堕ちる泥団子

そうざ

Falling Mud Ball

 僕は小学校の低学年だった。

 三つ年上の従姉は高学年だった。

 一人っ子の僕は両親に、お姉ちゃんが欲しい、と懇願した記憶がある。兄でも弟でも妹でもなく姉だったのは、従姉の存在が大きいかも知れない。


 休日の昼下り、僕達は小春日和の庭先で遊んでいた。

 従姉は泥団子を作るのが上手だった。丸めた泥をコンクリートの上で転がしながら徐々に大きくし、最後は縁の下の細かな砂をまぶして磨き上げる。真球と見紛うまでに成長したその表面は艶々で、美術品や高級なお菓子を連想させる程の出来栄えだった。

 僕が幾ら泥を捏ねてもこうは行かない。小石や木片が入り混じった歪な塊が量産されるだけだった。

「あっ」

「なぁに?」

「宿題があったんだ。やって来る」

 僕はそれだけ言って屋内へ急いだ。それは一世一代の演技だった。


 便意の忌避。

 何故、子供はこの不毛な価値感を植え付けられてしまうのだろう。学校で脱糞しようものなら、待っているのは理不尽な嘲笑だ。好きな時に好きなだけ大便をり出せるのは自宅だけ――だが、この日は事情が違った。

 正直にウンチをして来ると伝えても、従姉が僕をからかう事はないだろう。

 それでも僕は言えなかった。知られたくなかった。僕は従姉に憧れ以上の感情を抱いていた気がする。そんな相手に便意ひみつを打ち明けられる筈がなかった。


 実家のトイレは、便所と言った方が似つかわしい汲み取り式だった。板戸の嵌まった個室が二つあり、男性用と女性用、または小便用と大便用とに分かれていた。

 嘘を吐くにしても、オシッコをして来るとは言えなかった。小便と大便とではその所要時間が異なるからだ。宿題を理由にすれば、それなりの時間稼ぎが出来る。子供心にも名案だと思った。

 マヨネーズ容器の口みたいな所からめりめりと大便が生まれ、闇の底へと何処までも自由落下して行く。闇の底には無数の亡者が棲み付いていて、今か今かとお恵みを待っている――僕はそんな妄想をしながら便所の時間を過ごしたものだった。

 脱糞の儀式には後始末がある。個室の隅に積まれた四角い塵紙で尻を拭う。が、茶色い痕跡は中々消えてくれない。

 拭き取る。もう一枚。

 拭き取る。まだだ。もう一枚。

 拭き取る。足が痺れ始める。もう一枚。

 拭き取る。肛門がひりひりする。もう一枚。

 神経質な僕の滞在時間は、長くなる一方だった。


 ――ガタガタッ――


 不審な音に、思わず作業の手をめた。


 ――ガタガタッ――


 誰かが板戸の取っ手を動かしている。

 鍵は木片をスライドさせるだけの、乱暴にしたら壊れてしまうとも限らない、ちゃちな作りだった。


 ――ガタガタッ――


 父親は夜まで仕事だし、母親は僕達に留守を任せて買い物に出掛けている。もし母親が帰って来たのだとしたら、僕か従姉が入っていると直ぐに察するだろう。


 ――ガタガタッ、ガタガタッ――


 僕は、入ってます、の一言が言えなかった。息を殺すだけで精一杯だった。

 狭い個室の真ん中に色んな自分がしゃがんでいる。宿題をやっている筈の自分。生まれてこの方、大便なんかした事がないという顔の自分。決して成就しない憧れを抱き締める自分――。


 ――ガタガタッ、ガタガタッ、ガタガタッ――


 やがてそれは治まった。

 人が立ち去る気配は感じられなかったが、危機は去ったのだと胸を撫で下ろす僕が居た。

 

 何事もなかったような顔で庭へ戻ると、従姉はさっきと同じ場所に変わらずしゃがんでいた。

「宿題は?」

 従姉は手元の泥団子を見詰めたまま言った。

「終わった」

 会話が続かず、今度は僕の方から訊ねるしかなかった。

「ずっと泥団子を作ってたの?」

「うん」

「ここで?」

「うん」

「ほんとに?」

「どうしてそんなに疑うの?」

 従姉は不機嫌そうに言った。嘘を吐いているようには見えなかった。

 嘘を吐いたのは僕だ。嘘吐きに人を問いただす資格はないと思った。


 やがて母親が帰宅した。

 おやつに買って来てくれたのは、おはぎだった。出掛けに僕達の泥団子作りを見て、思わず手が伸びたらしい。

 暗い便器の底で、沢山の亡者が大口を開けて待ち構えている。蕾のような小さな穴から、真球の塊が生まれ堕ちる。我にこそお恵みをと乞い願う群の中に、僕の顔もあった。

 便所の板戸を開けようとしたのは誰だったのだろう。

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