器
増田朋美
器
今日は雨が降ってどんよりして寒い日であった。そんな中でも、日本で国民的に食されている食べ物がある。どんな味でも不思議にあってしまって、何故かいろんな味があるけれど、嫌いな人は絶対にいないという食べ物。それはなんだろう。
富士市の松本地区に小さなラーメン屋があった。いわゆる屋台のラーメン屋とは違い、ちゃんと店舗を持っているような店だけど、座席の数も数席しかなく、ちょっと大量に客が入れるとはいい難いラーメン屋であった。店の前には、下手くそな字で、「イシュメイルラーメン」と書かれている看板があるので、ラーメン屋さんであることは間違いないのだが、ちょっと遠くから来たのでは、見逃してしまうような店であった。
「こんにちは。」
杉ちゃんとジョチさんが店にはいってきた。店を開けたばかりの店主のぱくちゃんと呼ばれている鈴木イシュメイルさんは、
「はい、いらっしゃいませ。お好きなところに座ってね。」
と言って、二人を席に座らせた。一応、壁には下手くそな字で、ラーメンのメニューが書かれているが、だいたいそれは刀削麺とか、ジャージャー麺、担々麺、担仔麺、桐皮麺、牛肉麺など、ほとんど馴染みのないラーメンばかり載っていた。
「じゃあ、ぱくちゃん担々麺頼むわ。」
杉ちゃんがそう言うと、ぱくちゃんは、わかりましたと言って厨房に言った。どうせこの店ではお昼時であっても、満席になることはなく、客はぽつりぽつり程度なのであった。杉ちゃんたちがラーメンができるのを待っている間、誰も客は来なかった。しばらく待っていると、
「担々麺2つどうぞ。」
と、ぱくちゃんが器を持ってきた。
「よろしく食べてね。」
二人の前に担々麺の器が置かれた。担々麺といえば、オレンジ色の辛いスープでおなじみだ。好き嫌いがはっきり別れるラーメンの一つだと思うけれど、杉ちゃんもジョチさんも、ぱくちゃんの担々麺が好きだった。
「ウン、なかなかうまいじゃないか。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「僕はこの担々麺の味が何よりも好きでさ。ちょっと辛くて、ラー油がよく効いているのが嬉しいところなんだ。」
「本当ですね。」
杉ちゃんとジョチさんは、担々麺を食べながらそういう事を言った。
「それでぱくさんの店の売上はどうなんですか?」
ジョチさんがそう言うと、
「まあ、そこそこかな。一応、日本びいきにしたラーメンではなくて、できるだけ本物の拉麺に近いものを食べてもらいたいと意気込んでいるんだけど、なかなか、他のラーメン屋さんみたいに、うまくは行かないよ。」
ぱくちゃんは、苦笑いをしていった。
「そうですか。それにしてはなんだかもったいない店ですね。こちらの担々麺はすごく美味しいと思うんですけど。他の拉麺、例えば、担仔麺なども美味しいと思うんですけどね。」
ジョチさんはちょっとがっかりしていった。
「なんでも宣伝の時代だぜ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうだねえ。だけど、まあしょうがないかなあ。日本人向けのラーメンと言う感じではないし。大体の人は醤油ラーメンとか、味噌ラーメンとか、そういうところを期待してるでしょ。うちみたいに、拉麺を食べさせる料理屋というのは、また違うよ。だけど、拉麺はあくまでも僕らの拉麺。日本の柔らかい味とは違うの。それをはっきりさせた店にしたいんだけどな。」
ぱくちゃんはにこやかに言った。
「そうかそうか。つまるところ、いわゆる人気のあるラーメン屋さんとはまた違うものにしたいわけだね。それもいいじゃないの。売れなくても、自分の意思を持ち続けるってことはすごいよ。それはこれからも頑張ってね。」
杉ちゃんはぱくちゃんに言った。
「大丈夫ですよ。少なくとも僕らは拉麺の出前をするときにはお宅の店でないとできないですからね。水穂さんのように醤油ラーメンが食べられない人も居るわけですから、そういう人たちには大きな助けになりますよ。こういう全く違う味の拉麺があるってことは、ある意味、日本式のラーメンを食べたくても食べられない人の助けになることもありますからね。そういう人を狙って、営業を続けてくださいね。」
ジョチさんに言われてぱくちゃんは、
「理事長さんありがとう。そういう事を言われると、店をやってきてよかったと思うよ。これからも続けていくね。」
と、にこやかに言ったのであった。
