8-4.「There is always lights」④


 覚悟は決まったつもりだった。

 けれど十も年下の従妹に、それだけの心配をかけてしまうほどの異常な行動を、このまま続けてもいいのか。

 俺はいつかこの行動を後悔するのだろうか。一度失敗しているなら、また失敗するんじゃないのか。

 そもそもディアナは、もし俺が見つけられる場所にいるとしても、本当に見つけてほしいのか。

 俺は彼女を、見つけるべきなのか。


『……イチ兄は、どうしたいの?』


 しばらくの間をおいて返ってきたのは、これまでに何度かディアナにぶつけてきたのと同じ質問だった。

 こんなにも難しいものだったとは。


 俺は、今までたくさん縛られてきたあの子に、自由に選んでほしくて尋ねた。


 けれど現実は簡単じゃない。

 したいようになんてできない。

 俺はそうすると逃げてしまう人間だから。

 そうやって恐れているうちに、したいと思うことが、本当にしたいことなのかもわからなくなってしまった。


 だから俺は考えることにした。

 けど、考えて考えて答えを出したって、結局は後悔することのほうが多い。

 それでも考えてしまうのは、やっぱり俺が臆病で、学ばない馬鹿で、欲深い凡人だからなんだろう。


 けど、その凡庸と、どこかの愚直な勇者のせいで、俺は自分にとことん素直になって、自分の奥底の欲望にたどり着いた。

 そのはずだ。


 ……まあ結局のところ、俺はこの幼い『したい』に、ただ従いたかっただけなんだろう。


「俺は、あの子を元気にしてあげたい」


 少し間を置いてから、電話の向こうで「あっは」と吹き出す声が聞こえた。


『すごい。めちゃくちゃ綺麗事。イチ兄、ちゃんと恥ずかしいこと言ってる自覚ある?』


 この、クール属性気取りの高飛車従妹が。本当はキュートのくせに。

 ……でもたしかに今のはカッコつけて言った。


「自覚はあるよ。でも、それだけじゃなくて」

『認められたい、でしょ? ……イチ兄は純粋だね。というか、純粋でいたいんだろうね』

「え」

『じゃあ大丈夫。ほら、心当たりあるとこ、すぐ行って』


 今。めちゃくちゃ真ん中を突かれた感覚が、


『ほら、走って!』

「あ、はい!」


 急な従妹の強い声に思わず走り出してしまった情けなさで軽く死にたくなるが、もう今さらだった。

 今さらのついでに探す場所の相談もすることにした。本当に俺は大丈夫なのか。


『うーん、やっぱり可能性が高いのは、牧場と海辺かな。完全に反対の位置にあるけど、近いのは海だね。じゃあ、とりあえず海の方に向かって、牧場には電話してみよう。で、公園は?』

