8-5.「There is always lights」⑤
駅から砂浜まではほとんど下り坂だった。
ぎしぎし痛む脚は何度も突っ張って引っかかりそうになったけど、なんとか転がり落ちることなく無事にたどり着いた。
あのときは真っ黒だった海が、今は薄紫と黄色に染まっていた。
空はまだ藍色だったが、海との境界線には朱色が広がっていた。
太陽はすでに海から抜け出していた。
見渡す限りの砂浜には、誰もいなかった。
ちょうど良かった。
覚悟は、今決めた。
荒い息の隙間に、加齢と煙草で劣化しつつある肺へ。
これ以上ないくらい、空気を詰め込んで。
「――ディアナぁぁあぁぁ、あぁぁぁぁぁぁ!」
一度、俺に出せる最大の声で、名前を呼ぶ。
声の続く限り。
ひっくり返ったし、普段大声なんて出さないから、喉はすぐにおかしくなったけど。
この広い場所で、あの子ともう一度出会うために。
どこかでまた剣と膝を抱えて丸くなっているかもしれない君に、顔を上げてもらうために。
それから何度も息を吸いながら砂浜に降りて、堤防から水平線まで絶対に見逃さないように何度も視界を往復させながら、また走る。
どこかにいるはずなんだ。
どこかにいたら、きっと俺を見つけてくれるはずなんだ。
俺を見つけてくれたら、きっと俺が見つけられるように、『透明化』だって解いてくれるはずで。
そうだ。どこまでも都合の良い仮定だ。
「ディアナぁぁぁぁぁぁあ、あが、はぁ、は、ディアナぁぁぁぁぁぁ!」
そんな都合の良い馬鹿みたいな仮定だけを、自分の考えを信じて。
走って、走って、走り続ける。
……でも、他に誰もいないからって、走りながら叫ぶのはダメだった。
本当に酸素が足りなくなってきて、目の前がチカチカしてくる。
でもやめられない。
あの子がまだいるなら、俺に気付けるように。
さっきのは聞こえてなくても、今回のが届くかもしれない。
絶対に見逃すな。見逃したら、それであの子は諦めてしまうかもしれない。
堤防の根元の暗がり。遠くの海面。あの子の髪によく似た色の上空も。
何度も砂に捕まりかけていた足の裏に、突然びきりと鋭い痛みが走る。
攣ったらしいが、関係ない。今の俺はそれどころじゃ――
「あっ、ぎ……!」
それどころじゃないのに、気が付くと脚が体を支えていなかった。
地べたに落ちる。手は出たけど、胸のあたりに鈍い衝撃。
気付くと砂浜にうつ伏せで倒れていて、顔も口もコートも砂だらけで最悪だった。
体を起こして砂を吐き出す。
息が苦しい。右の太ももが強烈に痛い。鉄の芯を刺しこまれたみたいに硬くなって、力が入らなかった。
「くっ、そ……」
まだ走らないといけないのに。
どれだけ情けないんだ、俺は。
こんなふうに転んだことなんて、それこそ部活の合宿で百本坂ダッシュしたときくらいだったのに。
あの頃だったらもっと遠くまで、もっと速く走れたはずなのに。
あの頃だったら、きっとこんな事態になることもなかった。
……あの頃だったら、こんなに脚も弱くなくて、こんなにずる賢くもなかったはずだった。
もう少し意地を張ろうと、自分のことを強いと思えていたはずだった。
格好だけつけようとして、本当に情けない。
……この情けない姿を、ディアナに見られてしまったんだろうか。
走りすぎて攣ってずっこけて、自分の体と心の弱さが情けなさすぎて、起き上がれなくなっている姿を。
でも。
もう、それでもいいからさ。
見られてたっていいから、いてくれよディアナ。
このまま、何もないまま終わるわけには、いかないんだよ。
俺は君に認めてほしいんだよ。
君になんの憂いもなく笑ってみてほしいんだよ。
だから。
「いっ、……大、丈夫、攣ってようが、歩ける、し」
馬鹿みたいに、誰もいないのに意地を張る。なんとか左足と腕の力で立ち上がる。
走ろうとすれば本当に動けなくなりそうだから、歩くしかない。
砂浜はあと五百メートルくらい。
大丈夫だ、歩けなくはないし、その間に脚が戻ってくれたら、また、
「――なにをしてるんだ、イチノスケ」
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