第十八話 相談事
唯の、拓也の家で放課後を過ごす代わりに料理を作るという誘いを受け入れてから十数分後。
互いにお茶を飲みながら休んでいた俺たちだが、今はあることで白熱していた。
「もう! そこは譲らないからね! 私が四割、それで決定!」
「…仕方ないか。それでいいよ」
話し合っているのは二人の食費に関することだった。
これから唯も拓也の家で食事を共にするというのならまず決めておかなければならないことだし、曖昧にしておくわけにはいかなかった。
そのためそれぞれがどれだけ負担するかを決めていたのだが、これが予想外に苦戦してしまった。
唯はお互いに食べるのだから半々でいいだろうと言ってくれていたが、拓也はそれでは納得ができなかった。
料理を作るのは彼女一人に一任しているのだから、その分の手間を考慮してもこちらが多く負担するべきだ。
割合としては拓也が六割、場合によっては七割くらいだと主張したのだが唯に猛反対を受けた。
自分が好きでやることなのだから、そこに余分な金額を払う必要などない。
まして七割も請け負ってもらうことなど言語道断だと。
…あの時の迫力はすさまじかった。
なんとしてでもこちらを説き伏せようとする唯と、自分の意見を通したい拓也とで何とか妥協点を見つけようとするが、どちらも折れる様子を見せないので一向に決着がつかない。
ああでもないこうでもないと話し合いは続き、最終的に拓也が六割、唯が四割という形で落ち着いたのだった。
「…こんなに長引くとは思ってなかったよ。お互いに半分ずつでもよかったんだよ?」
やっとの思いで会議が終了し、両者ともに疲れ切った雰囲気を全身から醸し出しながら秋篠が恨みがましく言ってくる。
もう決定したことということもあって、それを覆す気はないようだが不満は残っているのだろう。
「そういうわけにもいかない。働いてくれた分の対価はしっかりと払うもんだと思ってるし、そこは蔑ろにしてもいいところじゃないよ」
「…それを言われると弱いんだけどさぁ」
唇を尖らせながらやりきれない感情を漏らそうとしているようだが、言葉が出てこなかったのだろう。
ようやく観念したかのように床の絨毯に倒れ込み、思い切り息を吐きだしている。
「はぁー……。じゃあ、その対価に見合ったと思ってくれるくらいに美味しいものを作らないとね! 期待しててよ!」
「毎日楽しみにしておくよ。俺も任せっきりにはしないし、後片付けくらいはやるから」
「…その役割取られちゃうのかぁ」
「なんか嫌だったか? というかここまでしてもらって俺が何もしないっていうのもクズすぎると思うんだが」
特段おかしい役割分担でもないだろう。
調理には携われない拓也だが、片付けまでできないほどに不器用というわけでもない。
なのでこの配分は自然なものだと思うんだが、そこに思うところでもあったのだろうか。
「うーん……。他の人が働いてるのに自分だけが休むっていうのが慣れないというか……。どうしても自分にできることを探しちゃうんだよね」
「こっちとしては全然気にしてないんだが……。あまりにも落ち着かないってんなら、今日みたいに皿拭きを担当してもらっていいか?」
「うん、やる! むしろやらせてください!」
仕事を与えられるという普通なら引き受けたがらないようなことでも、彼女は喜んで引き受けていく。
一種のワーカーホリックのようなものだろうか。
それが果たして良いことなのか、悪いことなのかは拓也に判断はつけられない。
「それとさ、連絡先も交換しておかない? いざって時に無いと不便でしょ?」
「そういえばお互いの連絡手段知らなかったな。すっかり持ってるもんだとばかり思ってた」
「もう随分長いこといた気もするよ。実際には一週間くらいなんだけどね」
まるでいたずらっ子のような雰囲気を含ませながら、唯は自分のスマホを俺に見せてきた。
そこにはメッセージアプリの友達追加画面が表示されており、拓也もアプリを立ち上げて追加の画面に表示を切り替える。
お互いにコードを読み取らせれば完了だ。
拓也の友達爛に『秋篠唯』という名前の横にデフォルメされた猫をアイコンにしたアカウントが追加されており、問題もなく入れられたようだ。
「おぉ…! これが原城君のアカウントかぁ…!」
「そんな珍しいものか? 割とありふれたものだと思うんだけど」
拓也と同じように友達を追加した唯の画面には『原城拓也』という名前と、何の変哲もない風景をアイコンにしたアカウントが出ているのだろう。
そんな特筆した点があるとは思えないが、彼女は目をキラキラとさせながら感動したように震えている。
「珍しいよ! 私のアプリってクラス全体のものくらいしか入ってないし、アカウントも他の人には教えてないしね」
「…なるほど。いちいち大変だな」
それもまた私生活に過干渉されないようにするための防衛策なのだろうが、アプリの使用にまで気を配らねばならないというのだからこいつの苦労がよくわかる。
その苦労を少しでも和らげるために受け入れた提案でもあるのだから、少しでも助けになればいいものだ。
「しないとは思うけど、あんまり他の人には教えないでね。そこから色々と疑われちゃったりしたら面倒だろうし」
「約束するよ。教えるような相手も数えるほどしかいないけど、どっかから漏れるかなんてわからないからな」
言わずもがなではあるが、拓也と唯の関係は誰にも言わない。
そんなことをすればどこから恨みを買うか考えただけでも恐ろしいことになるし、無用な面倒ごとを背負い込む羽目になる。
