8-6.「There is always lights」⑥


 最初は本気で幻聴だと思った。


 それくらい息は苦しくて視界は眩しかったし、正直脚の痛みも酷かった。

 でも振り返ったらディアナがいた。


 赤い髪が朝焼けを受けながら風に揺れて、鎧と剣も、鈍く輝いていて。

 ……そして物語の主人公みたいに綺麗なその緑の目は、涙を薄く溜めながら、怒ったような悲しいような、なんとも苦しそうな形をしていた。


 俺の脳が、こんなに美しい光景を創り出せるとは到底思えなかった。

 と考えた瞬間、本当に情けないことに脚の力が完全に抜けた。

 なんとか立ち上がったのに、尻からどさりとまた砂の上に落ちてしまう。


「い、イチノスケ!」


 すぐに駆け寄ってきたディアナに、俺は「大丈夫」と手を上げる。

 そして想像以上に近くにあった、彼女の心の底から心配しているような顔に少し見惚れて……すぐにその手首を掴んだ。


「え」

「どこにいたの」


 どうしてそんなことをするのか。どうしてそんなことを聞くのか。

 本気でわからないような顔でしばらくは固まっていたが。


「そ、そこだ」と正直に指差した先は、前にココアを買った自販機のある灯台だった。


「はは、マジの灯台下暗しだったと」

「え、えっと、私はあの灯台の上にいた」

「上でしたか」


 それは見つからないわけだ。

 下だったら、きっと見つけていたはずだけど。


「いるとしたら、海のほうかと」

「なぜだ?」

「え……その、もしかしたらもう、戻ろうとしてるんじゃないかと思って」 


 けれど本当にいてくれるとは。

 ディアナも、とても驚いた顔をしていて。


「すごいな、イチノスケは」


 しかし見開かれていた瞳が、ふいに細められ、俯く。


「でも違うんだ。私はそんなに強くない。あと一歩が踏み出せなかったんだ。海の上までは行って、でもここまで戻ってきてしま」

「だと思ってた。俺は、君のその弱さに賭けて、ここに来た」


 ちょうどそれが俺の言いたいことだったから、つい声が出てしまった。


「……そうか、そこまで」

「うん。君だったら、俺が見つけられないとこまでは行かないし、すぐに帰ることも、ないと思った。……こんなに予想通りに、都合良くいてくれるとは、ちょっと予想できてなかったけど、でも」


「――そうだ。都合が良すぎるんだ」


 ディアナはまだ俯いたままだった。

 けれどそう言った彼女の静かな声には、これ以上言葉を続けてはいけないような威圧感があった。


「私は、行き先も言わずに出て行ったのに、そこまで私のことを考えて、追いかけて来てくれた。イチノスケの言う通りだ。私は……貴方だって、ダメだと言ったはずなのに、私は、本当は貴方に追いかけてきてほしくて、見つけて、ほしくて。……どうしてだ。どうしてそんなに都合が良いんだ」


 もう声でわかっていた。

 顔を上げたディアナの瞳からは、ぼろぼろと大きな涙がこぼれ落ちていて。


「貴方も、本当はそうなんじゃないのか! 貴方も、都合が良いように剣が用意した運命で! ……それでいつか、みんなみたいにいなくなってしまうんだ。私のせいで、みんな不幸に。そんなの、もう私は、耐えられないっ……!」


 ついにはぺたんと、目の前で俺と同じように座り込んで、泣き始めてしまう。

 けれどそれはやっぱりなんとか抑え込もうとするような泣き方で、とても苦しそうだった。


 ……また抱き締めてやれば、一緒に泣いてやれば、この子はもう少し楽になるんだろうか。

 今、正しくそれを実行できる強さが俺にあれば。

 そんな運命あるはずないって、言ってやれる勇気が、賢さがあれば。


 どれも俺にはなかった。

 から、ただ俺はこの子がどこかへ行ってしまわないように、その腕を握っておくことしかできなかった。


「…………わかって、いる。こう考えてしまうことが、私の、弱さなんだ」


 なんとか、その可能性を否定してやれないかと考えている間に、ディアナの泣き声は止んでしまった。


「考えて、気づいた。私は、考えることから逃げてきた。全部剣に選ばれたから、自分にしかできないから、……目の前のことさえやっていればと、運命のせいにした。私は強くも優しくもない。ただ馬鹿なだけなんだ。ただでさえ、私は頭が悪いのに、楽な方に、逃げていた」

「ディアナは、馬鹿じゃないよ。そうやって色々考えられてるわけだし。物分かりだってすごく早いし。口下手ではあるのかもしれないけど、ちゃんと伝わるように話せるし。……社会人って、そういうのに敏感だから」


