第二話 自宅での一幕


 やっとの思いで自宅のあるマンションにまでたどり着き、エレベーターで七階まで移動する。

 …想像していたよりもはるかにびしょ濡れになってしまった。ここまで濡れるとは思っていなかったので後が怖いが…今はとにかく早くのんびりとしたい。

 そんなことを思っている間にも、階数指定のボタンを押す手は若干震えており、それが冷えのせいなのかはたまた体調不良の前兆なのか、今の俺には判断がつかなかった。


 とにかく今日はなるべく早く風呂に入って温まった方がいい。明日は金曜日で学校があるが、明日さえ乗り切ってしまえばゆっくり体を休めることができる。

 そう考え、自分の住んでいる家まで近づいたことを知らせてくれたエレベーターが開いたことを確認し、足を進める。


 …足元がおぼつかない。制服が濡れて重いからか? いや、何だか体全体が重い気もするが……。

 俺の住んでいる部屋はエレベーターから一番近い距離に位置しているため、普段ならば数秒でたどり着ける場所のはずだが、今は何だかその距離がひどく遠くにあるように思えた。


(頭が働かないし……っと、そうだ。鍵出さないと)


 当たり前にやっていることですら忘れそうになってしまっているこの現状。さすがに本格的にヤバいかもしれないと本能が感じ取り、それに伴って気分も重くなっていく。

 何とか残った体力を絞り出し、家の鍵を回して扉を開けることができた。

 ようやく帰ってくることができた家は、電気が消された状態で閑散としており、自分の荷物が散乱している空間には、わかっていることだが人の気配は感じられない。



「……ただいま」


 帰ってくることはないと理解していても、思わず口にしてしまう帰宅の合図。当然返答などあるはずもなく、その声は闇に吸い込まれるだけ。

 …もう慣れたはずだが、こういう時はダメだな。気分が下がっている時なんかは特にだ。


 一人暮らしを始めてから二か月と少し。両親から与えられたこの家で生活をしてからある程度は経ったはずだが、やはりふとした時に人の気配を探してしまうのは、人間の本能からくる行動なのだろうか。

 俺が高校生の身で一人暮らしをしているのは、別に両親との関係が悪いからとか、そういうことではない。むしろ両親には常日頃から感謝しているし、自分のわがままで家まで用意してくれたことには申し訳なさを感じてしまう。


 ただ、そこまでのわがままを言ってでも、俺は地元に残る選択はできなかった。もうあの時のようなことは───



「…って、何を考えてんだかな。俺は」


 気が弱くなったことで余計なことまで思い出してしまっているようだ。もうケリをつけているあのことは、俺には関係のないことだというのに。

 とにかく体を温めよう。こんなずぶ濡れではいつ体を壊してもおかしくない。


 玄関先で学校指定の鞄を下ろし、常備してあるタオルを使って雨に打たれてしまった箇所を拭いてゆく。鞄の中身にまでは浸食してないみたいだな。そこは良かった。

 被害を受けたのは外側だけだったようで、中の教科書類は直接的な影響を受けなかったらしい。

 これで中身にまで水が届いていれば、また面倒なことになることは必至だった。そこを避けられただけでもとりあえずは良しとしておこう。


 鞄を拭き終えれば、次は制服だ。ズボンの方はまだ撥水機能が働いて被害は軽い方だが、甚大なのは上のワイシャツの方だった。

 常に体の汗を吸収できるようにと設計されたシャツは、その性能をこの場面でも遺憾なく発揮し、盛大に水滴を吸い込みまくっている。


「…これは一回絞った方がいいな。じゃないと洗濯どころじゃないだろうし」


 玄関先ではあるが、誰が見ているわけでもないのでここで脱いでしまおう。そう思って不快だったワイシャツを脱ぎ捨てれば、少しではあるがすっきりとしてきた気がする。

 さすがに外で服を絞るわけにもいかないので、洗面所で水を流してしまえばいいだろう。ちょうど洗濯もしたかったし、風呂も沸かさなければと思っていた。


「そうと決まれば早速……うおっ!? あ、危なかった…。危うく踏むところだった…」


 服を抱えて一歩踏み出せば、もう少しのところで床に放置されていた雑誌の束を踏みつけるところだった。

 褒められたことではないが。俺の自宅は乱雑という単語がぴったりだと思えるレベルには散らかっている。洗濯が終わった後にそのままの状態で置かれている衣服だったり、もう読まなくなってしまった本をまとめた束であったり。


 種類は様々だが、常に足元に注意していなければならないくらいには散らかっている。何度も片付けようとは思っているのだが、なかなか踏ん切りが付けられないままで今に至っている。

 …やっぱり片付けたほうがいいよな。面倒くさいけど。


 面倒という感情が先行してしまいいつも片付けに踏み切ることができないが、今のようにうっかり踏んで滑りでもすれば怪我をするのは俺だ。

 そんな展開はまっぴらごめんだし、今度片付けよう。

 結果の伴わない可能性の方がはるかに高く存在しているが、そこは気にしない。やると決意することが重要なのだから。


 そのまま玄関から入ってすぐ右にある洗面所に進み、流しの上で先ほどまで自分が着ていたシャツを絞る。やはり相当量の水分を含んでしまっていたようで、少し力を込めるだけでもかなりの量を出せた。


