第25話 鯨幕の家
あれから。
そう、あの『法照寺』の住職による
定例『怪談会』から藤崎さんは、やけに
仕事に没頭していた。
それは至極 当たり前 な事だけど、
『護摩御堂家』の莫大な資産が個人では
なく、公益財団法人の管理下にあると
知って、余程ガッカリしたのだろう。
それにしても、藤崎さんの仕事振りは
見事、の一言に尽きる。
今迄この店のお客といえば、あまり
金融経済に詳しくないにも関わらず、
勧められたものを 付き合い 程度で
意味もなく買っていた。
彼は、それをイチから是正した。
藤崎さん曰く《思い切り想像しろ》と。
その『客』にとって一体どういう提案が
アリなのか、もし自分だったら。人は
理に適って初めて動く、って。
《話すよりも、話させろ》こっちから
あれこれ営業するのでなく向こうから
相談して来る流れにしろと。それ、相当
難しい事だと思うけど、彼にはそれが
出来るのだ。まるで手品みたいに。
更には、如何にも藤崎さんらしい。
《私見で騙るな、相場を語れ》つまり、
弛まずに勉強しろ、と。ああ見えて彼は
仕事に関して物凄くストイックな人だ。
全然そうは見えないけれど。
藤崎さんのお蔭で。僕はもう、一人で
顧客との運用相談をこなしている。
そして最近では店の売上にも割と貢献
出来る様になっていた。
その日は、藤崎さんが珍しく休みを
取っていた。どうしても外せない墓参が
あるとか言っていたが、出来ればコレ
良識的な一般行事の方 だと思いたい。
彼が居ないと、お客も来ない。それは
如何に 藤崎ファン が多いかという
目に見える指標の様なものだった。
結局、一日中閑古鳥の声を聞きながら
書類なんかの事務整理に費やして。
僕は、稟議書を戻しに金庫の奥へと
足を踏み入れていた。
ふと、線香の匂いが。
「……っ⁈ 」ハッとして、金庫室の
奥に目を遣る。
僕が戻さなければいけない稟議書は
あの『開かずの間』の直ぐ側の棚が
収納場所だった。
いや、まさか。
そう思い直しはしたものの、全身に厭な
震えが漣の様に伝播して行った。
麻川住職の話だと『護摩御堂家』の元の
屋敷跡だったこの店には、曾ての名残が
あるという。それは言われなくても既に
僕自身、目にしているのだ。
『開かずの間』が、ほんの少しだけ
開いている。
僕は思わず、稟議書を取り落としそうに
なった。だが自分でもよくわからない
感情のまま、足だけは『開かずの間』の
方へと吸い寄せられて行く。
勿論、引き戸の中の様子はわかって
いたし、藤崎さんなんて勇敢にも注連縄
跨いで中に入っている。
「……。」でも僕は完全に怯えていた。
「……もし。」 え。中から声?
薄く開いた隙間から声が聞こえた?
いや、ないないない。「嘘…だよね?」
「…今宵は御通夜が御座います…生前
御世話に成りました事、眞事に有…。」
嘘嘘嘘嘘うそ嘘ウソ嘘だッ!!!
「ひいやあああぁぁ!」僕は稟議書を
放り投げ、体をあちこちぶつけながらも
金庫室から這々の体で逃げ出した。
「え?ど、どうした…⁈ 」守本さんが。
「守本さあああんッ‼︎」僕は彼に
思い切りダイブする。「何なにナニ⁈」
守本さんは訳がわからない顔で、取り
敢えず僕を受け止める。
「金庫の…!『開かずの間』のッ!」
騒いで過呼吸になりかけたのか、上手く
息が吸えない。
「落ち着け、岸田!」守本さんが、
僕の背中を叩く。「先ず深呼吸して。
落ち着いたか?落ち着いたら話しな。」
多分、僕は初めて守本さんの事を
尊敬して感謝したと思う。そうこうして
いると、畠山さんや小田桐支店長まで
集まって来た。
「一体どうしたんですか?」支店長が
驚きと怪訝さを以って僕を見つめる。
「あ…あの、あ『開かずの間』が。」
「え。何だって?」支店長の表情が
険しくなる。
「す、少しだけ開いてて…。そこから
声が!」僕はあの瞬間を思い出して
又、震えた。
あの、何とも陰鬱な声。
「…。」小田桐支店長は険しい顔の
まま金庫に入って行く。その後を
守本さんも及び腰ながらついて行く。
僕はそれを震えながら見ていた。
畠山さんは、何も言わなかった。
でも、僕の尋常じゃない様子に不安を
隠し切れない様子で。
程なく支店長達が戻ってきた。
「岸田くん。『開かずの間』は特に
何も異常はありませんでしたよ。」
「え、あ。は…い。……はい。」
僕はそれを信じられない思いで聴いて
いたが、その答えだけで充分、安心
出来たのだ。
矢張り支店長の鶴の一声は強い。
「…ともあれ、金庫の奥には立ち入ら
ない様にして下さい。
藤崎君が出て来たら金庫内の整理を
もう少し工夫をしておきましょう。」
小田桐支店長はそう言った。
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