第十六話 手料理の準備


 その後も軽い談笑を交えながら窓ふきを続け、一通りの作業が終われば拓也は大きく伸びをした。


「くぁー……。終わったな…」

「お疲れ様! ごめんね? 私がやるところまで任せちゃって……」


 自分の負担を押し付けてしまったとでも思っているのだろうか。

 申し訳なさそうに眉を下げているが、こんなもの負担でも何でもない。


 そもそも唯は他人の家の手伝いに来てくれている立場なのだから、謝罪をするとしたらこっちの方だ。


「それを言うならこっちもだ。わざわざうちまで来て掃除までしてくれるなんて、感謝してもしきれない。ありがとな」


 本心から感謝の意を込めて礼を言えば、彼女にもその気持ちが伝わったようで満面の笑みを返してくれた。

 その笑顔は何よりも嬉しそうなことがよくわかるほどにご機嫌さを表しており、雰囲気も相まって可愛らしさがあふれ出ていた。


「全然いいよ! 私も掃除のしがいがあって楽しかったし……こういう達成感はなかなか味わえないからね」

「同感だな。こんだけ綺麗にできたっていうのが実感できて気持ちいいくらいだ」


 床に余計なものが落ちておらず、それどころか埃さえ見えない。

 まるで新築かと錯覚してしまうほどに片付けられた部屋は見ているだけで居心地の良さを直感させ、拓也たちの努力が報われたことを示している。


 大半は唯の的確な指示によるものだったし、拓也がしたことはせいぜいが力仕事くらいだったが、それでも満足だ。


 …これで彼女の用事も終わりかと思うと少し寂しくもあるが、これ以上引き留めるわけにもいかない。

 せめて見送りくらいはきちんとこなそう。


「ならそろそろ帰るか? もしよかったら家まで送るが」


 時計を見れば時刻は十七時。帰るのにもちょうどよい時間だろう。

 そう思って彼女に帰宅するかどうかを問うてみれば、なぜかキョトンとした顔になっている。


「え? ご飯も作ってないし、まだいるよ?」

「…え?」


 予想だにしていなかった回答に、拓也の方が呆気に取られてしまう。

 理由は分からないが、いつの間にか俺たちの間で齟齬が生まれていないか?


