須のものだし、こちらとしても玄関前で待たせるのは忍びない。

 自由に出入りしてくれた方がありがたいくらいだ。


「まっ、いらないと思ったら返してくれたらいいさ。そんな重く捉えなくてもいい」

「かなり大事なことだったと思うんだけど……。お言葉に甘えて使わせてもらうよ」

「ぜひそうしてくれ」


 これで玄関周りに関してはほとんど解決だ。

 そのことを把握した拓也は、唯と共に我が家へと入っていくのだった。

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