7-2.「凛と呟いた」②
帰り道にやたらとサンタが多いと思ったら、もう明日がクリスマスイブだった。
そうか。イブは土曜なのに普通に仕事だけど、クリスマス当日は休みなんだった。
そういえばずいぶん前から、今週は友達とクリスマス会をやるから来られないと、碧音から連絡が来ていた。
ディアナにもさすがにケーキくらいは買ってやろうか。
どうせならプレゼントもあった方がいいだろうか。でもあの子は何をあげたら喜ぶんだろう。
結局帰り道にあの子の欲しがりそうなものは見つからなかった。
代わりに、あちこちに貼られていたおせちのポスターが目についた。
年末年始ももう来週のことだった。
無事に納期を越えられれば、久々に長い休みが迎えられる。
そういえば年始は、いつも実家とバアちゃんのところに帰るのが恒例だった。
でも一昨年は疲れて寝正月で、去年はなんとか帰ったけど、今年はどうしよう。
もし行くとすれば、ディアナはどうすればいいんだろう。
そこまで考えたところで、玄関の前だった。
鍵を回してドアを開けると、いつものようにディアナが待ってくれていた。
「おかえり、イチノスケ」
気配を察知できるディアナは、マンションのエントランスあたりで俺が帰ってきたとわかるのだとか。
部屋の奥からはクリームシチューとわかる良い匂いと、温かい空気が流れてきていた。
――ここで、いつも通りに「ただいま」と言ってしまったら、今日はもいつも通りになってしまうと思った。
だから、何を言えばいいのか、わからなくなってしまった。
「……? イチノスケ? どうか、したのか?」
なんでもない。ちょっと疲れて。ただいま。
言ってしまいたいことをなんとか堪えていると、ディアナの表情にじわじわと不安が広がっていくのがわかった。
「もしかして、どこが悪いのか……? だ、どうし……そうだ、前に言っていたビョウインに、デンワした方がいい、のか? い、イチノスケ、私は、どうしたらいい?」
そんなに慌てる必要なんてないのに。ただ俺が、少し黙り込んだだけなのに。
「大丈夫。そういうのじゃ、ないから」
思わずそう言うと、次に俺が咳でもすれば泣き出してしまいそうだったディアナの表情は、一度驚いたような顔で固まって、ふっと心の底から安心したみたいに力が抜けた。「そ、そうか、よかった……」
そして俺にまだ何か言いたいことがあると察してくれて、安心した顔で、俺の次の言葉を大人しく待っていた。
……ただいま、じゃない。
俺はなにを、言おうとしていたんだっけ。
このままではダメで。
俺と、この子のために。
俺は。
「ディアナ。あの、自分の行いに向き合う、って言ってたのは、どう? 進んでる?」
「え。と、そ、そうだな、……正直に言うと、まだあまり進んでいない」
「じゃあ、もうしばらくディアナは、ここにいるってこと、だよね?」
「ああ、そうさせてもらえたらと、思っているが」
「具体的には?」
「ぇ……?」
ディアナは、空気だけ漏れたようなとても間の抜けた声を出した。顔を見ることはできなかった。
「だいたいでいい。ディアナは、あとどれくらい、ここにいる?」
「……え、えっと、その、あまりどれくらいになるかは、見当がつかなくて……そ、その、どうしてそんなことを、聞くんだ?」
どうして。
それを答える覚悟が、俺の中で固まる前に。
「もしかして、私がここにいてはいけない理由が、できた、のか……?」
ディアナの声は、震えていた。
「も、もしそうなら、遠慮なく言ってほしい。だがなにか気に食わないことがあったのなら、きっと改善してみせる。言ってもらえれば、もっと私はなんだってする。だから……その、もし私の存在自体が邪魔じゃないのなら、もう少し、私をここに置いてくれないか?」
「じゃあ俺が今、急に身体に触ったらどうする」
でも。
ディアナは少しの間、俺が言ったことの意味を理解するために固まった。
が、答えに詰まるようなことはなかった。
「身を任せる。イチノスケがそれを望むなら」
そんなことを、いつかみたいに俺をまっすぐ見て言う。
……けれど今回は、思い出したみたいに目を逸らして。
