8-2. 「There is always lights」(最終回・中)


 外は雪が降ってもおかしくないくらいに寒くて、まだ真っ暗だった。


 コートを羽織りながら、まずは玄関の前で手を伸ばしてゆっくり動かしてみる。

 あの子ならもしかしたらいるかもしれない、と思ったがそんなうまい話はなく、俺は玄関前で奇妙な動きをするところを、隣の早起きなじいさんに見られてしまった。

「あはは、なんか蜘蛛の巣が、おはようございます」とごまかして横を通り過ぎたが、ずっと後ろから視線を感じた。


 それで少し頭が冷えて、そういえばどこを探せばいいのか考えていなかったことに気づいた。

 これで冷静なつもりだったので、少し笑えてきた。


 ……前提として。

 探すって言ったって、あの子が本当にどこか遠くへ飛んでいってしまっていたら、もしも目の前にいたって『透明化』を使われていたら、――あの子が本気で俺から離れようとしていたら、もうどうしようもなかった。


 しかし俺は、そうでない場合にしか彼女を見つけられないし、見つけられないなら俺にできることはそこまでだ。もう俺が用済みになっているならそれでも構わない。

 けど俺は、あの子の弱さに賭ける。


 でも、その賭けに勝っていたとしても、あの子はどこを選ぶのか。

 俺がもしかすると見つけられる場所。俺とあの子が知っている場所。

 出会った路地、人のいない公園、最寄り駅周り、ショッピングモール、牧場、海辺。

 あとはそうだ。生真面目なあの子は、もしかすると碧音に会いに行くかもしれない。そうでなくても碧音ならあの子の居場所がわかったりするかもしれない。


 ひとまずあの路地を通るルートで公園へ向けて走り出しながら、すぐに電話をかける。

 コール音が五回鳴ったところで、そういえばまだ朝の六時前だったと思い出した。


『……なに。何時だと思ってんの』

「うおよかった。て、電話しといてあれだけど、寮って携帯預かられたりしないの?」

『……サブ機。切っていい?』

「ごめん。その、ちょっとテンパってて」

『なんで』

「……その、ディアナが家出した」


 少し間をおいた後、スピーカーの向こうで体を起こすような音がして、もう一度『なんで』と、真剣さが増した低い声がする。


 簡単に、けれど全部、公園へ向かって軽く走りながら話す。

 それぞれにどういう感情があってディアナが出ていくことになったのか。俺はどうして、もう一度あの子を拾いたいと思っているのか。


「そんで、もしかしたら碧音のとこに、お別れの挨拶とかで、行ってないかな、っていうのと、もし来たらどうにか捕まえて、俺に電話ほしい、って話なんですけど」


 そうして締めくくるが、しばらく電話の向こうからは何の声もしない。まさか二度寝したのか。


『……そうなっちゃうかぁ』


 かと思えば、喉の奥で息が鳴ってる、電話だからギリギリ聞こえたような声がして。


『私のせいだ』

「それは違」


『私さ、最初から二人にくっついてほしかったんだよ』


 いきなりだったから。足が、止まってしまった。


 ……だってそれは話が違った。

 碧音はディアナの相談役と同時に、俺の監視役を――俺がディアナに妙な気を起こさないか注意する役目を、果たしていてくれたはずで。


「な、なんで、そんなことを?」

『……。二人が心配だった』


 沈んだ小さな声。だけどさらに、どうしてそんな話になるのかがわからなくて。


『異世界から逃げてきて、弱りきって一人ぼっちのディアナさんと、その明らかに異常な女の子を拾えちゃう精神状態のイチ兄。どっちも一人じゃ危ないから、二人で支え合えばいいと思った』


 スマホのスピーカーから、こんこんと聞こえてくる碧音の声は怒っているようにも聞こえた。


『でも、たぶんそこまでは良かった。そのあと私、焦っちゃったんだろうね。このままほっといたら本当に何もないまま全部終わるんじゃって思って、……あと他に色々ごちゃごちゃになって、勢いで、イチ兄に発破かけちゃった』


