7-3.「凛と呟いた」③
……ディアナは息苦しそうな顔をしていて、さらに続けた。
「私は、ずっとここに居続ける。ずっとイチノスケのためにここで働く。嘘だと思うなら、絶対に破れない契約の魔法を使ってもいい。もし破れば私は死……あ、いや、では、絶対にこの部屋から出られない結界の魔法を使って、支配権をイチノスケに譲る。そうしたら、私はイチノスケの許可無しには部屋を出られなくなる。それだけの覚悟が、私にはある。それでも、ダメ、なのか……?」
続けられても、同じだった。
俺にはディアナが何を言っているのか、なんでそんなことを言うのかが、わからなかった。
……いや違う。わかってる。
それはただの勘違いだ。
絶対に正さないといけない、勘違いだ。
「君、俺のこと、好きなの……?」
ディアナの瞳がふぅっと小さくなったように見える。
確かめるための、とても間抜けで無遠慮な、残酷な質問。
けどそれならそれでいい。
「……わからない。でも、この頃よくイチノスケのことを考えてしまう。イチノスケのことを考えると落ち着くのに、ときどき胸の奥がぎゅっとなる。……これは以前、エルに教えてもらったものと似て」
「大丈夫。それは全部勘違いだよ。……というより、全部君が俺に保護されてるからだ。……いや、やっぱり勘違いだね。俺はただ保護してただけじゃなくて、君に、――君が弱ってるのを利用して、君が俺を良く思ってくれるよう、優しいふりをした。ほとんど、洗脳みたいなものだよ」
「……じゃあ、いいじゃないか」
しかし今度こそ、ディアナが何を言っているのかがわからない。
俺は、全て言い切ったつもりだった。
「イチノスケは私に良く思われたくて、優しくしてくれたんだろう? それで、私はイチノスケを良い人だと思っている。そして、イチノスケの優しさは本物だ。洗脳なんかじゃない。私は洗脳も効かない。心も守られている。……そもそも、イチノスケは私を洗脳しても酷いことはしない。私には、わかる」
わかっていない。
それを思い知らせないと。
それだけだった。
あとは何も考えずに、俺はゆっくりと両手でディアナの首を掴んでいた。
「いい。イチノスケになら殺されても」
「……それは、ダメだろ」
「そう、か。……あっ、ほら、やっぱりイチノスケは優しい。大丈夫だ。偽物なんかじゃない」
俺の両手の中で、ディアナはそう言って微笑む。
しかし、思い出したように笑みを消してから、
「だから、全部私が自分の意思で選んだことだ。私にはもう、向こうの世界のことより、イチノスケと一緒にいることの方が大切なんだ。……私は、それを選べてしまう。だから、イチノスケが許してくれるなら、何も問題はない」
俺をじっと見つめて、それきり黙り込んでしまう。
彼女が話している間も、唾を飲み込んだ今も、手のひらに喉のうねりが生々しく伝わってきた。
……ディアナが最後に言った問題は、俺にとってはどうでも良かった。
俺の知らない世界や人間。ディアナにとって大切なものが残っていない世界。
やっぱり、大して重要じゃない。
あれ、と思って…………ディアナの不安そうな、ただただ俺を見つめている瞳と目が合って。
俺は、首から手を離した勢いのまま、ディアナを抱き寄せていた。
だって。
ディアナは俺を許してくれた。ディアナは俺を求めてくれた。
ディアナも、痛いくらいに抱きついてくる。
俺もディアナの肩と頭を掴んで、その熱と柔らかさを自分へ押しつけるようにきつく抱きしめる。
衝動だった。けどあのときとは違った。
弱っているのがわかって優しくしていた俺を、ディアナは理解した上で、優しいと言ってくれた。
ディアナは逃げてしまったことを受け入れられて、俺はそれを許した。
だったら。もう問題はないじゃないか。
……だったら。
ディアナの身体がひくりと震えた。
肩が震えているのに今気づいた。
ディアナが泣いている。
確かめるために少し離れようとすると、ディアナは離れまいとしがみついてきた。
「イチノスケ、本当に私は、一緒にいて、いいんだよな……?」
ディアナがそう尋ねてきた理由を、なぜか俺は一瞬で理解した。
――その瞬間、俺はディアナの肩を突き飛ばす勢いで押し離した。
理解できたのは、ちょうど考えていたからなんだろう。
引っかかったんだ。
ディアナが受け入れたことに。