杉ちゃんたちが、ぱくちゃんの店を訪れてから、何日かたったある日。
「こんにちは。私、ラーメンだらけという雑誌の取材でこさせていただきました、長原と申します。」
と、一人のカメラを持った女性が、ぱくちゃんの店にやってきた。ちょっと、普通の女性とは、違和感のある女性だった。単にラーメンを食べに来たというわけでは無いようである。
「いらっしゃいませ。」
ぱくちゃんは、とりあえず普通の客と変わらないように言った。
「ラーメン食べに来たの?」
ぱくちゃんは、日本語の敬語をあまり理解していなかった。なので誰に対しても敬語を使うことは無い。それが嫌だと言う人も中には居ると思うのであるが、それなら店に来なければいいと本人は言っている。
「そういうことですが、私は先程もいいましたように、ラーメンの雑誌の取材でこさせてもらったんです。ご主人さん、こちらのお店ではどんなラーメンを販売しているのですか?」
女性は物腰が柔らかく、悪い人という感じはしなかった。最も報道関係者というのはみんなそうなのかもしれないけど。
「はい、ラーメンと言うか、麺料理をやってるよ。」
ぱくちゃんは、とりあえず言った。長原さんは、店の壁に貼ってある、メニューをしげしげと見て、
「それにしてはラーメンの説明が少ないですね。刀削麺、ジャージャー麺、担々麺、担仔麺、牛肉麺、それからこれは、桐皮麺。なんだか漢字ばかりでよくわからないわ。普通の醤油ラーメンとか、そういうものは無いのかしら。」
ぱくちゃんをからかうように言った。
「そういうのが食べたいんだったら、桐皮麺が醤油ラーメンに近いと思うよ。それにする?」
とぱくちゃんが言うと、
「いえ、こちらにある名物と言えるラーメンを頂きたいわ。」
と長原さんは言った。
「そうなんだ。それなら、一番人気があるのは担々麺だよ。四川省のみたいに、汁なしではなく、一応スープありの担々麺にしてあるよ。」
ぱくちゃんが言うと、長原さんは、
「じゃあそれを頂いてみようかな。」
と言った。ぱくちゃんはわかりましたと言って、厨房にはいった。その間に長原さんは、店の雰囲気とか、メニューが漢字ばかりでよくわからないとか、そういう事をノートにメモ書きした。そして、店になかなか客がはいってこないことも記した。数分してぱくちゃんが器を持って戻ってきて、
「はい、担々麺どうぞ。」
と、長原さんの前に担々麺の器を渡した。長原さんはそれを食べてみた。ちなみに担々麺というと、中国の四川省で始まった麺料理であって、四川省にあるものは、スープはなく、辛いドロッとした液体の中に、麺を入れただけの、汁なし担々麺と言われるものが普通であるが、ぱくちゃんの店では、一応、スープに浸して食べる担々麺になっている。言ってみればラーメンに近いもので、たしかに、日本でも食べられると思うのであるが、ラー油が非常に効いていて、ちょっと辛いものであった。まあ確かに、担々麺というと、これくらいからいのかなと思われるが、中には辛いせいで血圧が上がるなどの事を言う人もいるかも知れない。でも、決してまずいものではなくて、ちゃんと麺もコシがあって食べやすいし、ラーメンとして食べられるようになっている担々麺である。きちんと、具材であるひき肉と、青梗菜も乗せられていた。その青梗菜が、甘みがあるせいか、担々麺の汁とあわせて食べるとうまいものであった。
「へえ、なかなか美味しいですね。こちらでは、こだわりの食材とか、こういうものを使ってますとか、そういうものはありますか?」
長原さんは、直ぐにメモ用紙をとって言った。
「そんなもん無いよ。ただ、日常的に食べられている拉麺を出してるだけだよ。」
ぱくちゃんはしたり顔で答える。
「そうなんですか。それでは、担々麺へのこだわりのようなものは何も無いのですか?」
長原さんがもう一度聞くと、
「無いよ。だって、中国では普通に食べてるものだよ。」
とぱくちゃんは答えた。
「普通に食べるってことが何よりの幸せじゃないか。世の中ではそれができない人も居る。だから、僕はそういうものを出しているだけのこと。」
「そうなんですか。それでは、店を出している意気込みや、目標などは何も無いのですか?」
長原さんはちょっと変な顔をしていった。
「無いよ。」
ぱくちゃんが即答すると、
「はあ、変わった店があるものですね。それでは、店を出したきっかけとか、そういうものを教えてください。」
長原さんは聞いた。
「知らないよ。ただ、中国からやってきたけど、できることが料理しかなかったから、それで店を始めただけのことだよ。」
