第一章 戦友との再会

第1話 「懐かしきは小田原の海」

 神奈川県小田原市。かつて、ここ小田原を中心に後北条氏が関東地方を治めていた。その時代、関東地方、ひいては東日本最大級の城下町であった小田原。目の前には相模湾。そして、箱根の山を背にして、今も昔も人や物が行き交う街だ。


 海辺には幾つもの釣り場がある小田原と周辺域しゅうへんいき。湯河原、真鶴、小田原、国府津、二宮、大磯と海沿いには釣り場や漁場が幾つもある。

 その中の一つ。とある釣り場へ静所おとなし雷鳴らいめいは向かっていた。彼女が乗るのは、シルバーのトヨタ・ハリアー。助手席・真後ろの後部席にいた。

 つい先日まで日本選手権競輪ダービーを観るため静岡市にいた雷鳴。かと思いきや、連休明けの今日。まだ周囲が暗い時間に調布市内を出発し、小田原市へと向かっていた。


 ハリアーの運転席には気の抜けたような顔つきの中年男性がいた。鼻歌をしながら、彼は如何にも機嫌が良さげな雰囲気で運転する。

 男の名は曲輪くるわ時衛門ときえもん。神奈川県警本部・刑事部所属の警察官であり、魔法使いであり、雷鳴に使える『使い魔』である。

 今は出世して、『警部』にレベルアップしている時衛門。だが、今でも雷鳴へ仕えることを続けている。


「ママ、起きてる?」と、雷鳴へ話しかけた時衛門。『東京の魔女ママ』こと、静所おとなし雷鳴らいめいが目を覚ましたことを彼は見逃さなかった。

「ああ、今な。天気が良くて最高だな・・・」

 欠伸あくびと背伸びを同時にしながら、雷鳴は後部席からの景色を眺める。全国的に天気は良く、朝早い時間から小田原市上空は雲の少ない青空を披露している。

 そんな空を眺めていると気分もすこやかなものだ。そう思わずにはいられない雷鳴。


 日本へやってきて六百年以上経つ雷鳴。その頃から小田原の街には縁があった。それは彼女が後北条氏・家臣団の一人だった頃の話だが。

 当時から小田原の風景は変わってしまった。今や大きな城郭は無いが、市内には雷鳴の好きな競輪場がある。

 それに今でも交通の要衝であることに変わりはない。新幹線、小田急線、伊豆箱根鉄道があり、小田原市はもちろんのこと、箱根や熱海、伊豆半島へと向かう人々がここを訪れる。



 ※※※※※



 時衛門の運転するハリアーは、目的地の釣り場の駐車場へ着いた。通勤時間帯にはまだ早いので、道中はスイスイと走り、目的地へ到着できた。

 そこは釣り好きには知らぬ者はいない位の有名な釣り場。平日の早朝にも関わらず、釣り場の駐車場は満車に近かった。SUV、ミニバン、コンパクトカー、軽ワゴン、軽トラ、それに二輪車まで。中古車展示場かと思うほど、多種多様な車両が停車している。それにナンバープレートも多種多様。関東地方を中心に、遠くは中部や関西方面の車両までいる。


 駐車場を目にした時衛門は後部席へ語りかける。

「ママ、少し待ってね。今、車を止めるから。これならカローラにすればよかったかな?」

 愚痴っぽく言う時衛門。

 最後の一つとなっていた駐車スペース。そこは駐車場の端で、隣には大阪ナンバーの日産・セレナが止まっている。そのため、ハリアーを止めるのは簡単ではない様子。車を一旦停止させてバックで駐車する時衛門。

 ちなみに、このハリアーは時衛門の所有物ではなく神奈川県警の所有物。時衛門は県警の覆面パトカーを拝借し雷鳴の送迎をしていた。


 雷鳴は黙ってハリアーが止まるのを待った。普段、釣りに縁の無い雷鳴だが、自身が競輪好きのように、好きなことに熱中する者の朝は早いのだと理解できる。駐車場一杯の車を眺めながらそう思った。


「到着です」と、エンジンを切った時衛門。

「すまんな、ご苦労さん」

 簡単なねぎらいの言葉を述べる雷鳴。彼女は早速、ハリアーを降りる。


 時刻は午前5時過ぎ。相模湾を目の前にする駐車場。朝の空気には濃い潮の匂いがした。波の音と、東から姿を現す太陽。眩しい光が水面を指して、相模湾が黄金色に輝く。この光景だけは戦国時代からは変わっていない。そう思うと、何か懐かしいような気分であった雷鳴。


「では、こっちです」

 時衛門はハリアーをロックすると、釣り場へと雷鳴を案内する。雷鳴は黙って彼に続く。

 駐車場から海の方向に歩いて数分。すぐに防波堤へ至る。そこは相模湾へ向かいI字状に防波堤が伸びていた。ここが釣り好きに愛される釣り場。

 防波堤には釣り人たちがひしめき合うように陣取り、海へと糸を垂らす。この時間から釣りをするのは遅いのだろう。防波堤には割って入る隙間が無い位に釣り人がいた。


 雷鳴は白いシャツに、薄い水色の上着を羽織り、クリーム色のテーパードパンツ姿をしていた。背が高く、美人な雷鳴が着こなせば大層オシャレな格好なのだが、この場においては不釣り合いな姿だった。

 どうみても釣りをする姿ではない雷鳴。加えて、時衛門もごく普通なスーツ姿で、それこそ釣りをするようには見えない。そもそも二人は釣り道具を一切持っていない。そのため、一部の釣り客は雷鳴や時衛門の姿を不思議そうに見ていた。


 雷鳴は歩きながら、「景色が良い」と一言。I字状に伸びる防波堤からは相模湾、小田原の街、そして遠くには相模国の山々が見える。風光明媚だ。


 I字状の防波堤を進むと、その先端には不思議な場所があった。これだけ釣り人がひしめき合う状況にもかかわらず、そこだけ周囲と途絶されたように人がいない。

 いや、正確に言えば『一人』と『一匹』だけがいた。防波堤の終わり。I字状防波堤の先端に一人の釣り人。そして、一匹のキジトラの猫がいる。


 フィッシング・チェアを使う釣り人もいる中で、雷鳴と時衛門が会いにいく釣り人は立ったままで海へ糸を垂らす。それは雷鳴と時衛門に背を向けるような形である。

 くだんの人物は、紺色のフィッシング・キャップを被り、金色の長い髪を肩の辺りで束ねている。どうやら女性のようだ。

 雷鳴に比べると小柄だが、伸びた背からは少しの油断も感じさせない。まるで背中に眼があるようにも思える。それは一般人には感じ得ない感覚もので、雷鳴と時衛門だけが察知している。

 そして、釣り人には身体的な特徴があった。天を向くようにとがった耳だった。

 釣り人の背後にはキジトラの猫が一匹。行儀良く座り、雷鳴と時衛門へ視線を向けている。まるで釣り人の背後を守護するようであり、二人を待ち構えているようでもあった。


 釣り人と猫の姿を目視した雷鳴と時衛門。二人は一旦足を止める。

「僕が先に行きます」と、一言述べて足を進める時衛門。

「わかった」

 この場は一旦彼に任せることにした雷鳴。彼女はその場で足を止めて待つ。


 キジトラ猫へ向かって真っ直ぐに歩く時衛門。キジトラは近づく彼をジッと見据える。


「止まれ、時衛門」


 その言葉を聞いて足を止めた時衛門。それは彼の目の前にいる猫が発した言葉だった。

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