 泣いている間も、きっとこの子は考え続けていたんだろう。

 自分が泣いている弱さについて。

 泣いてはいけない理由について。


「だとすれば、なおさら私は逃げたことになる」

「運命だって考えるのが当然なくらいのことを、君は経験してると思うよ」


 泣いている自分さえ、どこまでも許せないまま。


「……そうかもしれない。けれど、喪ったことが辛かったのだとしても、私が逃げていたこと、逃げたことは変わらない。自分が、どこかで諦めていたのだと思うと、私は自分が、殺してやりたいほど憎い。……そのはずなのに」


 結果、彼女は自分をひたすらに責めることを選んだ。

 逃げた自分を。

 また逃げた自分を。

 また逃げるかもしれない自分を。


 だったらもう、君の最悪な運命に見えているものはただの魔神の策略だとか、もし苦しむことで強くなるような仕組みが剣についていないのならそんな運命にする必要だってないはずだとか、そんな仮説を言ったって、君には通じないんだろう。


「……じゃあ次は、俺の弱さについて、聞いてくれる?」


 だからって特に考えがあるわけじゃなかった。

 ただ彼女が告白してくれて、俺も似たようなことを考えていたから、知ってほしいと思った。

 ディアナも少し困ったような顔をしていたが、頷いてくれないわけもなかった。


 ……けど、いざ話そうと思うと急に緊張してきた。


 海からぼんやりとした色はすでになくなっていて、空は黄色が少しずつ水色に塗り替えられていた。


「俺はさ、とにかく自信がなかったんだ」


 少し声が震えた。

 ディアナは何も言わない。波の音もほとんどしなかったけど。


「覚えてないくらい昔から。でも若い頃は、もうちょっとマシだったはずなんだけど、現実がわかってきて、目の前のことを片付けるので精一杯になって、いつの間にかそういう、自分に期待するみたいなのが、本当にできなくなってた」


 話しながらも思った。

 ディアナの物語に比べて、俺は本当に薄くてちっぽけだった。


「だから、自分じゃ無理だから、誰かに認めてほしかった。でもそっちの方が難しいんだから、叶うわけなくて、ずっと足りないのを、考えないようにしてて、でも段々抑える元気もなくなってきてて、……そんなときに都合良く現れてくれたのが、君だったんだよ」


 ちらりと目だけを向けてみると、ディアナはじっと俺の顔を見つめていた。

 耐えられるわけもなくて、また海の方を向く。


「あのときは、というかずっと自覚はなかったんだけど、たぶん俺は、君に認めてほしかったんだよ。見るからに弱ってて、簡単に優しくできそうで、なのに美人で、とにかく綺麗で、明らかに普通じゃなくて特別そうでさ……ああクソ、マジで俺最低か。……とりあえず君は、認めてほしい俺にとって、これ以上ないくらいに都合が良かったんだよ。――だから君を利用したんだ」


 けど。

 この先は。


「「でも」」


 目が合った彼女と声が重なった。

 驚いたし、驚いた顔をしていた。

 けれどそれは予想できていたはずだった。


「……でも、イチノスケは、私を拒絶したじゃないか」


 拒絶と言われると少し苦しくなる。けど彼女はそう感じたんだ。


「俺は、そうやって利用したせいで、君がちょっとずつ歪んでいくのを無視できるほど、なりきれなかった。というより、君を騙してるみたいなのが、そういう自分が嫌だった。……じゃあなんで、また今ここにいんだよって話だけど」


 自分勝手なことはわかっている。

 そしてきっと彼女がまた、歪みかけた自分を責めていることも。

 そうだ。俺と君はきっと少しだけ似ている。

 だから、恐れるな。


「俺は、このままだと絶対、後悔すると思った。――でもそれは、君も同じだったんじゃない?」


 気持ちが逸ってしまって、ディアナを固まらせてしまう。

 違う、落ち着いて、もっとわかりやすく。


「つまり俺が、結局は君への罪悪感に耐えられなくなったみたいに」

「――私も、結局世界への罪悪感に、耐えられなくなってしまう」


 しかしディアナは、わかってくれたわけではない。


「でも私はそんなに強くない。また戻れなかった。……それにイチノスケと違って、私はあのとき、イチノスケが抱きしめてくれていたら、もう世界を見捨てていた」

「じゃあ、もう一回抱きしめてあげる」

「……え?」


「もし今、君がその剣を、海に投げ捨てるならね。だって君はその剣に従って世界を救おうとしてたけど、俺を選ぶなら、もう要らないはずだよね? 君にそれができるなら、俺は受け入れてあげるよ」

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