「すまない。これは、たぶん少し違う。本当は……その、私自身も、まだよくわかっていないんだが、私はあのイチノスケが一緒に泣いてくれたときのことが忘れられない」
あ。
「それでときどき、またあんなふうにと…………本当は、私が、イチノスケに触れてほしいのかもしれ」
……ああ。
そうだよな。
「それが、ダメなんだろ……!」
低い声を出すつもりが、思っていたより息が溢れた。
やっぱりディアナの方は見れない。
なんとか、大きく息を吸い込む。
「……君のそれは、勘違いだよ」
「ぇ……」
「つらいことがいっぱいあって、全部失って逃げてきて、自分がどうでも良くなって、その先で優しくされたら、感謝するし信頼する。その優しさに何が隠れてても。そういう、勘違いだ」
そうだ。
「俺はたぶん、最初から、そうなることに気付いてたんだよ。なのに俺は、君に優しくして、だから君は、勘違いした。……俺は君に、わざと勘違いさせたんだよ」
最初から気づいて――期待して、その上で、見ないふりをしていた。
自覚している気になって正面から見ないで、自分の本音からも、この子の変化からも目を逸らして。
……なあ、これだって薄々気付いていたはずだ。
ディアナは弱っていた。全部他人に委ねてしまうほどに。
そして、根っこから素直な女の子だった。
その、最初の方の自暴自棄な従順さが、だんだんと安心からくるものに変わっていた。
俺が何かを頼んだり、彼女のしてくれたことに喜んだりすると、彼女はとても嬉しそうにするようになっていた。
当たり前だった。
だって俺は傷ついた彼女を利用せず、危害を加えず、ずっと温かく見守って、優しい言葉だけをかけてきた。
……形だけなら、俺はずっと優しい大人だった。
……違う、違う。
決してそんなつもりがあったわけじゃなかった。
考えてもいないはずだった。考えられないとさえ、思っていたつもりだった。
でも。
この子は、素直に正直に、俺の行動を受け取った。
――結局俺は、弱った女の子に優しくして、好意を持たれたかった。
それだけなんだろう。
「……このままじゃ、俺は君を不幸にする」
「っ、そ、そんなことは」
「あるんだよ」
今度はちゃんと低い声が出せた。
ディアナは、とても辛そうな顔をしていた。
……あれ。
俺はどうして、こんなことをしているんだっけ。
「たぶん最初から間違ってた。俺は、君を拾うべきじゃなかった」
ひっと音が鳴ったのは、目の前のディアナの喉だった。
「明後日、俺の祖母の家に連れていくよ。その前に出て行きたかったらそれでもいい。見つからないようにっていうのは、もう言わなくてもわかるよね」
俺は今、ディアナにとても酷いことをしていた。
けれど今そうしないと、俺は――きっとディアナも、ずっと目の前の心地良さに囚われて、その先にある不幸から目を逸らし続けることになるんだ。
ならいっそ、もっと酷いことをするべきなんだろうか。
何かもっと徹底的に、彼女に嫌われてしまうような。
「わ、私は、イチノスケとずっと一緒にいたい」
……想定はしていたのに、体が動かなくなる。
腹の中が揺れる。
けど、どうにか振り絞る。
「それはできない」
「どうしてだ、私が、ダメだからか? ダメなところは全部直す。容姿は、限界はあるが、変えられるところは変える」
「違う」そんなはずがない。君にダメなところなんてない。
「では、私が逃げてしまったからか? やっぱり私の罪を、許せないのか?」
「違う」俺はきっと、それを重く考えることはできていない。
「では、私が別の世界の人間だからか? 私がいつか、向こうに帰るべきだと思っているからか?」
それは否定できなかった。
正解ではなくても心当たりがあった。
――けれどその前に、さっきからずっと違和感があった。
ディアナの目を見て、それらはとても大きなものへと変わった。
あの、職場で手が動かなくなったときの感覚だった。
――俺はずっと、この子がまともに、回復してくれることを目指していて。
「だ、だったら、私が、もう二度と、向こうの世界に帰らないと、言ったら?」
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