「こんなんじゃ体も重く感じるわけだ……っとそうだ。今のうちに風呂も沸かしておかないと」


 シャツからある程度水滴を出し終えたのを確認し洗濯機の中へと放り込んでから、風呂を沸かすための用意を整える。

 今は帰ってきたばかりなので自覚していないだけかもしれないが、確実に体は冷え切っている。すぐにでも風呂に入った方がいいだろう。


「着替えあったかな……。これでいいか」


 洗濯機の近くに放置されていた衣服の山から適当なものを見繕い、着替えを用意する。あとはタオルや下着なんかだが……それらは確か、クローゼットにしまい込んでいたはずだ。

 服に関してはずぼらに放り投げてしまっているが、ああいった小物程度ならば気が向いたときにまとめて整理は行っている。

 …ならば他の服もきちんと片付けろと言われるだけなので、それについて言及することはないが。


(母さんがこういうのは結構言ってくるからな。少しでもしっかりやっておかないと、また心配かけちまう)


 今は離れた場所で暮らしている両親だが、こうして一人で生活するようになるまでは何かと言われていたものだ。明らかに自分が悪いことは分かっていたので、お小言にも従っていたが一人で暮らしてみるとその言葉の重みもよくわかってくる。

 何気ない家事から俺の面倒まで、当たり前だと思っていたことにも多大な労力をかけてもらっていたという事実を痛感したため、本当に頭が上がらない。


 そうこうしている間に風呂も沸いたようだ。部屋にそれを知らせる音楽とアナウンスが鳴り響き、これで体を休めてやることができる。

 長かったように感じられた帰宅のせめてもの御褒美だ。今はゆっくりと堪能させてもらうとしよう。




「…しまった。スーパーに寄ってくるのを忘れてた」


 風呂から上がり、夕飯でも食べようとした時、俺は自分のしていたミスを思い出した。もともと家の食材たちが心もとなかったため、最寄りの食料品店で買いこもうと思っていたのだが……秋篠の件で完全に忘れていた。

 今から買いに行こうにも、外を見れば雨の勢いは増しており、テレビをつけてニュースを見れば記録的な豪雨だと言っている。


 身から出た錆でしかないので、今日のところは諦めるしかない。一応のことを思って買いこんでいたカップラーメンが棚に備蓄してあるはずだし、それを食べてしのぐしかないな。

 台所にあるものだけでは調理の材料には足りないので、また明日行かなければいけなくなってしまった。なるべく体を動かしたくないと思っていた矢先にこれだよ……。


 落ち込みながら台所に向かい、ポットでお湯を沸かし、お湯を沸かしている間にカップラーメンを棚から取り出してその封を開ける。同封されていたスープの素と乾燥状態にされている具材を投入すれば、あとは時を待つだけだ。

 非常に手軽な点はありがたいし、これで味も美味しいのだから文句もない。ただやはり、こういう時には人の手で作られた料理の方が恋しくなってしまう。


 …こうして無言で待っていると、余計なことを考えてしまいそうになるな。


(秋篠は、無事に帰れたのか? 傘は渡せたしまさか濡れたなんてことはないと思うけど、万が一があるからな……)


 待っている間の気晴らしに、さっき自らの傘を渡した女子である秋篠について考えることにした。

 今日初めてまともにあいつと会話をしたけど、噂通り綺麗な顔立ちをしていたし皆が騒ぎ立てることにも納得はできた。

 ただそれはあくまで周りの評価であって、俺自身にはそこまで響かないということまで分かってしまったのは、少し誤算だったが。


 でも、あいつとの関わりなんてそんなものだ。始めから俺たちに接点なんて無かったのだから、今日が少し変わっていただけのことで、その縁がなくなれば話す機会なんて消滅する。

 また明日になれば普段のクラスメイトの間柄に戻り、まともに会話をすることもない微妙な関係に逆戻りするだけ。それだけだ。


 たかが傘を貸しただけで、あんな人気者との距離が縮まるなんてことはない。妙な夢を見るつもりはないし、そんなことに期待することもない。

 そもそも学校でも屈指の人気者と、パッとしない俺なんかでは釣り合うわけもないのだから、それなら最初から現実を見据えていた方が建設的だ。


 そのタイミングでちょうど熱湯も湧きあがり、俺は思考を中断させる。今後関わることもないであろう相手のことよりも、重要なのは目先の夕食だ。

 器に湯を注ぎ、商品に書かれた指示通り三分間待った後に食していく。

 久しぶりの栄養補給ということもあり、中身はすぐになくなり食べ尽くしてしまった。


 食べ終わった後のごみはゴミ袋へと放り込み、使っていた食器は軽く洗ってから自然乾燥に任せておく。

 まだ時間は早いが、そろそろ寝てもいいかもな。時間にしてみればたったの数時間の出来事だったが、その濃密さが高すぎたおかげでもうへとへとだ。

 明日のためにも体力は残しておかなければいけないし、歯だけ磨いたらベッドに入ってしまおう。


 その後、手早く寝るための準備を進めて床に就く。疲れていないと思っていたが体は正直なようで、徐々に温まってきた布団の中で俺の意識は落ちていった。



 ───まさか後日、あんなことがあるとは思いもせずに。

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