 けれどそれは、努めて低く平坦にしているらしかった。


『二人には二人の距離感があったのに、私が余計なことしちゃった。……私、イチ兄にディアナさんを助けて、自信をつけてほしかった。なんか少し前から、イチ兄が変わってる気がして、それが嫌で、でもそこに踏み込んでいいのかわからなくて、……結局私、ディアナさんを利用しようとしてた。そのせいで』

「碧音」


 少なくとも、電話口での碧音の声は泣いていなかった。変わらず怒っているように聞こえたし、実際にこの子は自分に怒っていたんだろう。

 従兄を裏切って、ますます自信を失っていく従兄を元気づけようと、裏で画策していた自分を。


 もう一度、走り出す。


「やっぱり碧音は、俺の自慢の従妹だ」


 またしばらく間を空けて『は?』と低い声が聞こえる。


「たぶんディアナと出会ってなかったら、碧音が従妹ってことが、俺の人生で、一番の、特徴になってたんだろね」

『なに、……え? 急に何言ってんの?』

「ごめん今ちょっと、変なテンションなんだと思う。走ってるし。でも、本音だよ。本当に、優しい良い子に育ってくれて、よかった」

『良い子、なんかじゃ』

「でも、碧音は俺とディアナを買い被りすぎだ。碧音が何もしなくても、俺らは、失敗してたよ。結局こうなってたか、最悪気付かないまま、二人で、バッドエンドルートに、入ってたかも」

『二人で共依存して、ズブズブの関係になっちゃうルート?』

「いや……まあ、ざっくり言えばそう、かな」

『共、でも、やっぱり嫌なんだね』

「……そこに少しでも、ディアナの後悔があれば」

『なくても、本当にイチ兄は受け入れられたのかな』


 気づけば電話の向こうの碧音の声は軽くなっていた。


『……でも、イチ兄はまだしも、ディアナさんにそういう面があるのは、完全に誤算だったね』

「うん。危ういのは、わかってたんだけど」

『真面目で純朴で、ちゃんと大人な見た目より内面は幼くて、イチ兄にはちょうどいいと思ってたんだけど』

「碧音、事実だとしても、言い方がある」

『ごめんなさい。……でも、そこに魔性があるのかも』

「魔性?」

『ふ、なんかディアナさんに全く似合わないね。まあ、あったとしても絶対無自覚だろうし、……私も、ディアナさんは本当に優しい人だと思うよ。優しくて、弱さを持ってる人』

「その根拠は?」

『女の勘』


 笑ってしまって、キレる碧音をなだめている間にようやく公園へたどり着いた。見回してもやっぱり誰もいないけど、一応トイレは確かめておかなければ。


『だからイチ兄、ちゃんとディアナさん連れて帰ってきてね』

「うん。本当に見つけられたら、だけど」

『見つけても、ちゃんと帰ってきてね』


 そこでようやく、碧音の声がだんだんと弱くなっていたことに気付いた。


『絶対、早まってディアナさんについて行くとか、絶対、絶対やめてね』


 そして碧音に、これからも心配をかけ続けるということにも。


「ありがとう。碧音」

『は、はぁ? べ、別に』

「あのさ、碧音」


 そこでまた、不安になってしまった。


「……俺、このままディアナ探しに行っていいと思う?」


 覚悟は決まったつもりだった。

 けれど十も年下の従妹に、それだけの心配をかけてしまうほどの異常な行動を、このまま続けてもいいのか。

 俺はいつかこの行動を後悔するのだろうか。一度失敗しているなら、また失敗するんじゃないのか。そもそもディアナは、もし俺が見つけられる場所にいるとしても、本当に見つけてほしいのか。

