6-3.「扉を開けましょう」③
でもどこへ。どこにいたってどうせ魔神には見つかる。
魔神は勇者に言った。絶対に殺してやると。
それはきっと勇者を殺さないと安心できないからだ。
だから人のいる場所には隠れられない。
山奥も上空も砂漠も雪原も、勇者と魔神はすぐに辿り着ける。
考えられたのは二つだった。
一つは海の底。
海のずっとずっと下はどんな山の頂上よりも遠くて、全てが海の重さで潰されてしまう場所だとニカが教えてくれた。
けれどディアナは体を頑丈にすることも、水の中で呼吸することもできたから、一番深いところで静かに眠って、餓死と蘇生を繰り返せばいいかと考えた。
もう一つは、そもそも実在するのかも不確かな場所だった。
いつか、まだ剣を手にしたばかりでたくさん魔法の知識をエルヴィーラから教わっていた頃、一度聞いただけだった。
全てを溶かす熱の魔法と、全てを分解する魔法と、全てを貫く魔法と、全てを止める魔法と、全ての鍵を開ける魔法。
その全てを重ねて発動させると、世界に穴が空いて、こことは別の世界へ繋がるという、おとぎ話のような魔法の話。
「あのときエルは笑って言っていた。
『馬鹿げた理論だけど、誰も試してないから否定できないのよ』と。
『完全解錠』以外は、これまでに使えた人が数人しかいない、難しい魔法だったらしい。
でも私ならいつかできるかもしれないから、もし全部集められたらやってみようと、約束したんだ。
その理論を見つけたのが、エルの師匠だったから、失敗したら、みんなで墓までお礼参りに行こうって、成功したら、その別世界も、『みんなで冒険しましょう』って……、
言ってくれたんだ」
そしてエルヴィーラはその場で『完全解錠』と『完全貫通』の魔法を見せてくれた。
『完全停止』はニカが、『完全分解』の魔導書はみんなで探索した遺跡の秘宝で、……そして『完全溶解』は、魔神の得意な魔法だった。
エルヴィーラに人がいない場所でやるよう言われていたから、海の上空で試した。
魔法はあっけなく一度目で成功した。
なんの破壊ももたらさず、とても穏やかに、扉くらいの大きさの真っ黒な球体が現れる魔法だった。
もちろん、その穴に飛び込んで本当に別世界へ行けるのか、そこがどんな場所なのか、あとから戻ってくることができるのか、何もかもわからなかったが、飛び込まないという選択肢は、もうディアナにはなかった。
穴に落ちてからのことは、石か何かが焼け焦げたような、ほんの少し甘い匂いがしたことしか覚えていない。
そして気が付くと、目の前には見たことのない服装の男がいて、周りには不気味なくらいに整った建物や街並みが広がっていた。
本当に別世界に来てしまったと理解して、本当に自分が、誰の手も届かない場所へ、世界を見捨てて逃げ出してしまったことに気が付いて、ディアナは自分に絶望した。
けれど自分に泣く権利はない。
逃げたのは自分で、そのせいで世界は滅ぶのかもしれないのだから。
でも。だとしても。
じゃあ、今の自分に何ができるのか。
絶対に成し遂げなければいけなかったことからも逃げ出してしまった自分は、これから、どうすればいいのか。
そんなふうに、動けなくなってしまったディアナに声をかけたのが、その見たことのない服装の男――つまり俺だった。
「このとき私は、もう何もなくなってしまった私を、貴方に預けてしまおうと思ったんだ」
*
「話したのは、第一に、私が何をしてしまったのか、どういう人間なのかを、きちんとイチノスケに知ってほしいと思ったからだ。……それと、もう一度、自分の行いに向き合いたいと思った」
そう最後に言って、ディアナはマグカップの残りを飲み干してコトりと置いたきり、じっと動かなくなってしまった。
話を聞いている間、ずっと睨み続けていた机の濡れたようなシミから目線を外すと、ディアナは少し揺れて俺の方を見た。
いつの間にか外は黄色くなっていて、時計を見ると午後三時半を過ぎたところだった。
……どう反応していいのかわからない。それが正直な感想だった。
