第三話 友との語らい
「喉いてぇ……」
朝。目覚ましが鳴ったと同時に意識を覚醒させれば、開口一番に出てきた言葉はそれだった。
激痛、というほどではないが鈍い痛みが喉全体に広がっており、何かおかしなことでもしたかと昨日を振り返ってみれば……心当たりしかなかった。
あれだけの雨に打たれれば調子を崩すことなんて当たり前に考えられたことであり、今回もそれが来ただけとはいえ、実際にこうも体調を崩してしまうと、自分自身に落胆せざるを得ない。
「風邪ひいたな、間違いなく。体温計どこやったっけな…?」
リビングに体温計か何かをまとめて置いておいた記憶があるので、ひとまずベッドから降りてそれを取りに行く。体を動かしてみると体のだるさや重みなんかはなく、症状は喉の痛みだけのようなので、比較的軽い方だったのかもしれない。
だがそれだけでは油断はできないので、しっかりと体温は測っておく。これで熱があれば学校は休まなければいけないが、果たしてどうか……。
「あれ、結構低いな。昨日早めに風呂入ったのが良かったのか?」
測った結果は三十六度七分。日常生活と比べれば高めの体温ではあるが、風邪の症状が出ていることを加味して考えれば十分平熱の範囲内だ。
これくらいならば学校に登校していける範疇だろう。…けれど周りに風邪を移してしまっては悪いので、マスクは付けていくか。
「ならちゃっちゃと準備して行こう。あまりのんびりしてる時間もないしな」
時計を確認すれば時刻は七時。高校までは歩いて十五分程度の距離なので、身支度をする手間を考慮してもギリギリ間に合うだろう。
早速ついた寝ぐせを直しに洗面所へと向かい、登校の支度を整えていくのだった。
◆
「ははははっ!! そんなことがあったのかよ!」
「…何笑ってんだよ。こちとら苦労しまくったんだからな」
特に体調が急変するといったアクシデントもなく、無事に学校に来れた俺は昨日の事のあらましを友人に話していた。
そうして話した結果、盛大に笑っているこいつは
俺から見たらただの馬鹿野郎なんだが、やはり女子と男子では相手を見る目というのは変わるものなのだろう。
高校に入ってからできた友人ではあるが、それなりの信頼関係を築けていると思うし、口には出さないが俺もこいつのことは信用している。
特に入学直後のタイミングで話を振ってくれたことには今でも感謝しているし、こいつも人のプライバシーに関する領域にはずかずかと踏み込んでくることはないため、俺としても接しやすい。
「だってよぉ……あの拓也が、女子に傘を貸した上に自分は濡れて帰って風邪ひいたって……ぶふっ!」
「おいこら、笑いが漏れてんぞ」
恨みがましく颯哉を見つめていれば、あいつも両手を掲げて、「悪い悪い」と反省した様子もなく告げてきた。
…ったく、人が苦労したことを笑いやがって。
「まぁ風邪がきつくなったら遠慮なく行ってくれ。それと、冗談はここまでにするとしても、なんか心境の変化でもあったのか? 全く女っ気のなかったお前が自分から女子に絡むなんて」
「そういうわけでもねぇよ。ただあの状況で秋篠を見捨てていくのは後味が悪いから傘を譲った。ほんとにそれだけだ」
「ふーん…? 俺から見たらそれだけとは思えんがな」
「…どういう意味だよ」
「いや、お前がとうとう本腰を入れて彼女をつくる気になってくれたのかと」
「マジで引っぱたくぞ」
「いやん、やめて! …っとまぁ、おふざけはこんなとこにしておこう」
気色の悪い動きで俺のビンタを回避したかと思えば、今度は唐突にまじめな顔をしてきた颯哉の表情に、俺は思わず自身の手を引っ込める。
「俺も嬉しいんだよ。四月の頃はあんなに他人と関わるのを拒否してたのに、ようやく他のやつらと関わるきっかけになるんじゃないかってさ」
「…確かに、秋篠とは少し話したけど結局それだけだぞ? そんな進歩なんて言えるほどでもないだろ」
「いーや! お前は自覚してないかもしれないが、今までのお前からしてみれば考えられないことだったろ?」
「そりゃそうだけど……」
大々的に言うことではないが、四月の入学式の段階では俺の内心はかなり荒れていた。なるべく他人との関わりを断とうとし、常に一人でいることを心から望んでいた。
そんな荒んだ状況で手を差し伸べてくれたのが、颯哉だったのだ。こいつは他にも話し相手などいるだろうに、なぜか俺に対してつるんできたかと思えば無理やりあちこちに引きずり回していった。
構う理由を聞けば、『お前が一番性格合いそうだったからな!』なんて気の抜ける答えで返され、わけのわからない状況が続いていた。
当初はそんな言動に意味がわからなかったが、それを一か月も繰り返す頃には颯哉の底抜けの明るさに魅せられ、俺も少しずつ笑えるようになっていき、今の状態に至るというわけだ。
「多少は人との会話も取るようになってきたけど、まだ自分からコミュニケーションを円滑に進められるかと言われれば、まだ無理だしな……。そんな簡単に克服はできやしないさ」
