7-1.「凛と呟いた」①


 相変わらずデスマーチの日々は続いていた。


 ギリギリがどんどんギリギリになって、常に背中をデッドラインに掠められながら、なんとかチェックポイントを通過しているような状況だった。


 そんな状況をいつまでも維持できるはずはなくて、少しずつ、確実に、全員の走る速度は落ちていた。

 俺もまぶたがときどきピクつくし、目の奥が痛いような重いような感覚は先週から一度も消えていない。

 それでもみんな今の全力で走るしかなかった。

 言われなくてもここが黒いのは全員が知っていたけど、少なくとも働いただけの給料はくれる会社だった。


 あとは来週の納期にさえ辿り着けば、少し長めの年末年始休暇が取れるはずだった。

 みんなこんなもんだと、みんなが自分に言い聞かせて働いてるんだと、思うしかなかった。


 けれど今日、なんとなくだけど、自分がいつもより、周りよりまだ余力があるような気がした。

 いいや疲れてはいる。一番酷いのは眼で、あと確実に寝不足だし首も肩も痛い。だから集中力も落ちている。ついでに口内炎が二個ある。ときどき耳鳴りがする。


 でも、周りがそろそろバカみたいに簡単なミスを連発する時期に入っているのに、俺はまだあんまりない。

 ……とはいえ、おかげで人のミスを修正する羽目になってはいるんだけど。結局振られる仕事の量が増えてるから、全力疾走は変わらないんだけども。


 けれど、その余力がどこから来るかなんて、考えるまでもなかった。


 ディアナだ。

 最近は完全にディアナが家事をしてくれていた。

 こちらの生活様式にもそろそろ慣れて、掃除、洗濯、料理、皿洗い、風呂洗い、ゴミの分別までも、ディアナがしてくれている。

 家事は元々得意なほうだったらしく、全部とても丁寧にやってくれる。


 仕事が落ち着いたら俺がやるとは言っているけど、このごろは完全にあの子に頼りきりだった。


 帰ったら温かい風呂と夕飯が用意されていて、それが終わったらあとは寝るだけなんだ。

 逆にそれで今まで通りなわけがなかった。

 あの子のおかげで、生きることが格段に楽になっていた。


 そもそも、あの子が家に来てから、俺は確実に生活の質が上がっていた。

 あの子にちゃんと食べさせるために毎朝毎晩食べるようになったし、自炊だってするようになった。

 湯船に浸かるようになったからか寝付きも良くて、日課になっているマッサージのおかげで肩凝りもだいぶ楽だった。


 なにより常に他人の視線があるから、バカみたいにぼーっとする無駄な時間が減って健全に過ごせるようになった。

 あと、無意識に死にたいって呟くことがほとんどなくなった。


 間違いなく俺は、ディアナから良い影響を受けていた。

 仕事がどれだけ過酷だろうと、帰ったらディアナが待ってくれていると思うと気持ちが軽くなった。



 気持ちが軽くなるようになっていた。



 ――強烈な焦りが、違和感が、あった。



 仕事をする手が、キーボードの上で固まる。

 余計なことを考えている場合かと、意識を画面の中へ戻そうとする。

 けど引っかかって、頭は勝手に考えてしまった。

 だって。



 …………あれ?



 それ、いいのか?

 ダメなんじゃないのか?


 俺、そうならないように、してたんじゃなかったっけ。


 俺は、あの子と不用意に近づかないように。

 だってあの子が綺麗だから。

 無責任にあの子を変えられないから。

 絶対に、あの子に良くない期待をして、利用してしまうことがないように。


 けれど、あの子のために、少しだけ歩み寄ることにして。


 それがどうして、こんな状況に、こんな感情を。


 ――これが俺の本心だったから?


 気づいていく。

 背中をゆっくりと流れ落ちた悪寒。


 ……それが、この頃芽生え始めていた自分への期待を、全て掻き消していった。


 ああクソ。

 あれだけ考えて、自分を嫌って疑って疑って疑って、疑ってたくせに。


 なんだよ。そうだっただけか。

 結局、そうだったんだ。

 疑っているつもりだっただけだ。本当は答えなんて最初から決まりきっていた。

 俺は、他に答えがあって欲しいだけだったんだ。


 ――あの子を拾ったのは、綺麗だったからだ。


 知っていた。最初から。そうに決まっていた。

 だから疑っていたのに、結局ぐだぐだと言い訳をして、隙間を開けたら歯止めが効かなくなって、


 ……こうなったんだ。


 ああ。

 ……あぁクソ、わかってたはずなのにな。


 結局、これが俺の現実だったんだ。

 気が緩んで、仕事の忙しさにかまけて、俺は完全にディアナとの距離感を測り間違えた。


 ――だったら今の俺は、本当に心の底からあの子の回復を望んであげてられているのだろうか。


 あの子が家にいてくれることを、一つの支えにしてしまっている俺は…………それはもう、ダメなんじゃないのか。


 でも、そうだ。まだ取り返しはつくんだ。

 きっと既に、それなりの痛みを感じることにはなってしまうだろうけど、まだあの子は、つい最近家事をしてくれるようになっただけの居候で、赤の他人だ。


 出会ってからも、まだ二ヶ月も経っていない。

 まだ「そういうこともあった」くらいにできる。

 だから…………けれど、どうしたらいいんだろう。


 どうしたら、いいかなんて決まりきっていた。

 もう確信していた。あの子を利用しようとした俺は、もうこれ以上あの子に――けれど。


 けど。

 けれど。


 俺は、どうしたらいいんだろう?


 それから俺は同じようなことをずっとぐるぐる考え続ける。

 結局いつも同じところにたどり着いて、同じように最初に戻っていた。

 何度考えたって正解は決まりきっていた。

 俺の精神衛生のため、これ以上の余計な感情が生まれる前に。

 ……そしてこんなこと言えた義理ではないけど、あの子の真っ当な回復のために。


 でも、止まってくれない。

 本当に? それしかないのか? それが正しいのか?

 他に何か。このままでは、本当にダメなのか。

 ダメなんだろう? このままじゃ、俺はいつか絶対に辛くなって、ディアナは上手く回復できないかもしれないんだよ。俺の弱さのせいで。

 ……どうせ俺は抑えられないんだから。


 でも――




 ――ずっと、終業までぐるぐる考えていた。


 なんとか手は動かしていたつもりだったが、上司には軽く注意されて少し早めに帰らされた。

「女だろ」と言われてすぐに違うと言い出せない間に「こんな時期なのになぁ」と言われてしまった。

 とはいえ、俺のぶんを誰かが肩代わりしてくれるような余裕があるわけもなく、会社を出たのはなんとか二十二時前だった。

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