逃げた自分をあれだけ責めて、あれだけ怯えた目をしていたディアナが。
受け入れきれていないから、俺に許しを求めたのか。
自分が許されていいと思えないから、そんな自分がこの人と一緒にいてはダメなんじゃないかと、思えてしまうんだ。
……だから、そんな涙を流すんだ。
「あっ」と顔中に焦りと悲しみを広げるディアナをもう一度抱きしめてしまうことは簡単だった。
そうしてしまえば、ディアナはまた全てを俺に委ねて、溺れるように受け入れることができたのかもしれない。
ディアナは、そのつもりだったのかもしれない。
でも、できなかった。
怖かった。俺は、彼女の涙に、とにかく恐怖してしまった。
その涙が彼女に残った最後の『勇者』の部分だと思った。
……違う。だったら、もう手放していいはずだった。
――離れていくのが怖いのは、それがきっと『ディアナ』だからだ。
俺には上手く想像もできない壮絶な経験をして、あれだけボロボロになるまで戦って、それでも逃げた自分を責め続けていたディアナが。
今、沈んでいく。
ディアナ自身が、沈めようとしていた。
この子がそんなことをしているのは、どう考えても、俺が原因だった。
俺は何も特別なことはしていない、彼女の壮絶な人生を塗り替えてやるようなことは何もしていないくせに、一番弱いときに触れて、歪めようとしていた。
俺が、この子を変えてしまう。
それがどうしても受け止められなかった。
「やっぱりダメだ」
今、沈めて、目を逸らしたら、俺たちは悪くなっていることに気づけないまま進んでしまう。進んで進んで、けれど必ずどこかでまた見つけて正気に戻る。
ちょうど今日みたいに。
……そして今日みたいに気付くんだろうか。
今日とは比べ物にならないくらいの、取り返しがつかない現状に。
俺はその、真っ暗なことに気づく瞬間が、怖くて仕方がなかった。
「君は俺と一緒にいちゃいけない」
「ぁ……、やっぱり、許せない、のか……?」
「それは俺が許すかどうかじゃない、君が、許さないんだよ」
「わ、私は、イチノスケさえ」
俺の余計な言葉の揺れで、沈みきってしまう前に、彼女に気づかせなければいけない。
だから一番、残酷に。
「じゃあいいんだな? 君は、本当に、向こうの全世界の人たちを、見捨てるんだな?
――君が逃げて、向こうの人たちは、全員死ぬんだな!?」
ディアナの息が止まる。
本当に息を吸うことができなくなったみたいに喉が潰れた音を立てて、喉の下あたりを掴む。
また涙が流れる。
「そんなの、嫌だっ、けれどここで、イチノスケと離れるのも、嫌だぁ……っ」
「どう、するかは、まだゆっくり考えればいい。ただ俺はダメだ。……本当にごめん、こんな急に。全部、俺のせいで」
「あ……わ、私は、ただもう静かに、イチノスケと一緒に暮らせたら、それで……、イチノスケ、本当にダメ、なのか……?」
口元と声が歪んで、落ちる涙を押し込めるように手のひらが彼女の顔を覆う。
俺まで、息が苦しくなってくる。
俺が彼女を苦しめている。
俺が彼女を泣かせている。
「俺だって、それで良いんならそうしたいよ」
だって君が言ってくれているのは、ずっと俺がほしかった言葉なんだよ。
……だから、否定できなかった。したくなかった。
「でもダメなんだよ。そんなわけないんだ。……結局俺が弱いせいだ。俺が弱いから、君を変える。でも弱いから、変えた責任も取れない」
けど俺はやっぱりただの臆病で、凡人だった。
考えないようにしているだけだった。
信じきるにも騙しきるにも、頭も心も足りなかった。
「俺は、絶対そのうち後悔する。いつか今日みたいに、君を騙してる罪悪感とか、勘違いしてる君とか、そういう違和感で、絶対いつか苦しくなる」
だって俺は、凡人だから。
「俺は、この先に何があるわけでもないけど、死にたくないから、ちゃんと明日も普通に、生きなきゃいけないんだよ。君みたいに……剣も使命もないから、全部自分で選ばなきゃいけないんだ」
君と違って。……あっ。
「俺は君みたいに逃げられない。君のこれからを、決めてあげることなんかできない。――だからこれ以上、俺に、寄りかかって、こないでくれ」
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