7-4.「凛と呟いた」④



 とても息が苦しかった。

 いつの間にかうるさいくらい息が上がっていた。


 そして気付くとそんなことを言っていた。

 言ってはいけないことを言った自覚はあった。


 ……けれど、これでよかったんだ。

 俺はディアナに酷いことを言った。言ってよかったはずだった。


 いつの間にか玄関は冷たい夜の匂いになっていて、自分の息の音だけが聞こえていた。


 ディアナはもう泣いていなかった。

 顔から離した手のひらは濡れていて、目元にはまだ涙が伝っていた。

 それでも瞳はまっすぐに俺を見つめていた。



「やっぱり私は不幸にしてしまうんだ」



 そのまま俺から視線を少しも動かさずに、ディアナはそう呟いた。


 呟いてからは、気付いてしまった事実を淡々と確かめるように、どこでもないところを見つめていた。


「そうだ。私はまた逃げようとして……そうだ、たぶん私もだ。私も、弱いから、逃げて、弱いから、頼りすぎてしまう。……だがイチノスケ、これだけは信じてほしい。私は貴方を苦しめたかったわけじゃない。本当だ。むしろ私は貴方の役に立ちたくて…………いや、私もそうだったのかもしれない」


 どこでもないところへ向けて、俺に訴えかけるように話していたディアナは、また新たに気付いてしまった。

 じっと、何かを覚悟してしまったような緑の瞳で、彼女は俺を見た。


「私も、きっと貴方に必要とされたかったんだ。同じだ。私もわかっていたのに、自分のために貴方が、私を必要としてくれるように、きっとしてしまっていた」


 俺も、彼女も、互いに。

 自分にとって相手が必要だから、相手も自分を必要としてくれるように。

 だから。


「だが、私はイチノスケを、不幸にしたくない。これだけは本当だと、思いたい」


 そう言ってディアナは、涙が残る顔で頼りなく笑った。

 笑って、振り返って、洗面所へ入っていった。

 中からごそごそと布の音が、服を脱ぐような音が聞こえてきて、俺はただ次に何が起こるのかを、待っていることしかできなかった。


 洗面所から出てきたディアナは、初めてここにきた日と同じ服を着ていて、ぱたぱたと部屋の奥へ向かった。


 少し経って、もう一度俺の前に戻ってきたディアナは、自分の胸元あたりに手のひらを当てた。

 すると彼女の体にあの青く光る毛糸のようなものが広がって、次の瞬間には鎧をまとっていた。


「借りていた服と、今着けていた下着は洗濯機に入れてある。買ってもらった服は一つの袋にまとめておいたから、アオネにでも譲ってもらえればいいと思う。あと、シチューは少し味が濃くなってしまったから、温める前に牛乳をコップ半分くらい足してほしい」


「え、ちょ、ちょっと待って。……今、出ていくの?」


 声に出しながら、自分が馬鹿みたいなことを聞いている気がした。


「ああ。そうする」

「いやでもそんな急に……、あ、明後日まで待ってくれたら、言ってたバアちゃんのとこに」

「大丈夫だ。じきに、私は向こうへ帰る」

「え?」

「イチノスケのおかげで、何か大切なことを掴めそうな気がするんだ。もう少し、考えごとをするくらいなら、どこか人のいない場所を探せばいい。教えてもらった通り、ちゃんとみつからないようにする。……すまない。これ以上誰にも迷惑をかけたくない。それに、今出ていかないと、きっと決心が鈍ってしまうから」


 何も言い返せなかった。

 ディアナの言うことに、何も間違いを見つけられなかった。


「本当に、ごめん。こんな追い出すみたいなことになって」

「……。なあ、イチノスケ、私が今、こうして立ち上がれたのは、誰のおかげだと思っている」


 隣をすり抜けて、ディアナはドアの前で振り返る。


「全部イチノスケのおかげだ。もちろんアオネもだが、拾ってくれたのはイチノスケだ。……大丈夫。イチノスケは、優しいよ」


 言いながら、ディアナは笑う。

 微かに光る手のひらでドア板に触れて、「外には誰もいないらしい」と小さく言う。

 がちゃりと、玄関が開かれる。


 冬の夜の濃い匂いがして、鎧姿のまま外へ出たディアナが、通路の明かりに照らされる。


「――イチノスケ、今までありがとう」


 もう一度振り返った彼女の目元はうっすら赤かったが、とても綺麗な笑顔だった。


「何も返せなくて、本当にすまない。アオネにも、すまないと伝えておいてくれ」


 その笑顔に見惚れて、動けなくなってしまっている間に。


「……じゃあ、さようなら」



 ディアナが消えてしまった。



「あ」


 瞬きさえしなかったはずなのに。

 あまりにも突然のことで。

 突然、ただ蛍光灯に照らされるだけの、何もない玄関の前の風景になっていて。


 まだ何も言えていないのに。


 ぼっと、小さくて強い風が吹く。

 すぐにわかった。ディアナが飛んだ。


「元気で……!」



 ――そして、飛んでいってしまった。



 一応手を伸ばしてみたけど、当たり前に指は何にも触れなかった。

 そのまましばらくは月の無い、星だけの空を眺めていたけど、誰かが階段を登ってくる音がして、それがディアナではなかったから、俺は家の中に戻った。


 ……これでいい。

 これでよかったんだとしか思えなかった。


 突然すぎたのかもしれないけど、きっと突然じゃなければ俺もあの子もダメだった。


 リビングの隅に置いてある布団は綺麗に畳まれていて、シーツやカバーも外されていた。

 買ってやった服は紙袋にまとめられていた。読みかけの本もその横にきちんと積まれていた。最近よく遊ぶようになったゲーム機がテレビの横に出してあった。

 コンロの鍋には、明らかに一人では食べきれない量のシチューがあった。


 正しいとしても、さすがに喪失感があって、思わずキッチンに両手をついてしまった。


 ……けれど。

 このまましばらくぼーっとしていたかったけど、明日も朝から仕事だった。

 風呂に入らないといけない。昼をまともに食べてなかったから、こんなときでも腹が減る。


 久々に上着をソファに脱ぎ捨てて、簡単に体を洗って湯船に浸かった。

 風呂ではあのシャンプーやコンディショナーをどうするか、あとは碧音にどう説明するかをずっと考えていた。

 結論はいつまで経っても出なかった。


 風呂から上がってすぐに発泡酒を開けて、コンロに火をつけた。

 シチューはすぐに温まって、すごく温かくて美味かった。けど牛乳を入れ忘れていて、たしかに少しだけ塩味が強かった。

 食べていると無性に泣きそうになって、泣くわけにはいかなかったのに、誰にも見られないと思うと少し溢れ出てしまった。


 シチューを食べ終わって、発泡酒をもう一缶とハイボールを一缶空けたら、いつの間にか天井の照明を見上げていて、何も考えられなくなっていた。


 テレビも電気もつけっぱなしだ。ジャケットもハンガーにかけてない。洗濯物も干してない。


 ……でも、まあいいや。

 最後になんとかスマホの目覚ましだけかけて、ソファからクッションを引きずり落として、柔らかさに頭を預けて目を閉じたら、すぐに眠気はやってきた。


 そこからとにかく何も考えないようにして、意識が眠気に取り込まれていくのを、じっと待っていた。

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