 それは、本当に俺は見つけるべきなのか。


『……イチ兄は、どうしたいの?』


 しばらくの間をおいて返ってきたのは、これまでに何度かディアナにぶつけてきたのと同じ質問だった。

 こんなにも難しいものだったとは。


 俺は、今までたくさん縛られてきたあの子に、自由に選んでほしくて尋ねた。

 けれど現実は簡単じゃない。したいようになんてできない。俺はそうすると逃げてしまう人間だから。したいと思うことが、本当にしたいことなのか、俺にはもうわからない。

 だから俺は考えることにした。けど、考えて考えて答えを出したって、結局は後悔することのほうが多い。

 それでも考えてしまうのは、やっぱり俺が臆病で、学ばない馬鹿で、欲深い凡人だからなんだろう。


 けど、その凡庸と、どこかの愚直な勇者のせいで、俺は自分にとことん素直になって、自分の奥底の欲望にたどり着いた。

 そのはずだ。


 ……まあ結局のところ、俺はこの幼い『したい』に、ただ従いたかっただけなんだろう。


「俺は、あの子を元気にしてあげたい」


 少し間を置いてから、電話の向こうで「あっは」と吹き出す声が聞こえた。


『すごい。めちゃくちゃ綺麗事。イチ兄、ちゃんと恥ずかしいこと言ってる自覚ある?』


 この、クール属性気取りの高飛車従妹が。本当はキュートのくせに。でもたしかに今のはカッコつけて言った。


「自覚はあるよ。でも、それだけじゃなくて」

『認められたい、でしょ? ……イチ兄は純粋だね。というか、純粋でいたいんだろうね』

「え」

『じゃあ大丈夫。ほら、心当たりあるとこ、すぐ行って』


 今。めちゃくちゃ真ん中を突かれた感覚が、


『ほら、走って!』

「あ、はい!」


 急な従妹の強い声に思わず走り出してしまった情けなさで軽く死にたくなるが、もう今さらだった。今さらのついでに探す場所の相談もすることにした。本当に俺は大丈夫なのか。


『うーん、やっぱり可能性が高いのは、牧場と海辺かな。完全に反対の位置にあるけど、近いのは海だね。じゃあ、とりあえず海の方に向かって、牧場には電話してみよう。で、公園は?』

「く、クリア……」

『女子トイレ入ったの?』

「よ、呼びかけただけ、です。でも」

『ディアナさんだったら、息切れしてるイチ兄を無視はしないよね。よし、じゃあ駅のほうに走って! ゴー!』

「このっ、了解、ですよ……!」


 頼っているのをいいことに、電話の向こうの碧音は心底楽しそうだった。他人事だと思いやがって。運動不足二十七歳のダッシュがどんだけキツイと思ってんだ。


『じゃあ、牧場には私が電話しとくから』

「うん。ホントに、ありがとう」

『いいよ、別に。また、なんかあったら連絡するし、連絡して』

「了解、です」

『……それじゃあイチ兄、頑張れよ』

「頑張り、ます」


 そのくせに最後はちょっとしおらしくなってから、ぶつりと電話は切れた。

 今度なんか高いものでも食べさせてやろうと心に決めて、スマホはコートの内ポケットに押し込む。

 あとはとにかく走る。


 本当に、こんなに走ったのは久しぶりだった。

 早くも足は重たくなっていた。そういえば冬はこんなふうに気管の奥が痛くなるんだった。内臓も軋むみたいにだんだん痛くなってきていた。とにかく息がキツくて、肺が半分に縮んだように底が浅かった。

 けどディアナがいつまでそこにいてくれるのか、俺にはわからない。もしかしたら日の出をタイムリミットにしてるかもしれないし、もうとっくにいないかもしれない。

 わからないから、今は最速で確かめに行くしか方法がない。


 暗い。苦しい。寒い。痛い。苦しい。

 あの子は今どうしてるだろう。


 公園から駅までの十数分、俺は何度も足をもつれさせながら、どうにか駅にたどり着いた。

 膝に手をついて息をしながら、周りを見回してみる。

 こんな時間でも人がいないわけじゃない。でもやっぱりディアナはいない。でも駅前のバスロータリーにいた数人が思わず顔を上げるくらいに俺の息は荒れていたから、万が一ディアナがいても、俺を見つけられないことはない。

 ……俺はどこまでも、あの子に任せることしかできない。

 最後にもう一度、体ごと三百六十度見回してから、俺はいつもの改札を抜けていつもと反対のホームに向かう。

 運良く電車は発車直前で、俺が乗ると同時に扉が閉じた。


 車内は暖房が効いていて、とても離れたところに老人が一人座っているだけだった。

 俺も座って、しばらくゆっくり息をしてから顔を上げると、まるで家出してきたみたいな格好のやつれた男と目が合った。

 窓の外はまだ真っ暗だった。


 そういえば一昨日の朝から髭を剃り忘れてたんだと思い出して、すぐに仕事のことを思い出した。

 慌ててスマホを見ると、六時一分。

 一応計算してみる。海までは片道が一時間弱。最寄り駅から会社までが約二十分。向こうの駅で座って待っているディアナを担いで帰りの電車に飛び乗って、この格好のままディアナと一緒に出社したとしても、始業の八時半にぎりぎり間に合うかどうか。