ぱくちゃんは単純に答えた。
「そ、そうですか。それでは日本で店をやろうと思った理由とかはありますか?日本の皆さんに、麺料理の面白さを伝えたいとか?」
長原さんがまた聞くと、
「そんなもん無いよ。ただ暴動で、みんな逝っちゃったから、それで、日本に来ただけだよ。それでできることを、ここでやらせてもらっているだけ。できることが麺料理を作ることだけだったから。それしか無いよ。」
ぱくちゃんは、また直ぐに答えを言った。
「暴動?それはどういうことですかね?」
長原さんは、報道関係者らしくそう聞いたのであるが、
「だから、この前にウルムチで暴動があったの。みんな、スンでたところから追い出されて、こうやって、他の国家へ逃げたりとか、あるいは、他の街へ逃げたりとか。嫌だよね。本来スンでたところから、逃げなくちゃいけないってさ。まあ僕、いろんな料理作れたから、こうして店をやることができたけどさ。他の人は、どこへ逝ったかな。みんなどうしているかも知らないよ。まあねえそれがねえ、僕らみたいな、少数民族の姿かな?」
ぱくちゃんは、不明瞭な発音でそういう事を言った。これを、最近発生した、ウイグル族への圧力というのに持っていくのは相当理解力が無いとできないかもしれない。でも、ぱくちゃんは、それはどうでも良いという顔をしていた。
「そんなのどうでも良いんだよ。確かに住んでいるところに住めなくなったのは、もう悲しいことではあるけれど、でも、まあ、しょうがないことだからね。いつの時代でも、僕らウイグルは寂しいもんさ。でも、こっちへ来ることができてよかったのかな。」
「そうなんですか。日本ではそういう少数民族が運営されているとか、そういうことは珍しいものになると思いますが、そういうことを売りにしようとか、そういう思いは無いのですか?」
長原さんは、すっかり驚いてしまったようで、思わずそれをぱくちゃんに言ってしまったのであるが、
「そんなもん知らないよ。ただ僕らは、店ができればそれでいいさ。お客さんが増えるとか、そんなことも気にしないの。ただできることといえば、料理することだけだもん。それしかできないから、そうするだけだよ。ほかは何も知らないよ。」
ぱくちゃんは、そう言っただけであった。
「そうなんですねえ、本当に珍しいラーメン屋さんなんですね。なんだかそんな珍しいところ、始めて取材に入りました。今日のこと、ラーメンだらけという雑誌に載せてもよろしいですか?」
と、長原さんは、ぱくちゃんに言うと、
「好きにすれば?どうせ、取材しようがしまいが、この店は変わらないよ。ただ、拉麺食べたい人が、ここへ来るだけのことでしょ。」
と、返ってきた。
「それより、担々麺全部食べてよ。日本の担々麺は伸びちゃうから。」
「そうですね。」
長原さんはそう言って担々麺をまた食べ始めた。そして、ラーメン雑誌の記者らしく、器に入ったスープをしっかり飲んで、
「ごちそうさまでした。じゃあ、お会計はどうしたら良いのかしら?」
と聞くと、ぱくちゃんは、730円払ってくれればそれで良いと言った。長原さんが、そのとおりにお金を渡すと、ぱくちゃんは下手くそな字で、領収書を書いた。今どき、レジスターを用意することができず、領収書を書く店なんて、珍しいものだ。なんだか昭和にタイムスリップしたみたいねと長原さんは言った。そして、ではごめん遊ばせとぱくちゃんに一礼して、店を出ていったのであった。
それから二三日経って。いつもどおりに、定期的に買っている週刊誌を買おうとして、雑誌売場を何気なく見たジョチさんは、ラーメンだらけという、普段なら見向きもしない雑誌に、県内でも珍しいラーメンという特集が組まれていたのを発見して、手にとって読んでみると、そこにはぱくちゃんの店を紹介する記事が載っているのに気がついた。しっかり読んでみると、何でもウイグル族が、担々麺を作っている珍しい店という内容の、ラーメン店紹介記事だった。決してぱくちゃんの店を非難する訳では無いが、でも、こういう事を大っぴらにしてしまうと、店にとって不利になってしまうのではないかとジョチさんは思った。なんだかちょっとかわいそうだと思う。別にぱくちゃんは、少数民族であることを、武器にしようとしてラーメン屋をやっているわけではないのをジョチさんはよく知っていた。
