第3話 「相州・小田原の朝飯」

 時衛門の運転するハリアーは、国道を小田原市街地へ向かう。

 目的地は小太郎の指示した蕎麦屋。そこは数十年以上も営業する蕎麦屋で、格式高い店というよりも庶民派の店である。立ち食い方式の蕎麦屋で、朝5時から営業している。そうして何十年間も早朝そうちょうから働く者の腹を満たしてきた。

 実はこの店、雷鳴も訪れたことがある。開店当初は若い夫婦が二人だけで切り盛りしていたが、その後は娘夫婦も加わり四人いたはず。そんなことを思い出しながら、蕎麦屋を楽しみにする雷鳴だった。


 釣り場の駐車場を出発して15分ほど。目的地の蕎麦屋へと着くハリアー。

 朝の時間帯でも蕎麦屋は繁盛していた。国道沿いから小田原の市街地へ入ってすぐの立地。店の駐車場はたいした駐車スペースが無い。ミニバンサイズの車を10台停車させたら満車。そして、現状は満車状態だった。

「こりゃあ、どうするかな?」

 駐車場を目にして、一瞬困った表情をする時衛門。

 だが、偶然にも建設資材を山盛りにした2tトラックが店の駐車場を出て行った。

「ラッキー!助かった」

 時衛門は直ぐさまハリアーを停車させる。ちなみに店を後にしたトラックはISUZUの『エルフ』だった。

「朝から運が良い」

 走り去るエルフを見送りながら雷鳴は呟く。

「日頃の行いが良いからさ」と、小太郎はクスクス笑いながらエルフを見送る。



 ※※※※※



「いらっしゃい!」

 小太郎、時衛門、雷鳴が入店すると、店の親父の元気な声がする。それに合わせて、他の店員も威勢良く『いらっしゃい!』と声を張る。

 ガラス張りの引き戸を通過すれば、そこには蕎麦汁そばつゆと天ぷら油の良い匂いが広がっている。

 カラカラと天ぷらを揚げる音。一定のリズムでを刻む音。どんぶりが触れ合ってカチャカチャたてる音。それだけで食欲が増進する。


 入店するなり、雷鳴は店内の変化に気づいた。前回、来たときよりも内装が綺麗になった気がした。

 内装へ目を向ける雷鳴に、小太郎は彼女の肩を叩く。

「消防法や建築基準法の関係でリフォームしたんだ。だから、少しは綺麗になってる」

 雷鳴にだけ聞こえるように小太郎が話した。

 それを聞いた雷鳴は、『なるほど』と、呟く代わりに静かに頷く。


 蕎麦屋は立ち席が殆どで、あとは二人がけの席が僅かに2テーブルあるのみ。店のコンセプトは、『さっさと食べて、さっさと仕事へ行く』。そのため、アルコール類を扱わない店としても知られている。親父曰く、酒を飲みたければ余所よそへ行けとのこと。

 常連客たちはそのことに一切異議を唱えない。この時間帯、スーツ姿のサラリーマンや作業着姿の客が殆どだが、中には高校生や大学生などの若者もいる。みな腹ごしらえして、職場へ、学校へと出陣する。


「食券を買うぞ」

 小太郎は雷鳴と時衛門へ声をかけた。

「何でも食わせてやるからな」

 気前の良いことを言う小太郎だが、既に人数分の食券を買っている。

「何だよ。選択の余地は無いのか?」

 雷鳴はジトッとした目で抗議する。お品書きを見ていたのが無駄になった。

「ここではな、コイツが一番なんだ」

 小太郎は得意げに言う。

「まっ、出資者はお前だし、それを信じるか」

 雷鳴はそれ以上文句を言わなかった。


 三人は空いたカウンター席へ向かう。無論、ここも立ち席で、目の前で蕎麦を茹でる湯気や、天ぷらを揚げる音を聞きながら蕎麦を待つ。

「大将、『竹輪』を三つな」

 小太郎は食券をカウンターの上へ差し出す。

「はい、竹輪三つ!」

 大将は素早く食券を受け取ると、蕎麦を茹で始める。彼は頭をキレイに剃っていて、蕎麦屋というより坊さんのようである。しかし、頭を輝かせるのは懸命に働く者の汗であり、それが職人の心意気を感じさせる。

