平民騎士は、初恋の令嬢と結婚するため成り上がる。
七沢ななせ
第1話
月に一度の定期市の日。村から商品を売りに来たルークは、ゆっくりと走ってきた馬車に轢かれた。
「大丈夫? ほら、立って」
天使かなにか――とにかく人間ではなく、天界から降りてきた聖なる何か――少なくとも、いなか生まれ、いなか育ちのただの少年にはそう見えた。
彼女を目にした瞬間、馬車にいきなり吹き飛ばされたショックと、地面に身体を強か打ち付けた痛みは一瞬で忘れ去っていた。
「どこも怪我してないわよね? 痛いところはない?」
差し出された手をしっかりとつかむことなどできなかった。彼女が身にまとうドレスや、つやつやと美しい肌と髪から彼女の身分を察したからではない。ただただ稲妻に打たれたように、身体が動かなかったからだ。
この世に生まれてから十五年。
彼女ほど美しい人は見たことがなかった。
「あ、だ、大丈夫です」
自分が何を言っているのかすらわからず、ルークはばね仕掛けの人形みたいに跳ね起きていた。馬車に吹き飛ばされた勢いで散らばってしまった野菜や果物を、少女は手ずから拾い始める。
ルーク・テイラーは人生初の恋に落ちていた。
◯
アストリア王国は小さな国だ。北方にあるリタリア大陸のほぼ真下に位置し、大海アーディナルに国境を沿わせている。アストリアは工業化された周辺国とは異なり、豊かな森や山が国土の七割を占めている。自然と海に守られるアストリアは、軍事力こそ持たないものの、豊かな水と食料に恵まれた国だった。
首都アスナの端のほう、栄え、王都を構える中心部とは一線を画した小さな村がある。その村の名前はユリアナ。大地の女神の名前を取った、田園と麦畑が延々と広がる、平和で特別なことはなにもない土地だ。
ルーク・テイラーは、貧しい上に子沢山という農民の長男として、我慢と労働を強いられる環境に生まれた。漆黒の黒髪は農民とは思えないほどつややかで、森の色をした緑の瞳は利発な光を宿している。生まれた環境に疑問を持つことはなかった。その頃は、農民に生まれた子は農民として働くことは当たり前だったし、弟妹が多ければなおさらのことだったからだ。
無限の体力で働きまわり、7人弟妹がいるおかげで面倒見の良いルークは、ユリアナの村でも重宝されていた。王都へ出ては商品を売りさばき、客を引き付ける売り文句は大人顔負け。15歳とは思えないほどだったが、識字力はアストリア語の文字表を読めるくらいしかなかったし、書くということはからきしだった。野菜や果物、手芸品を街で売るために、算数が少しできるくらい。遊ぶこともせず仕事仕事の毎日を送っていたルークが、ある日をさかいに一変してしまった。
「ルークったら、ぼうっとしちゃってどうしたんだよ」
収穫した麦の脱穀作業の最中、稲穂を両手に上の空のルークに、友人のフレッドが呆れた声をかけた。
「ルーク? おい!ルーク!」
両手をルークの眼の前で打ち鳴らすと、ルークは夢から覚めたように瞬きをした。
「ったく、仕事が進まないじゃないか」
「……あ、ごめん」
それでもどこか夢を見ているようなルーク。フレッドは首を傾げて呆れ顔をしていたが、その顔が不意ににやりとした笑顔に変わった。
「わかったぞ、おまえ、好きな子ができたろ」
ルークは緑の瞳を瞬かせ、友人からふいっと目をそらす。
「違げえよ。そんなことより仕事だ」
「あーあ、図星だな? ミナか? ハンナか?」
ユリアナ村の同年代の女の子たちの名前である。ルークは首を振り、面倒なことになったぞと嘆息した。
「……この村の子じゃない」
「まさかと思うけど、都の子か?」
都の子。ルークはあの日のことを思い浮かべる。ワインレッドの髪はつやつやと輝いて、淡い紫の瞳はまるで宝石のようだった。でも、手の届かない存在。ただの町娘じゃないことは、ひと目見たときからわかっていた。頭から彼女の顔を振りはらおうと、ルークはぶんぶんと首をふる。
「そうだよ! もうこの話は終わりだ。仕事に戻るぞ」
「ちぇ、つまんねえの」
それからもしつこく聞き出そうとしてくるフレッドをあしらいながら、ルークはもう二度と会えないであろう、名前も知らない彼女を思ってため息を付いたのだった。
◯
その日は、街に出稼ぎに出ているいとこのアレンが帰って来る日だった。ルークはいとこが買ってくるお土産や、街の話を聞くことが好きだった。アレンは今年20歳になる。アレンとはまるで実の兄弟のように育ってきた。彼にだけはどんな悩みも話せる気がするのだ。
夜、アレンの歓迎会が終わったあと、二人はくだらない話をして笑いあった。
「……俺、好きな子がいるんだ」
唐突に口を開いたルークに、アレンは飲んでいた酒にむせた。ごほごほと咳をしながら、アレンは爆笑する。
「ル、ルーク! おまえ恋してるのか! そうかそうか俺も嬉しいぞ」
「でもその子にはもう二度と会えないんだ。どうすればいい?」
「馬車馬みたいにがむしゃらに、働きっぱなしだったおまえの初恋か。ようやく年頃の子供らしい感情が芽生えたようだな」
「なんだよそれ」
アレンからはからかう調子が消え、父親のような温かい視線を送ってくる。その目線に身体がむず痒くなる。
「で、その子とはどこで出会ったんだ?」
アレンに事の経緯を説明すると、彼はまたも爆笑し始める。馬車に轢かれたくだりに至っては、声も出ないほどの笑いっぷりだった。ルークは黙ってアレンが落ち着くのを待っていたが、
(笑うようなもんじゃねえよ)
ルークは本気なのだ。本気で彼女が好きなのだ。一目惚れなんて信じていなかったが、そういうものはやはり存在したのだ。
「多分その子、貴族なんだ」
ぽつりとルークが言うなり、アレンはいきなり真顔になった。
「おいおい、まじか。てっきり王都の花屋にでも恋したのかと思ってたぜ」
ルークは黙り込んだ。やはり自分の恋は、人に驚かれるものなのだ。いや、ルーク•テイラーが恋をしたということ自体驚かれるものなのかもしれない。
「たしか、馬車に鷲の紋章があった気がする」
「おまえそれ、スタイラー伯爵家だぞ」
「まじかよ‥‥‥」
伯爵家。高い身分だとは思っていたが、予想以上である。
「その子はどんな見た目だった? スタイラー家は子供が多いからな」
「ワインレッドの髪に紫の目」
言うと、アレンはへへーんと笑う。
「アルテミシア様だな。その特徴は完璧に。一度見たことがあるが、とてつもない美人だったな」
アルテミシア・スタイラー。それが、彼女の名前だった。
「ま、相手が伯爵令嬢なのが不運だったな。仕方ない。今晩は気の済むまでなぐさめてやるよ」
アレンがそう言ってルークの肩を抱いたが、ルークは少しも諦めていなかった。
(バカだと言われるかもしれねえけど、絶対にもう一度会ってみせる)
どんなに気難しい客にも、しつこく値下げを交渉するおばさんにも、一度も負けず商品売り切ったルークだ。そう簡単に折れるような
平民騎士は、初恋の令嬢と結婚するため成り上がる。 七沢ななせ @hinako1223
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