「だってもう掃除は終わったし…秋篠がうちにいる理由はないだろ?」

「確かに掃除は終わったけど、もともと私はご飯を一緒に食べようと思って来てたんだよ? 最初に言ったでしょ?」


 …やはり認識がかみ合っていない。

 秋篠は始めから俺の家で夕食を食べていくつもりだと言っているが、俺はそんなことを聞いた覚えは………


 そこで気が付いた。

 拓也が唯の家に上がって虫を退治した後、彼女がお礼と言って口走っていた内容。


『え、えぇっと……。つまりお礼として今日のご飯でも一緒にどうかなーって思ったんだけど……どうかな?』


 …うん。ばっちり言っていた。

 冷静に振り返ればしっかり言われていたし、他ならぬ拓也自身もそれに同意している。


 流れが怒涛すぎたのと掃除の充足感で忘れかけていたが、そうとなれば今更帰すような真似もできない。

 この流れに身を任せるしかないな。


「ひょっとして忘れてた? ひどいなぁ……。私だって勇気を出して提案したのに……」

「ごめんて。ただ俺の家に何かあったかな……」


 拓也の家で夕食を食べることは構わない。

 それを迷惑とも思わないし、久々に自分一人ではない食事を楽しみにしていることも否定はしない。


 しかし問題が一つあり、それは現在拓也の家にまともな食材が無いということだ。

 唯が料理をしてくれるというのは願ってもないことだが、肝心の材料がなければその腕は振るえない。


 なので、今家にあるわずかな食糧たちをかき集めて何かできないかと思っていたのだが、拓也の漏らした発言を聞き逃さなかった唯の目が鋭く光った気がした。


「…原城君、普段は何食べて過ごしてるの?」

「いつもはまぁ……適当に惣菜をスーパーで買ったりして食べてるな。俺って自分で料理とかできないから」

「それじゃ栄養だって偏っちゃうよね? 体だって壊しちゃうかもしれないし……よし! なら今日は全力で料理作るよ!」


 食事を作ってくれるのはありがたい。

 だが拓也が懸念しているのは、料理を作ることが彼女にとっての負担にならないかということだった。


「それは嬉しいけど……大変じゃないか? 二人分も作るなんて」

「そうでもないよ。日頃から自分で食べるものは自炊してるし、一人分を作るよりも二人分の方が楽なくらいだしね!」

「そう、なのか。それならいいんだけど……」


 見た感じ俺を心配させまいと無理を言っているようには感じられない。

 彼女の言う通り、一人の量が追加されようと手間自体はそこまで変わらないのだろう。


「…うん。なら料理をお願いしてもいいか?」

「はい。任されました! …とりあえず、材料はどうしようかな。今から買い出しに行ってもいいけど、時間がちょっと遅くなっちゃうよね」


 顎に手を当てて考え込む唯。

 現在時刻が十七時であることを考えれば、そこからスーパーに向かい買い物をし、自宅に戻って料理に入るとなるとそれなりに時間がかかってしまう。

 しかし我が家にまともなものが無いとなると、それ以外に選択肢はないだろう。


 そんな拓也の考えとは裏腹に、唯はまた別のことを考えていたらしい。


「そうだねぇ。ひとまず今日のところは、私の家から材料を持ってくるよ。それで済ませちゃおうか。こっちにお米ってあるかな?」

「米は常備してあるから置いてあるぞ。材料代も、後からちゃんと払うから安心してくれ」


 飯をご相半にあずかる以上、こちらも消費する分は返さなければいけない。

 当然の申し出ではあったが、それを聞いた唯は嬉しそうに表情を崩す。


「気にしないでいい、って言いたいけど正直助かっちゃった。生活費もあんまり無駄遣いはできないからね」

「親から支給はされてるけど、それを使い荒らすつもりはないしな。必要なところはしっかり使うけどさ」

「……うん、そうだね」


 先ほどと同じだ。親の話題を出した途端に彼女の表情が曇ってしまった。

 一度見た光景ではあったが、やはり親との折り合いが悪いのだろうか。


 唯自身も自分のテンションが下降したことを自覚していたのか、それを無理やり隠すように上げた声で誤魔化そうとしている。


「…それじゃあ私、家から材料取ってくるね! お米だけ炊いててもらってもいいかな?」

「了解だ。それくらいならできる」


 誰しも触れられたくない領域はある。

 そこに無遠慮に踏み入るつもりはないし、彼女自身が聞かせてくれるのなら話は別だが、そうしないというのは聞かれたくないということ。

 ゆえに、この話題を掘り下げるつもりはないし深く聞き出すこともない。


 今は米を研いで炊飯の準備を整えておこう。

 慌てて家から出ていった唯の後ろ姿を眺めながら、拓也はそう思った。




「戻ってきたよー! お米のセットはできた?」

「おう。こっちのセッティングはできてる。あとは主菜だな」


 すっかり調子を取り戻したように見える彼女の様子に安心し、再び戻ってきた唯を出迎える。

 小脇に抱えられているバッグにはのぞき見えるくらいに野菜などの食材が詰め込まれており、少し乱された息から走ってきたのが分かる。


「そんな焦って来なくても……。もっとゆっくりでも良かったんだぞ?」

「そんなことしてる間にも時間はどんどん過ぎていっちゃうからね。料理も少し時間がいるし、なるべく早く食べたいでしょ?」


 まるで試すかのようににやりと浮かべられた笑みに、拓也は乾いた笑い声を上げながら降参の意を示す。


「あぁ、もう待ちきれないよ。楽しみにしてる」

「ふっふっふ。よろしい。最高のメニューを出してあげるよ!」


 どこまでも楽し気にころころと笑う唯の姿は、学校で見せる姿とはまた違った魅力があり、それは彼女も他と変わらない女の子なんだと実感させられる。

 当たり前のことだが、こうして素の表情を見せられるとどうあっても感情が揺さぶられるようだ。


「そういえば献立は勝手に決めちゃったけどいいかな? 嫌いなものとかあった?」

「好き嫌いは得にないな。よほどのゲテモノだったりすれば食うのは難しいと思うけど、大抵のものは大丈夫だって自負はあるよ」

「よかった。今日はシンプルに肉じゃがでも作ろうかなって思ってたからさ。それなら安心して作れるよ」


 拓也は料理に関する好き嫌いはほとんどない。

 昔っからいろんなものを食べる機会があったので、そこで幅広いジャンルのものを食してきたが、どうしても無理だというほどのものにはまだ出会ったことはなかった。

 幸いアレルギーなんかもないので、ほとんどのものは食べられる。


 しかし……肉じゃがか。懐かしいな。

 実家にいたころには母親がよく作っていて食べていた分、一際思い出深い品目でもある。

 それが一人暮らしを始めてからはぱたりと食べる機会をなくしていたので、少し感無量だ。


「早速作ろうか。原城君は部屋で休んでていいよ」

「手伝えることがあったら手伝いたかったけど、あいにく戦力外だしな……。邪魔しないようにするよ」


 彼女一人に任せっきりにするのは本当は良くないことなのだろうが、俺の家事能力の低さは料理にもしっかりと活かされている。

 戦力外どころか確実に足手まといになる未来が見えきっているので、キッチンからは退散しておこう。


「こういうのは適材適所だからね。楽しみに待ってて!」


 そう言ってキッチンに入っていく唯の言葉に甘えさせてもらい、俺はリビングにあるソファに座って完成まで待つ。

 リビングから見えるキッチンには普段では見ることのできない景色が見えており、少しくすぐったさを覚える。


 料理に着手し始めた唯は自宅から持ってきたのであろうエプロンを身に着けて、その長い髪を縛っている。

 恰好を整えた彼女はバッグから食材を取り出し、いよいよ本格的にその腕を発揮し始めた。


 いつもであれば何の音も響くことのなかったキッチンから、食材を切る音や煮える音が聞こえてくる。

 見慣れないはずのその日常は、不思議なことに段々ととても自然なことのようさえ思えてくる。


(家族が出来たりしたらこんな感じなんだろうな……。…なんか急に眠くなってきちまった)


 慣れないことをしたことで疲弊していたのか、一息ついたことで唐突に拓也の瞼が重くなっていくのが分かった。

 もたらされた眠気に逆らうこともできず、拓也の意識は闇に吸い込まれていった。

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