「「「はい、竹輪三つ!」」」と、他の店員たちも復唱した。


 厨房の奥では、大将よりもまだ年上のおきなが天ぷらを揚げ始める。大将が六十代半ばに見えるので、奥の翁は八十代後半だろうか?しかし、しっかりと背筋は伸びて、老いを感じさせない覇気がある。

「小太郎。天ぷらを揚げてるあの爺さんは?あそこまで年配の店員がいたか?」

 雷鳴は小太郎に尋ねる。

「そうだったな。雷鳴は久しぶりに来たからな。あれが初代だよ」

 小太郎は天ぷらを揚げる翁を見ながら言った。

「今は娘婿が大将なのさ」

 小太郎に言われてハッとした雷鳴。

「そうか。あの爺さんが初代なのか・・・」

 小田原競輪場には何度も来ていた雷鳴だが、この蕎麦屋は久しぶりだということを改めて痛感する。

 何百年と生きる自分雷鳴や小太郎と比べれば、普通の人間の時間感覚は異なる。

 開店したばかりの記憶が鮮明だったので、余計にそう感じてしまった雷鳴。


「先代の女将は七年前に身罷みまかられた。でも、先代の大将は今でも厨房を離れない。蕎麦を打って、湯がいて、天ぷらを揚げてる」

 しみじみと語る小太郎。

 翁を改めて見る雷鳴。天ぷら鍋へジッと向き合う先代の大将。老いたとはいえ、手際よく天ぷらを揚げて注文に対応する。その姿だけは開店当初から変わっていない。

「腕は落ちていないってワケだな」

 雷鳴は翁の後姿うしろすがたに、若き日の姿を思い出した。

「そういうことだ」

 小太郎も微笑みながら天ぷらを揚げる先代を見つめた。


「はい!竹輪、お待ち!」

 小太郎、雷鳴、時衛門の眼の前に注文の品が運ばれてくる。そこにはどんぶりからはみ出すほど大きな竹輪の磯辺揚げが一本載っていた。これが小太郎のオススメ『竹輪天そば』である。

 湯気を立てる竹輪の磯辺揚げ。そして、生き生きとした緑が鮮やかなわけぎ。そして、蕎麦汁の良い匂いが朝から食欲を駆り立てる。


「朝から贅沢な一杯だ」

 笑顔が溢れる雷鳴。割箸を手にして、『いただきます!』と言い、竹輪天そばを食べ始める。

 まずは主役の竹輪天から。口に運べば、揚げたてで、思わず「熱っ!」と躊躇してしまう。

 しかし、これが揚げたて天ぷらの醍醐味というもの。ここで怯む雷鳴ではない。再度、竹輪天にかぶりつく。熱を帯びた衣がサクサクと音を立てる。揚げ方が上手いので、竹輪の美味しさが損なわれていない。

 天ぷらを蕎麦汁に漬け直し、また口へ。蕎麦汁との相性も申し分無し。雷鳴は、「美味い!」と一言。それ以上は何も言わず、竹輪天そばを堪能した。


 小太郎も、時衛門も、無言で竹輪天そばを一心に食べる。それは他の客も同じで、蕎麦を食う客からは余計な会話は聞こえてこない。ましてや、スマホを操作するなど無粋だ。

 蕎麦を茹でる湯。天ぷらを揚げる油。食器の触れ合い音を立て、客が蕎麦を啜る音が勢い良く、心地良く聞こえる。


「ごちそうさんでした!」

 作業着を着た中年男性が、同じく作業着を着た若い男性と共に店を出て行く。同じ会社の土木作業員だろう。

「はい、またどうぞ!」

 大将や店員たちは忙しそうに働きつつも、客への言葉を忘れない。


 朝から気分の良い店だ。雷鳴は残りの蕎麦を堪能した。






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