 ……なんて言おう。

 なんだかんだこれまで電車遅延以外で遅刻なんてしてこなかった。というか遅刻でいいのか。もし海にいないとしたら、その後もっと時間がかかるのに。けどこのクソ忙しい時期に、弊社は病欠なんて許してくれるのか。

 悩んでいる間に碧音からメッセージがきた。牧場には家出した友人を探しているという設定で電話をして、牧場の方はわざわざ辺りを探してくれたらしいが、誰かが来ているようなことも、何か変わったことがあったりもしなかったようだった。


 そして、ベランダにディアナからの手紙があったらしい。

 羊皮紙に、少し歪な日本語で、簡単なさよならとお礼と謝罪が書いてあったそうだ。


『ありがとう。今度何か奢る』と碧音に返信しながら、俺は海にいなかったら諦めた方がいいかもしれないなと思った。

 というより、いるなら海だと思った。理由は向こうからこちらに来たときに海の上で魔法を使ったと言っていたからだ。

 あの子は昨日、向こうの世界は戻ると言っていた。だったらディアナはきっと帰ろうとはしている。

 そしてもし俺を待っているなら、瀬戸際でぎりぎり踏み出せないからだ。けど、これは本当にただの直感だけど、たぶんいつまでも待ち続けることはない。

 ……そうだ俺は、あの子にそれを言わなければいけない。


 老人から一番遠い隅に移動して、上司に一応電話をかける。出ない前提で後から送るメールの文章を考えていたが、三コール目で『どうした?』と聞こえてきた。

 少しテンパりながらもなんとか、明け方から高熱が出ていることと、病院に行ってからもう一度連絡するが、今日は出勤できない可能性もあることを伝えた。我ながら上手く言えたような気がしたが、返ってきたのは『女だろ』だった。今度こそ完全に頭の中が真っ白になってしまった。


『……いいよ。せっかくのイブだもんなぁ』


 そして聞こえた言葉の意味がわからなくて、もう一度頭が固まった。


『病欠、承知しました。でも土日でちゃんとケリつけろよ。……一応、月曜は帰れない可能性も視野に入れておくように』


 まさかこんなにすんなり通るとは思っていなかった。反射的に「はい、ありがとうございます!」と頭を下げていた。たしかに最後のは結局アレではあるんだけど。

 だって、期限はもう火曜なのに。


「月曜、できるだけ早く出ます」

『いいよ来るのは普通で。あーでも、睡眠はきちんととってくるように』


 それから何度か礼を言って、また最後に『頑張れよ』と言われてしまってから電話は切れた。元々悪い人ではないと思っていたけど、もう俺の中では完全に良い上司になってしまった。会社も、実はそこまでアレでもないのかもしれない。