「く、クリア……」

『女子トイレ入ったの?』

「よ、呼びかけただけ、です。でも」

『ディアナさんだったら、息切れしてるイチ兄を無視はしないよね。よし、じゃあ駅のほうに走って! ゴー!』

「このっ、了解、ですよ……!」


 頼っているのをいいことに、電話の向こうの碧音は心底楽しそうだった。他人事だと思いやがって。

 運動不足二十七歳のダッシュが、どんだけキツイと思ってんだ。


『じゃあ、牧場には私が電話しとくから』

「うん。ホントに、ありがとう」

『いいよ、別に。また、なんかあったら連絡するし、連絡して』

「了解、です」

『……それじゃあイチ兄、頑張れよ』

「頑張り、ます」


 そのくせに最後はちょっとしおらしくなってから、ぶつりと電話は切れた。

 今度なんか高いものでも食べさせてやろうと心に決めて、スマホはコートの内ポケットに押し込む。


 あとはとにかく走る。


 本当に、こんなに走ったのは久しぶりだった。

 早くも足は重たくなっていた。

 そういえば冬はこんなふうに気管の奥が痛くなるんだった。内臓も軋むみたいにだんだん痛くなってきていた。とにかく息がキツくて、肺が半分に縮んだように底が浅かった。


 けどディアナがいつまでそこにいてくれるのか、俺にはわからない。

 もしかしたら日の出をタイムリミットにしてるかもしれないし、もうとっくにいないかもしれない。

 わからないから、今は最速で確かめに行くしか方法がない。


 暗い。苦しい。寒い。痛い。苦しい。

 あの子は今どうしてるだろう。


 公園から駅までの十数分、俺は何度も足をもつれさせながら、どうにか駅にたどり着いた。

 膝に手をついて息をしながら、周りを見回してみる。


 こんな時間でも人がいないわけじゃない。

 でもやっぱりディアナはいない。

 でも駅前のバスロータリーにいた数人が思わず顔を上げるくらいに俺の息は荒れていたから、万が一ディアナがいても、俺を見つけられないことはない。


 ……俺はどこまでも、あの子に任せることしかできない。


 最後にもう一度、体ごと三百六十度見回してから、俺はいつもの改札を抜けていつもと反対のホームに向かう。

 運良く電車は発車直前で、俺が乗ると同時に扉が閉じた。


 車内は暖房が効いていて、とても離れたところに老人が一人座っているだけだった。

 俺も座って、しばらくゆっくり息をしてから顔を上げると、まるで家出してきたみたいな格好のやつれた男と目が合った。

 窓の外はまだ真っ暗だった。


 そういえば一昨日の朝から髭を剃り忘れてたんだと思い出して、すぐに仕事のことを思い出した。

 慌ててスマホを見ると、六時一分。

 一応計算してみる。海までは片道が一時間弱。最寄り駅から会社までが約二十分。

 向こうの駅で座って待っているディアナを担いで帰りの電車に飛び乗って、この格好のままディアナと一緒に出社したとしても、始業の八時半にぎりぎり間に合うかどうか。


 ……なんて言おう。

 なんだかんだこれまで電車遅延以外で遅刻なんてしてこなかった。

 というか遅刻でいいのか。もし海にいないとしたら、その後もっと時間がかかるのに。けどこのクソ忙しい時期に、弊社は病欠なんて許してくれるのか。


 悩んでいる間に碧音からメッセージがきた。

 牧場には家出した友人を探しているという設定で電話をして、牧場の方はわざわざ辺りを探してくれたらしいが、誰かが来ているようなことも、何か変わったことがあったりもしなかったようだった。


 そして、ベランダにディアナからの手紙があったらしい。

 羊皮紙に、少し歪な日本語で、簡単なさよならとお礼と謝罪が書いてあったそうだ。


『ありがとう。今度何か奢る』と碧音に返信しながら、俺は海にいなかったら諦めた方がいいかもしれないなと思った。

 というより、いるなら海だと思った。

 理由は向こうからこちらに来たときに海の上で魔法を使ったと言っていたからだ。


 あの子は昨日、向こうの世界は戻ると言っていた。

 だったらディアナはきっと帰ろうとはしている。

 そしてもし俺を待っているなら、瀬戸際でぎりぎり踏み出せないからだ。

 けど、これは本当にただの直感だけど、たぶんいつまでも待ち続けることはない。


 ……そうだ俺は、あの子にそれを言わなければいけない。


 老人から一番遠い隅に移動して、上司に一応電話をかける。

 出ない前提で後から送るメールの文章を考えていたが、三コール目で『どうした?』と聞こえてきた。

 少しテンパりながらもなんとか、明け方から高熱が出ていることと、病院に行ってからもう一度連絡するが、今日は出勤できない可能性もあることを伝えた。

 我ながら上手く言えたような気がしたが、返ってきたのは『女だろ』だった。

 今度こそ完全に頭の中が真っ白になってしまった。


『……いいよ。せっかくのイブだもんなぁ』


 そして聞こえた言葉の意味がわからなくて、もう一度頭が固まった。


『病欠、承知しました。でも土日でちゃんとケリつけろよ。……一応、月曜は帰れない可能性も視野に入れておくように』


 まさかこんなにすんなり通るとは思っていなかった。反射的に「はい、ありがとうございます!」と頭を下げていた。

 たしかに最後のは結局アレではあるんだけど。

 だって、期限はもう火曜なのに。


「月曜、できるだけ早く出ます」

『いいよ来るのは普通で。あーでも、睡眠はきちんととってくるように』


 それから何度か礼を言って、また最後に『頑張れよ』と言われてしまってから電話は切れた。

 元々悪い人ではないと思っていたけど、もう俺の中では完全に良い上司になってしまった。

 会社も、実はそこまでアレでもないのかもしれない。


 とか舞い上がっていたから、そういえば『女だろ』を否定し忘れていた。

 でも否定したらそれはそれで説明が面倒だし、仕方なかったのかもしれない。


 無意識に一度、大きなため息が出る。

 同時に電車のアナウンスで、降りる二つ手前の駅名が流れる。


 ……もう少しで着いてしまう。

 そういえばもしディアナに会えたとしても、俺は上手く話せるだろうか。

 どう言葉にすれば、あの子に正しく伝えられるだろう。

 また同じように、間違えないようにするには。


 電車が止まる。動き出す。すぐに止まって、老人が降りる。

 また動き出して、答えが出る前に、駅に着いてしまった。


 電車の外は前に来たときよりもずっと寒かった。

 太陽はたった今、登り始めたところだった。

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