一方、ぱくちゃんの方は、いつもやってくる常連客が何処かへ行ってしまって、新規でラーメンを食べにやって来る客が増えたのに驚いていた。一体これはどういうことかなと思っていたが、直ぐにあの女性が、雑誌になにか書いたのだなということに気がついた。新規でやってくるお客さんたちは、いわゆるとんこつラーメンとか、そういう人気のあるメニューがなく、担々麺や担仔麺などのちょっと食べにくいラーメンばかりおいてあることや、一応、醤油ラーメンに近い、桐皮麺というものはあることに驚いていた。ぱくちゃん自身はというと、いつも通り担々麺を作り続けることだけで、何も変わらなかった。別に料理をするというのは、なにか大きな変化があるわけではない。材料を切ったり、炒めたり、煮込んだりするだけのことである。ましてや、ぱくちゃんが作ったものは、ぱくちゃんの感覚で言えば、日常的に食べているもので、特に特別な料理ではない。みんなお客さんたちは、あのラーメンだらけの記事をみてやってきたというが、たしかにぱくちゃんとしては、売れ行きが上がるというのは良いのかもしれないが、それ以外に何も変わらなかった。だた、客が増えたのは、本当に数日だけだった。皆、新しいラーメンだらけが刊行されたので、そちらに記載されているラーメン屋さんに行ってしまったのだろう。そういうわけで、ぱくちゃんの身に起きたのは、ほんのちょっと、店に来る人が増えただけのことであった。それ以外変わることもなかった。
それから何日かたって、また、ぱくちゃんの店は、人がなかなか来ない寂しいラーメン屋に戻った。ぱくちゃんはそれでも気にしないで過ごしていたが、ある日のお昼時間に、杉ちゃんとジョチさんがまたやってきた。
「こんにちは。」
二人が店に入ると、ぱくちゃんは、いらっしゃいませと言って二人を迎えた。
「いつも通り、好きなところに座って。」
ぱくちゃんに言われて、二人は、厨房から、直ぐのところに座った。
「で、杉ちゃんもジョチさんもご注文は?」
ぱくちゃんが聞くと、
「はい、また担々麺2つお願いできます?」
ジョチさんが言ったので、ぱくちゃんは、
「わかりました。」
と言って、厨房に行った。そのときもいつもと変わらない。材料を、用意して担々麺を作るだけである。2人分の麺を茹でて、スープを掛けて、具材を乗せる。それだけのことであった。ぱくちゃんは、担々麺の器を二人の前まで持っていき、
「はいどうぞ。担々麺2つだよ。」
と杉ちゃんたちに渡した。
「それではいただきましょうか。」
「いただきまあす。」
二人は、箸を取って、担々麺を食べる。
「この間、ラーメンだらけという雑誌が取材に来たそうですね。」
ジョチさんが不意に担々麺を食べながら言った。
「ああ、来たよ。」
ぱくちゃんが単純に答えると、
「そうなんですね。それで、なにか変化はあったのか?」
杉ちゃんがでかい声で言った。
「何にも。ただ、僕がしていることは、料理を作るっていうことだけだからね。それ以外に大したことはしていないもの。何も変わらないよ。」
ぱくちゃんがそう言うと、杉ちゃんとジョチさんはおおかたそんなものかといった。まあ、テレビや雑誌などで、大きく紹介されることで、人生が変わる人もいるが、そうではない人のほうが多いのだ。そんなものに頼らずに、静かに生活していたほうが、よほど楽ということもある。
「そうなんですね。僕は心配しましたよ。ぱくさんが、店に客が殺到して、大変になったりしていないかなとか、そんな余計な心配しちゃいました。家の弟の敬一も焼肉屋を経営していますから、そういうメディアを利用することもありましたからね。」
ジョチさんが、経営者らしくそういう事を言うと、
「いやあ、僕らは、そんなものに頼っても、何も話すことも無いもん。ただ、日常的に食べてたものを紹介しているだけだし、他に何も無いよ。それを、なんか特別視されちゃったら困る。」
ぱくちゃんは、そう言っただけであった。
「まあ何はともあれ、平穏に生活していければそれで良いよね。自分にできることを、何よりも発揮してさ。それが一番ってことじゃないのかな。」
杉ちゃんに言われて、ぱくちゃんは、
「そうだねえ。」
とだけ言った。とにかく、毎日平和に何も起こらないで生活していける事、これが何よりの幸せなのだった。拉麺の事、売上のこと、そんなことは、二の次なのかもしれなかった。ぱくちゃんは、杉ちゃんやジョチさんが、担々麺を食べている様子を眺めてそう思ったのだった。
器 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます