第四話 誰かの手助け


(…っ…やばいな……本格的に体調が悪くなってきたか…?)


 現在は六限の授業を受けている真っ最中であり、あと十分もすればこの授業も終わる。だがその時まで耐えられるか不明なほどに、俺の体温が急上昇しているのが分かった。

 おそらく、これまでの症状はまだ風邪の細菌の活動が活発になっていなかった状態のもので、ここにきてそのタイミングが訪れてしまったのだろう。


 症状も喉の痛みだけだったはずだが、今は頭痛や体のだるさまで加わってきており、その辛さは先ほどの比ではなくなってきた。

 授業時間は残り僅かだし、耐えられないこともないだろうが、この苦痛がまだ続くのかと思うと気が滅入りそうになる。


(早く終わってくれ……!)


 心の中で、絶え間なく襲い掛かってくる風邪の猛威と戦いながらそう願う。

 その後も何度か辛さのピークを迎えて意識を落としそうになるも、それだけは気合いでこらえて場をしのぐ。


 幸い授業は延長されることもなく時間内に終わり、そのままホームルームへと進んでいった。




「おーっす。体調は大丈夫か…って、めちゃくちゃ顔赤いじゃねぇか!」

「…いや、参ったよ。ここにきて…急に悪化しやがった」

「すぐ保健室行った方がいいだろ! 待ってろ、とりあえず担任に報告してくっから……」

「大丈夫だ…。こんくらいならまだ耐えられる範疇だし……自力で家にも帰れる。帰ったら病院にでも行ってくるよ」

「けどお前…明らかにヤバいだろ…」


 少し強がっていることは否めないが、自分で体感した限りではまだ耐えられるという確信があったのだ。こんなザマを見せては説得力など皆無だが、それでもまだ心配してくれている颯哉を説得する。

 かなり渋られてしまったが、こちらが折れない様子を見てようやく向こうも妥協してくれたようだ。


「…分かったよ。ならせめて、やばいと思ったらすぐにでも連絡しろ。それだけは約束してくれ。ほんとは俺が送っていけたらよかったんだが……部活が入っちまってからな…」

「…あんま気にしなくていいし、そん時はしっかり伝える。約束するよ」

「…あぁ」


 颯哉はバスケ部に所属しており、体育会系ということもあってその練習の日程の頻度も高い。さすがにこいつの部活動が終わるまでは待っていられないし、そこまでの余裕がないことは理解しているのだろう。

 時折馬鹿なことをやらかすやつだが、その本質は友人思いのいいやつだ。熱に侵されている頭でそれを再確認した俺は、自席で体を休めていくのだった。




 そうして少し経ってからうちのクラスの担任が教室に入ってきて、皆に席に着くように促す。帰りの時間を先延ばしにしたくない気持ちは誰でも同じなようで、それぞれが大人しく席に戻っていく。

 全員が着席したことを確認してから、担任の浅井あさい風香ふうかが事務連絡を口頭で話していく。熱で回らない頭では理解するのに時間を要したが、そこまで重要な話題は出されなかったようなのでそれだけは安心した。