これは、その面倒ごとを引き寄せてしまうかもしれない要素の一つでもある。
千金を費やしてでも秋篠と連絡を取りたいやつだっているであろう中で、俺のようなやつが連絡手段を持っていると知られれば確実に注目されてしまう。
扱いには細心の注意を払わなければ。
「そこまで敏感になる必要もないと思うけどね。他の人の携帯を覗き込むなんてそうそうあることでもないし」
「それもそうだわな。少なくとも大っぴらにならないようにだけしておけばいいか」
警戒するに越したことがないのはそうだが、それに気を取られすぎても意味がない。
結局はほどほどに注意しておけばいいというだけであり、話も落ち着いた。
「これで料理の材料の買い出しもスムーズにできるし、万事順調だね」
「あぁ。買い出しは先に学校から帰った方がするってことでいいんだよな? それが一番やりやすいだろうし」
「それでいいよ。買うものとかは私が朝のうちに送っておくから!」
スーパーに買い物に行く順番に関しては比較的あっさりと決まった。
当初は曜日によって決めるなど、交互にやるという案も出ていたが、それぞれの用事もあるだろうし不測の事態が起こった際にそれでは対応ができない。
最後にまとめられた結論としては、先に帰宅した方が買い物に行くという極めてシンプルな案だった。
拓也たちは二人とも部活動には入っておらず、委員会には所属しているがその仕事もすぐに終わるもの。
帰宅時間にそこまで差は出ないだろうが、備えておいて損はない。
帰る際にどちらかが一報を入れておけば問題もないし、無難なやり方だろう。
「ま、こんなところか。学校じゃ相談できる時間も少ないし、今のうちに決めることは決めておきたいけど……何か忘れてることあるか?」
「ないと思うけど……その時は連絡をくれたらいいよ。そのための連絡先なんだから」
それもそうだ。
どのみちこの場だけで全てを決めるなんて到底無理だし、あとは実際に過ごす中でルールは調整していけばいい。
今日は概要を決められればそれでいいのだから。
「もうこんな時間経ってたのか……。さすがに帰るか?」
「そうするよ。あまり遅くまで居座るわけにもいかないからね」
時計の示す時間は十九時。
外を見れば辺りはすっかり暗くなっており、いつの間にこんなになっていたのかと驚かされる思いだ。
明日の準備もあるだろうし、いつまでもここに引き留めているわけにもいかない。
帰りの用意を整えている彼女を見守りながら、拓也は机に手をついて今日のことを振り返る。
(ゴキ退治だけかと思えば、そこから飯を食べて挙句の果てにこれからも一緒に食べる約束までした……。言葉にすれば信じられないな、ほんと)
全て実際に起きたことなのは間違いないが、心のどこかで信じきれない部分さえある。
フィクションだと言われた方が説得力があるくらいに非現実的だった今日の出来事を、生涯忘れることはないだろう。
そうしている間に帰宅の用意も終わったようで、立ち上がって玄関に向かう秋篠を見送りに行く。
「今日は本当にありがとうね! 色々わがままを聞いてもらっちゃって……」
「礼を言うのはこっちの方だ。これから迷惑をかけるかもしれんが、よろしくな」
拓也からすればわがままを言われた覚えなんてないが、唯からすれば自分の要求を押し通すために無理を言ったという認識でもあるのか、申し訳なさそうにしている。
しかし恩があるのは彼女だけではない。拓也としても唯には感謝していることだってあるし、それはお互いさまだ。
そう思って感謝の意思を伝えてやれば、彼女は花が咲いたかのような美しい笑みを浮かべていた。
「うん! よろしくね! じゃあまた明日!」
「また明日な」
その言葉を最後に、扉を開けて自分の家へと戻っていく。
閉じられた扉によって遮られた自宅はもとの静寂さを取り戻すが、不思議と嫌には感じなかった。
◆
拓也の家から戻ってきた唯は、自宅でシャワーを浴びながら今日の出来事を回想していた。
学校から帰ってきた途端にあの黒い悪魔と対峙したときにはどうなることかと思っていたが、終わってしまえば事は予想以上に嬉しい結果となって帰ってきた。
拓也と共に食べた夕食。久方ぶりに話し相手のいる中での食事は温かいものだったし、それは自分の中の寂しさを忘れさせてくれた。
そして何より、明日からはそれを毎日続けられるのだ。
もう一人で無機質な時間を過ごさなくてもいい。
その事実は唯の心を安心させ、彼への感謝で溢れてくる。
「…原城君」
彼の名前を呼ぶだけで、常に感じられていた疎外感は消え去り、この家で過ごす時間も明日への期待感で胸がいっぱいだ。
全身を流していたシャワーを止め、湯船に浸かって体の芯を熱で包み込む。
心地よい風呂の温度は唯の心まで溶かしていくようで、そう思えることがどんなことよりも嬉しい。
「明日は何作ろうかな。原城君の好きなものは……分からないや。…やっぱりお肉とかかな?」
頭に出てくるのは彼と過ごす日常のことばかり。
それは何だかむずがゆくも感じるが……そんなことは今の彼女にとって些細なことだった。
「楽しみだって言ってくれたんだし、私もそれに応えないとね。…よーし! 頑張ろう!」
一人の浴槽で小さな拳を突き上げ、決意を宣誓する。
これまでの感情の移ろいはどこへやら。
そんなもの知ったことではないと言わんばかりの意思は、唯の心を晴れやかにしていくのだった。
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