とんでもない話で、物語にはできないくらい不必要に残酷で、聞いているだけで苦しかった。
彼女がとても大きなものを抱えているのは知っていたけど、想像していたより遥かに凄まじいものだった。
彼女が苦しそうに懐かしそうに語るから、全部がリアルで、この子は本当にそれを経験した勇者なんだなって、何度も思った。
けれど、そこからどうしていいのかがわからなかった。
この話は物語じゃなくて実話で、目の前のディアナは本当にたくさんのものを喪っていて、そう思うと一緒に苦しくはなれたけど、どうしても別世界の話だった。
どれだけ想像しても、何度認識を改めようとしても、俺は彼女の話を、百パーセント現実として考えてやることができなかった。
でも仕方なくないか? だってどうしてもファンタジーに聞こえてしまう。魔法も剣も魔神も死も何もかも、俺にとっては全部物語のものだったんだ。
少なくとも俺にはそんな想像力も共感力もなかった。
寄り添ってやれる強さも、きっとなかった。
……だって俺は今、逆にどうしてこの子は狂ってないんだろうとか、そんなに絶望的な運命でも勇者だからいずれ乗り越えていくのだろうなとか、他人事みたいに思ってしまった。
……まるで、お話の主人公に共感するように。
目の前で、赤い髪を垂らして綺麗な顔を少し伏せながら、物語から出てきたような少女は何かを待っている。
――そんな俺が、この子に何を言ってあげられるのだろうか。
だから、結局は同じだ。
「別に、今すぐ出て行きたいとかじゃ、ないんだよね?」
「え、あ、そ、その、イチノスケがいいなら、そうさせてもらいたいと、思っているが」
「じゃあ気が済むまで、存分にここで考えたらいいよ」
俺はどれだけ黙り込んでいたんだろう。
声を出した瞬間にディアナは顔を上げて、まっすぐに俺を見た。
相変わらず綺麗な瞳だと思ってしまった。
その瞳が初めは大きく見開かれて、だんだんと涙が滲んできて、悲しそうな、少しだけ嬉しそうな顔になった。
「本当に、いいのか……?」
「いいよ。大丈夫」
どうしてそんな顔をするのか。俺が、出て行けとでも言うと思っていたのか。
それともやっぱり俺が事の大きさに気付いていないだけなんだろうか。
本当なら、役目から逃げ出したディアナを激励か叱責か、軽蔑でもして、送り返すべきなんだろうか。
でもどう考えても、俺にそんなことできるわけがなかった。
今後も、対応を変えようとは思えなかった。
見守る。生活を与える。
ディアナにどんな過去があったとしても。
……そういうと聞こえはいいが、やっぱりこれは何もできないだけなんだろう。
もう優しさや利用がどうこうじゃない。単にあまりにもスケールの違う感情や物事の動きに、ついていけなかっただけだ。
彼女がようやく打ち明けてくれた過去を、俺は受け止めることしかできない。
でもそれでよかったんだろう。
現にこの子は、最初にここへ来たときとはまるで別人のように活力を取り戻した。
何もしたくないと言った彼女が、自分から過去と向き合おうとしている。
それだけの、逃げ出してしまうことが当然だと思えてしまうような経験をしたというのに。
……きっと今、少しだけ寂しさのようなものを感じているのは、それが原因だ。
身近に感じ始めていたディアナが離れていくような、知人が有名人になってしまったような平凡な感覚。
しかし文字通りに住む世界が違うんだから今更な話ではあった。
そして、回復した彼女が旅立ってしまう日が、そう遠くないことを予感したせいでもあるんだろう。
今思えば俺がこの子に踏み込めなかったのは、単にその別れが怖かっただけなのかもしれない。
だとしても俺は少しくらいこの子の回復に貢献できたはずだ。
これは、自惚れなんかじゃない。事実だろう。
「ありがとう、イチノスケ」
そう微笑んで言うディアナに、俺は頬杖をついたまま笑い返す。
傍目から見れば下手くそな、間違ったやり方だったのかもしれないが。
まあ、俺は俺なりに、上手くできたようだった。
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