『法照寺怪談会』忌中の家


その日、母は朝から身支度をしていた。

母が和室の姿見の前で、念入りに

化粧をしているのを、まだ幼い自分が


っと見ている。


そんな 記憶 が、今でも何かの切欠きっかけ

湧き上がって来るのだ。青い夏の空を

見上げた瞬間に、真っ暗な闇の中へと

放り込まれる様な 


       慄然りつぜんとした、感覚が。



あの日、自分は母に連れられて一体

何処に行ったのか。


長じて母に尋ねてみても、全く記憶に

ないと言う。あたかも、息子が薄気味の

悪い作り話をしているとでも思って

いるように。結局は、有耶無耶になり

それきりになってしまうのだ。





「お出掛けしますよ。良い子にして

いたら、帰りに好きなお菓子を買って

あげましょうね。」

 あの日。母はそう言うと、息子に

他所行きの服を着せ、表の炎天下へと

連れ出した。


ガラガラという引き戸の音が一瞬、

かまびすしく鳴く蝉たちの声に混じる。

まだ昼前だというのに、外はだる

様な暑さだった。

母の持つレースの日傘が、一層黒く

浮き立っては 逃げ水 の上に

歪な影を落とす。


「何処へ行くの?」「親戚のお家。」

「親戚って、誰の所?」「知らなくて

いいの。」何も教えてはくれず、母は

停留所まで歩くと、バスを待った。


夏の太陽に熱せられたアスファルト。

その上に立ち昇る陽炎に、幼い興味は

直ぐに移ってしまう。


まるで、お化けみたいだ。


ゆらゆらと歪んでは立ち昇る何かの

影は、果たして 原形 を留めない。

何処へ行くのか知りたかったが、

それは最早もはやどうでも良くなっていた。


記憶の中の若い母は、歳の離れた妹の

世話に掛かりっきりで、何方どちらかと

言えば、自分は邪魔にされていたと

思うのだ。だから、きっと妹がまだ

生まれる前の事だろう。


若い母は、とても綺麗だった。


よく 母親に似ている と言われると

幼心にも嬉しかった。




間もなく来たバスは、次第に道幅を

狭めた商店街を抜け、枝垂柳の揺れる

ロータリーを一周すると。漸く駅前の

終点に到着した。


母が切符を買って二人で電車に乗る。


どのくらい時間が掛かったか、そして

車窓の景色はどうだったのか。全く

記憶にはない。只、電車を降りると

母は目線を息子に合わせて言った。

「これから行くお家では、決して声を

出してはいけません。いい?これは、

大事な お約束 よ。」


どうして? 


そう尋ねようと思ったが、母の厳しい

表情に只、頷く事しか出来なかった。


「じゃあ、行きましょう。」




何処をどう歩いたのかは分からない。

母に連れられるままに炎天下の道を

只々歩いた。


頭の上には大きな白い入道雲が、夏の

青空へと湧き上がる。橙色のカンナが

大振りな花を咲かせていた。

 

路地に入ると暑さは少しだけ和らいだ。

竹で組まれた長椅子の下、鬼灯や朝顔が

手水を浴びてキラキラと光り、軒下には

風鈴が微風に揺れている。

更に歩くと、今度は白い塀が延々と続く

緩い坂道に差し掛かった。

塀の内側には鬱蒼とした竹林が、

サワサワと葉擦れの音を立てている。

蝉の声は既に遠い。



漸く母が足を停めたのは白い壁の

途中の、ぽっかり開いた門の前だった。


 白木の門の上の方に

    【◻️◻️】と書かれた紙が。


何人も立ち入らせない様な、確固たる

 拒絶 があった。それは

幼い自分にも充分に感じられたのだ。

だが母は、何の躊躇ためらいもなく呼鈴よびりん

鳴らす。


何方どなた様でしょうか。」直ぐに屋敷の

方から女の人がやってきた。

「小田桐です。小田桐雪乃と申します。

中津川十和子の代理で参りました。」


『中津川』というのは母の旧姓だが

『トワコ』という人は知らなかった。

祖母でも無ければ、心当たる親戚に

そんな名前の人はいない。


一体、誰なのだろう?


だが、ここで口を挿む訳には行かない。

それは母との約束と言うよりも本能的な

禁忌 として認識していたのだと思う。


「どうぞ、お入り下さい。」応対した

女性はそう言うと、屋敷の中へと

自分達を案内した。





屋敷の中は薄暗かった。



鬱蒼とした竹林の中は、夏の暑さから

隔絶された空間だ。長い廊下を只管ひたすら

歩きながら、もう既に早く帰りたい

気持ちで一杯になっていた。「…。」

母に声を掛けようとして断念する。

その繰り返しは、幼い子供にとって

酷なものだったろう。


線香の匂いが。


先導する女性が漸く足を停めたのは、

障子で仕切られた部屋の前だった。

「どうぞ。」言うや、障子が開け放たれ

一層強い線香の匂いが鼻を突く。いや、

それ以上に、何かとても厭な匂いが。

「…。」思わず母の手を強く握る。だが

母はその手を握り返してはくれずに、

八畳敷に用意された座布団の上に

幼い息子を促した。


そこには、布団が敷かれていて誰かが

寝ている様だった。けれども、その顔の

上には白い布切れが掛けられている。


「中津川十和子の代理で参りました。

この度、お預かりしたモノをお返しに

上がった次第です。」

毅然とした母の声は微かに震えていた。

返す、とは一体…?そう思っていると

目の前にある布団が微かに動いた。

「…!」思わず声を上げそうになるが

母の両手が口を塞いだ。


布団の端から 腕 が。


その瞬間、酷くおぞましい厭な匂いが

更に強く鼻腔を塞いだ。




その後の記憶はない。





あの日、自分は母に連れられて何処に

行ったのか。中津川十和子とは

誰なのか。そして母は一体 何 を

返しに行ったのだろうか。











最後に見たのは布団から持ち上がった

 黒い腕 だ。




【櫻岾】『法照寺怪談会』

 櫻岾支店長 小田桐博康 語る。




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