 とか舞い上がっていたから、そういえば『女だろ』を否定し忘れていた。

 でも否定したらそれはそれで説明が面倒だし、仕方なかったのかもしれない。


 無意識に一度、大きなため息が出る。同時に電車のアナウンスで、降りる二つ手前の駅名が流れる。


 もう少しで着いてしまう。

 そういえばもしディアナに会えたとしても、俺は上手く話せるだろうか。どう言葉にすれば、あの子に正しく伝えられるだろう。また、間違えないようにするには。


 電車が止まる。動き出す。すぐに止まって、老人が降りる。また動き出して、答えが出る前に、駅に着いてしまった。


 電車の外は前に来たときよりもずっと寒かった。

 太陽はたった今、登り始めたところだった。



  *



 駅から砂浜まではほとんど下り坂だった。

 ぎしぎし痛む脚は何度も突っ張って引っかかりそうになったけど、なんとか転がり落ちることなく無事にたどり着いた。


 あのときは真っ黒だった海が、今は薄紫と黄色に染まっていた。

 空はまだ藍色だったが、海との境界線には朱色が広がっていた。


 太陽はすでに海から抜け出していた。

 見渡す限りの砂浜には、誰もいなかった。


 ちょうど良かった。

 覚悟は、今決めた。

 荒い息の隙間に、加齢と煙草で劣化しつつある肺へ。

 これ以上ないくらい、空気を詰め込んで。



「――ディアナぁぁあぁぁ、あぁぁぁぁぁぁ!」



 一度、俺に出せる最大の声で、名前を呼ぶ。

 声の続く限り。ひっくり返ったし、普段大声なんて出さないから、喉はすぐにおかしくなったけど。


 この広い場所で、あの子ともう一度出会うために。

 どこかでまた剣と膝を抱えて丸くなっているかもしれない君に、顔を上げてもらうために。


 それから何度も息を吸いながら砂浜に降りて、堤防から水平線まで絶対に見逃さないように何度も視界を往復させながら、また走る。


 どこかにいるはずなんだ。

 どこかにいたら、きっと俺を見つけてくれるはずなんだ。

 俺を見つけてくれたら、きっと俺が見つけられるように、『透明化』だって解いてくれるはずで。

 ……そうだ、どこまでも都合の良い仮定だ。


「ディアナぁぁぁぁぁぁあ、あが、はぁ、は、ディアナぁぁぁぁぁぁ!」


 そんな都合の良い馬鹿みたいな仮定だけを、自分の考えを信じて。

 走って、走って、走り続ける。


 ……でも、他に誰もいないからって、走りながら叫ぶのはダメだった。

 本当に酸素が足りなくなってきて、目の前がチカチカしてくる。


 でもやめられない。あの子がまだいるなら、俺に気付けるように。さっきのは聞こえてなくても、今回のが届くかもしれない。

 絶対に見逃すな。見逃したら、それであの子は諦めてしまうかもしれない。

 堤防の根元の暗がり。遠くの海面。あの子の髪によく似た色の上空も。


 何度も砂に捕まりかけていた足の裏に、突然びきりと鋭い痛みが走る。攣ったらしいが、関係ない。今の俺はそれどころじゃ――


「あっ、ぎ……!」


 それどころじゃないのに、気が付くと脚が体を支えていなかった。

 地べたに落ちる。手は出たけど、胸のあたりに鈍い衝撃。


 気付くと砂浜にうつ伏せで倒れていて、顔も口もコートも砂だらけで最悪だった。

 体を起こして砂を吐き出す。息が苦しい。右の太ももが強烈に痛い。鉄の芯を刺しこまれたみたいに硬くなって、力が入らなかった。


「くっ、そ……」


 まだ走らないといけないのに。

 どれだけ情けないんだ、俺は。


 こんなふうに転んだことなんて、それこそ部活の合宿で百本坂ダッシュしたときくらいだったのに。あの頃だったらもっと遠くまで、もっと速く走れたはずなのに。

 ……あの頃だったら、きっとこんな事態になることもなかった。あの頃だったら、こんなに脚も弱くなくて、こんなにずる賢くもなかったはずだった。

 もう少し意地を張ろうと、自分のことを強いと思えていたはずだった。

 格好だけつけようとして、本当に情けない。


 ……この情けない姿を、ディアナに見られてしまったんだろうか。

 走りすぎて攣ってずっこけて、自分の体と心の弱さが情けなさすぎて、起き上がれなくなっている姿を。


 でも。

 もう、それでもいいからさ。

 見られてたっていいから、いてくれよディアナ。


 このまま、何もないまま終わるわけには、いかないんだよ。

 俺は君に認めてほしいんだよ。

 君になんの憂いもなく笑ってみてほしいんだよ。


 だから。


「いっ、……大、丈夫、攣ってようが、歩ける、し」


 馬鹿みたいに、誰もいないのに意地を張る。なんとか左足と腕の力で立ち上がる。

 走ろうとすれば本当に動けなくなりそうだから、歩くしかない。砂浜はあと五百メートルくらい。大丈夫だ、歩けなくはないし、その間に脚が戻ってくれたら、また、




「――なにをしてるんだ、イチノスケ」


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