「さて、連絡はこれくらいだが……お前ら、最近雨続きだからな。くれぐれも体冷やして風邪なんて引くなよ」


 …おそらくちょっとした注意喚起として言ったことなのだろうが、それは今の俺に刺さってしまう。

 このタイミングで、しかも浅井先生の言った通りの内容で風邪を引いているなんて、惨めで仕方がない。


 早急に治そう。うん、そうしよう。

 脳内で一刻でも早くこの体調不良を完治させることを誓い、ホームルームが終わる時を待つ。


 事務連絡さえ終わってしまえばあとはこっちのものだ。

 残っているのはちょっとした雑談くらいのものであり、それさえ済んでしまえばもう帰宅をするのみ。

 あと少しの辛抱。それを支えにこの体に広がる熱にも根性で耐え抜いていった。




「終わったか……。じゃぁ颯哉、俺帰るから…」

「おう。…まじで帰り道気を付けろよ!」


 背中越しに手を振り、教室に残っていた颯哉に別れを告げる。

 何とか返事を返してやりたかったが、もうその気力さえ残っていない。とりあえずこの土日で死ぬ気で体を休ませ、来週に健康な姿を見せてやろう。

 それであいつも安心させてやれるはずだ。


 力が抜けていきそうな足を無理やり動かして歩いていく。

 その時、俺は一秒でもすぐに帰るという意識に囚われており、その様子を見ていた秋篠の視線に気が付くことができなかった。





     ◆





「げっほ! ごほっ! …咳まで出てきたのかよ。順調に、悪化してるな」


 帰り道の途中。俺は着々と進行している風邪に苛まれながらも、自宅まであと半分といった場所まで来ていた。

 …のどの痛みに頭痛、熱と咳まで持ち込まれちゃもう疑いようがないな。完全に免疫がやられてる。


 正直、限界は近い。今も体を支える足はおぼつかなくなってきているし、少しでも気を抜けば倒れちまいそうだ。

 かといって、誰かに手助けを頼むということもできない。この辺は学校の生徒はほとんど通らない方向だし、周辺には一つの人影もない。


 ただでさえ昨日は孤独を感じてたってのに、ここでも感じさせなくてもいいだろう。そんなことをぼやきながら、一歩一歩慎重に足を前に出す。


(…ここで助けてくれるやつがいたら、なんて無駄な妄想だ。自分一人で帰るって決めたのは他ならぬ俺だし、問題ないと啖呵切ったのも俺だ。今更それを反故にしてどうするんだ…!)


 どれだけ苦しくとも、この状況を作ったのは誰でもない。拓也自身が選択したことだ。

 そこで弱音を吐くつもりはなかったし、甘えることなんて毛頭ないと思ったが……こうなってくると、手を貸してくれる誰かを無意識のうちに求めてしまうのは自然なことなのかもしれない。

 ───そして、そんな相手は意外と近くにいるものだ。


「はぁ…っ、はぁ…っ。…は、原城君! やっと追いついた……」

「は…? 秋篠……?」


 振り返ればそこにいたのは、走ってきたのか息を荒く吐き出している秋篠が立っていた。相変わらず小柄な身長とそれに比例するように小さな肩を大きく上下させながら、いつの間にか俺の後ろに来ていたようだ。


「何でお前がここに……げほっ! …あんま近寄らない方がいいぞ。今風邪ひいてるからうつしちまう」

「…うん、それは知ってる。舞阪君に詳しい事情を聞いたから……」

「颯哉が……?」

「…勝手に話を聞いちゃったことはごめん。でも、なんだか朝から具合が悪そうだったし……ずっと、これを返したかったから」


 そう言って差し出されたのは、昨日俺が秋篠に貸した傘だった。昨日の今日で律儀なことだが、今はそのことに構っていられるほど万全の状態でもなかった。

 …しかし、せっかく俺を追いかけてまで手渡しに来てくれたんだ。その好意を無碍にするというのも彼女に対して失礼だろう。


「…あぁ。ありがとな。これでお互いに貸し借りはなしだ」

「待って。まだ傘のお礼ができてないし……原城君、熱出してるよね? しかも多分、私のせいで」

「…確かに熱はあるけど、そんなひどいものでもないさ。心配してくれるのはありがたいけど、気にしなくていい」

「嘘つき。今にも倒れそうなくらいきついことは見ればわかるよ。……ほら、つかまって? 家まで一緒に行くよ」

「……は? そんな、つかまれって……」

「もしかして、頼りないと思われてる? そりゃ背は小さいけど、こう見えても人一人くらいならいけるんだからね!」

「そうじゃなくて! …何でそこまでしてくれんだよ」


 思わず大きな声も出てしまうが、今の拓也にはなぜ秋篠がここまでしてくれるのかがわからなかった。

 昨日の件に恩義を感じているのなら、別に礼なんて返さなくてもいい。そもそもあれは物の貸し借りをしただけであって、傘を返された時点で終わったことだ。

 だからこそ、彼女の行動が理解できない。そう思っての問いかけだったのだが……秋篠の答えは、非常に簡潔なものだった。


「何でって言われても……。傘のお礼っていうのもあるし、あとは単純に苦しそうな人を見捨ててはおけなかったってだけだよ。…君とおんなじでしょ?」

「……!」


 その一言で理解した。彼女もまた、俺が困っている様子を見て手を差し伸べてくれているだけなんだ。…ちょうど、俺が彼女にやったように。

 俺が彼女を助けたのには大した理由なんて無かった。せいぜいが後味が悪そうだ、なんて雑な言い訳があった程度のもの。それを言い返されてしまえば、もう俺に言い返す余地なんて残されているはずがなかった。


「…分かった。なら、傘の礼ってことで肩を貸してくれ。…体を触られるのが嫌だとかだったらやめるけど」

「恩人にそんなこと言わないよ。はい」

「悪いな……」

「いいんだよ。それで、家の方向はどっち?」

「こっからすぐのところにあるマンションだ……あのあたりだな」


 俺の自宅があるマンションの方向を指させば、秋篠も理解したようで首を縦に振っていた。

 先ほどと同じように、家までの道のりを一歩ずつ進んでいく。


 ただ先ほどとは違い、誰かが支えてくれている俺の足取りは軽くなっていったのだった。

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