「だろ? そこで秋篠さんだ。お前が自分から話しかけられるって言うんなら、あの子と接するのも嫌ではないってことだよな?」
「まぁそうなる……のか?」
確かに昨日話しかけに行った際には、いつものような嫌な感じはしなかった。それが快方に向かっているのかどうかは微妙なところだが、少なくとも悪い結果につながっているとは思えないということも事実だった。
「なら秋篠さんと話してみればいい。そしてあわよくばお付き合いしてこい!」
「馬鹿か」
「なんでだよ!?」
前言撤回。やはりこいつは単なる馬鹿でしかなかった。俺と秋篠が付き合うだ? できるわけないだろう。
まず彼女との接点が皆無なうえ、俺程度では到底釣り合うような人間ではない。そんな無謀なことが現実になるなど、天地がひっくり返ってもありえないと言える。
「いいじゃねーかよー。拓也も彼女つくって俺たちとデート行こうぜ?」
「やっぱりそれが狙いかよ……。何で彼女持ちのお前に合わせて、俺まで彼女つくらなきゃいけないんだよ」
「それは当然! お前とダブルデートをしに行くのが夢だからさ!」
「聞いて損したわ……。…あのな、そんな目的で彼女を作ろうだなんて考える方が相手に失礼だし、どっちにとっても不幸な結果になるだけだろうが」
「…お前って、あまり喋らないくせに実際はかなり紳士的だよな」
「これくらい当たり前のことだろ。なんにせよ、俺に彼女なんてできっこないからその夢は諦めろ」
「嫌だ! 俺は諦めないからな!」
どこまでも執念深い友人の発言に思わず溜め息が漏れそうになる。俺のためを思って行動してくれることは素直にありがたいが、こいつの場合それが度を過ぎることがあるからなぁ……。
いつか俺にふさわしい相手だ!とか言って、名前も知らない女子を連れてきそうな勢いすら感じさせてくる。
…うん。そんなことになったら全力で背中を蹴っ飛ばしてやろう。そうでもしなければこいつも目を覚まさないだろうし、それが俺にとってもまだ見ぬ相手にとっても幸せな結末になる。
そんな強行は決してさせぬように目を光らせておこうと決意を固めたところで、教室の扉が開いた。
何とはなしにそちらの方向を向いてみれば、そこにいたのは……今しがた話題に上がっていた秋篠だった。
そして秋篠が教室に入ってきた瞬間に、この場の雰囲気は一気に盛り上がり、彼女の周囲は仲の良い女子たちで埋め尽くされていった。
まさに人気者の宿命と言わんばかりの人混みだが……若干困ったような表情をしているのは気のせいか?
「相変わらずすげー人気だよなぁ、秋篠さん。俺にはもう真衣がいるから何とも思わんが、あの愛らしさなら周囲が放っておくまい。…で、今のを聞いて何か感じるものはあったか?」
「あるわけねぇだろ。…それにしても、少しくらいそっとしてやればいいのにな。あれじゃ荷物を置く時間もないだろ」
「そこで俺も話しかけようという考えが浮かばないお前を蹴っ飛ばしてやるべきか、他人を気遣える優しさを褒めてやるべきか……。今回は長所として捉えておくよ」
「そうしてくれ」
そんなどうでもいい会話をしながら、ちらりと秋篠の方に目をやる。まだ集団の中心に置かれている彼女はその笑みを絶やすことなく周囲と話し続けている。
その根性がどこから湧いてくるものなのかは分からないが、真似をしてみたいとは思わない。
(常に笑顔で周りの意見を聞き続けて、時には面倒ごとにも巻き込まれる。…疲れそうな役回りだな)
内心、彼女に少し同情してしまう。見た目麗しい彼女に周囲は引き寄せられてくるが、そこで求められるのは完璧な立ち回りだ。俺なら確実に破綻しているし、それをこなし続けているさまには尊敬の念も抱くが、それ以上に彼女の心身にはとてつもない負担がかかるだろう。
一つ間違えれば責められるのは分かり切っているし、そんな重責をあの小さな両肩で支え続けるなんて、尋常なんて言葉では到底足りないほどの努力が必要だろう。
そしてガス抜きをしようにも、周囲は彼女を持ち上げる人間だけ。…はっきり言って地獄のような環境だ。
そんな哀れみの意を込めて秋篠を見てやれば……気のせいかもしれないが一瞬、彼女と目が合った気がした。
(ん? 今目が合ったか? …でも今秋篠はあいつらと話してるし、そんなことは……)
あまりにも短い時間だったため確証はないが、合わさった視線の中には……不安と憂慮の感情が詰め込まれている気がした。
なぜそんなことを思ったのかは俺にも理解できないが、なんとなく、それは外れていないような気もした。
「なー。やっぱし秋篠さんて結構いいと思うんだけど、どうよ?」
「黙っとけ」
ちなみにまだふざけたことを抜かしている颯哉は無視しておいた。いい加減諦めることを覚えろ。
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