今もそらで書けるよ

秋永真琴

今もそらで書けるよ

 私には三分以内にやらなければならないことがあった。

 金属のリングでとじられた小さなカードの束――単語帳に書かれた五十個の英単語を全て覚える。それはフリスクのケースに松ぼっくりを五十個詰めるような作業だった。

 教室の自分の机に私は頭を打ちつけた。

 意外と大きな音が鳴ってしまった。


 三分後に始まる週一の英単語テスト、通称エータンで私は合格の七十点に絶対に届かない。不合格の生徒はノートいっぱいの書き取りを命じられた上で、明日の始業前に追試がある。これを毎週は無理だよ。こんな地獄のようなシステム、憲法の第何条かに違反してないだろうか。

 今週は勉強どころじゃなかったんだよー。

 先週末に同じクラスの仲よしグループの男女八人でカラオケに行って、帰りに私の好きな男子であるくまきち(熊谷くまがい吉人よしとくん)とふたりきりになったので、意を決して「つき合ってる人……いるの?」と尋ね「いないなら私が立候補してあげてもいいわよ! なんてねっ」とかわいく続けようとしたら、前半の質問にすごい申し訳なさそうな顔で「実はみっかとひと月前から……」と同じグループの女子(遠藤えんどう道花みちかちゃん)の名前を出され、その事実をグループの中で私だけがみんなに哀れまれて知らされていなかったことを理解して――アーッ! ヴワーッ! こんな状態で英単語の暗記なんかできるリソースは私に残っていない!

 いきなりエータン、中止になんないかな。

 校庭に隕石が落ちてくるとか。ソニックブームで私たちが全員死んじゃうか。こっちにあんまり被害が来ない、でもテストどころじゃなくなるような、理不尽で衝撃的な何かが起こってほしいと私は願った。

 始業のチャイムが鳴り、同時に英語の先生が教室に入ってくる。

 終わった。ふたたび机に頭をゴツンとやろうとしたときだった。

 地鳴りのような重く低い音が遠くから聞こえた。

 どんどん近づいてくる。教室の窓がビリビリと震える。みんながぞくぞくと窓際に集まっていく。くまきちとみっかが肩を寄せ合っている。ふたりから目を逸らしつつ、私も外を見下ろした。

 巨大な生き物がすごい勢いで右から左へ這い進んでいる。

 いや、違う。一体の生物じゃない。

「BUFFALOだ」

 誰かがつぶやいた。それは今週の英単に出てくる言葉だった。

 私たちも、両隣の教室も、階下も――校舎全体がどよめいた。

 ここはアメリカの荒野じゃない。札幌の普通の住宅街だ。そこをバッファローの群れが全てを破壊しながら突き進んでいる。家を吹き飛ばし、車を跳ね飛ばし、もちろん通行人も――ううっ、見たくない。

 その光景はあまりに非現実的で、私たちはいつの間にか静かになり、ラッパを吹き鳴らす天使の軍勢を見守るような、厳かな絶望感に満たされていくのだった――


 

「ごめんアコちゃん、つまんなかった?」

 私の十年以上前の思い出話を聞いているのかいないのか、難しい顔をしてスマホを操作し続ける森島もりしま章子あきこである。

「誰でも一度はあるような経験なのかな」

「何を言っているのですか……」

 あきれたように私を見やり、章子は「わたしが検索した限り、そんなとんでもない事件が起こった記録はどこにも残っていませんでした」と言った。

「三百人委員会の圧力でもみ消されたんじゃない?」

沙織さおりさんの昔のお話にはときどき、信じがたい不思議なできごとが混ざってきますけど――大丈夫ですか」

 何がだよ。私のフリスクケースサイズのお脳を心配してるのか。

「嘘はついてないよ」

「しかし――」

「もしかしたら大麻を焚いていたやつがいて、私たちは集団幻覚を見てたのかもしれないよ。とにかく、私は自分の記憶にあることをそのまましゃべってる」

 私は歳下の友だちをじっと見つめた。

「――失礼しました」

 と、章子は小さく頭を下げた。「沙織さんを信じます」

「え、まじで? こんなバッファロー話を? 大丈夫?」

「あなたは! どうしてそうやって! もう!」

 眼鏡からビームを出しそうなくらい怒る章子をなだめて機嫌を直してもらうのに二分ほどかかった。

「ともあれ、沙織さんにとってはよかったですね、願いが叶って」

「何が叶ったって?」

「ですから、その異常な現象のおかげで、英単語のテストどころではなくなったのでしょう」

「やったよ」

「……」

 小首をかしげる章子に、私は「テストは普通にやった」と言った。



 そうなのだ。猛牛の群れが去っていって、爆撃されたような街の風景をぼうぜんと見つめていた私たちに、英語の先生は「はい、席につきなさい」と告げたのだ。

「早くしなさい! テストの時間が短くなりますよ!」

 謎の災厄よりも、日々のルーティンを堅持しようとする大人の精神のありようのほうがよっぽど異常なことのように思えた――というのは後から考えたことだし、私たちだってそれは同じだった。ひとり、またひとりと、のろのろと席につき、エータンを受け、私は合格にほど遠い点数を取って、その日の夜は単語の書き取りの課題に追われた。

「日常って強いな、って思った。やばいくらい強い」

 バカみたいな願いが叶っても――私が叶えたのかどうかはわからないけど――エータンは行われるし、くまきちとみっかはお似合いのカップルだし、私はただの失恋して落第する中学三年生の新井あらい沙織だった。

 世界って変わらない。非日常的なことが起こっても、石を投げ込んだ池みたいに、波紋はすぐに鎮まってもとの水面を取り戻すのだ。

 街がいつ復興したのか、そのあたりは不自然なほど覚えていない。だから、章子の言うように偽の記憶なのかもしれない。ただ――


「BUFFALOって単語は、大人になった今もそらで書けるよ」


 私は宙に指で七文字のアルファベットを描いた。

 何だったんだろうね、あの全てを破壊しながら突き進むバッファローの群れは。

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今もそらで書けるよ 秋永真琴 @makoto_akinaga

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