8-1.「There is always lights」①


 どんな夢を見ていたのかは、ほとんど覚えていない。


 けれど目が覚めると息が荒れていて汗だくで、とてつもない胸の苦しさがあった。

 起き上がって、しばらく肩で息をしながら、ぼーっと苦しさが過ぎるのを待っていた。


 俺はこたつで寝てしまっていた。

 息が苦しいのはクッションにうつ伏せで埋もれていたせいで、汗はこたつとアルコールのせい。

 机の上のコップに半分だけ残ったお茶を飲みながら、悪夢は寝苦しさのせいと、昨日あの子が出ていったせいだと気付いた。


 布団はやっぱり畳んであって、横には紙袋があった。

 ディアナは出ていった。

 昨日。話し合って。俺が酷いことを言って。

 最後に「さようなら」と、声を少しだけ震わせて。



 本当にこれでいいのか。



 ……昨日のことを思い出している間、ずっと押し寄せてきていた。


 あのときは一番正しい選択だと思っていた。

 俺と、あの子のために。

 今だって正しいと思う。

 俺とあの子はこのままでは、いつか必ず不幸になっていた。


 けれどいいのか? 本当に? このまま二度と、あの子と会えなくても?

 どこかであの子を、一人きりにさせていても?


 ……この保護者ぶった感情も、結局俺の弱さなんだろう。


 あの子が今、どこかで一人で泣いているかもしれないのを想像してしまうのは、あの子のことを考えてるんじゃなくて、俺が寂しいからだ。

 あの子が同じように寂しさをもっていれば、都合が良いからだ。


 俺は何度も、碧音にどうしてディアナを拾ったのかと聞かれた。

 あのときも同じように答えた。寂しいから。家に帰っても一人じゃないから。


 ……あのときは、もっと軽い気持ちだったんだけどな。

 一人よりは二人の方がいい、くらいの。

 こんなに大きくて深刻なものだとは思ってなかったんだよ。


 そんなものを持っているんだから、やっぱり俺の選択は正しかったんだ。

 わかってただろ。苦しくなることは。


 ……あと少しだけ眠って、アラームが鳴ったら仕事へ行こう。


 また床のクッションに倒れ込んで、天井を見上げながらぼーっと考えてみる。


 少し、偶然のねじれが起きて、俺とあの子は出会ってしまった。

 でもそこに物語のような必然性は何もなくて、だからすぐに、呆気なく元に戻った。

 それだけだ。


 俺もしばらくの間は何度もあの子のことを思い出すだろうけど、だんだん意識的に考えないようになって、一年もしないうちにただの不思議な思い出になる。そんな予感があった。


 もしかするとあの子との出会いの中で見つけたもの……例えば自分が自覚していたより寂しさを感じていたことだとか、動物が好きなことだとか、絵が好きだったことなんかが、何か変化をもたらすことはあるかもしれないけど、俺はまた普通の生活を積み重ねていって、常識の中でちゃんと生きていく。


 碧音だって、しばらくは引きずるだろうけど、現実に戻れないなんてほど入れ込んではいない。

 そのための報酬だった。

 賢いあの子は、だんだんと自分のことで忙しくなってくれるはずだった。


 ディアナは、きっともう大丈夫だ。

 昨日言っていた『何か』に気づいて、とっくに元の世界へ戻っているかもしれない。

 もう少し時間がかかったとしても、あの子は必ず勇者としての役目を果たす。


 ……全部が終わったら、律儀なあの子は報告に来てくれるだろうか。

 もしかすると役目を果たせば力も失って、もうこの世界には戻ってこられないのかもしれない。

 けど万が一、戻ってきたとしても、その頃にはもう、俺たちの間には何もない。


 ……まあ少なくとも、あの子がいたこの二ヶ月足らずの間は、やっぱり幸せな日々だった。

 異世界なんてものが関わったわりには派手ではなかったけど、幸せで、なんとも不思議な日々だった。


 だから最後に、とても無責任にあの子の幸せを願って、俺は目を瞑る。


 そうして短い眠りについて、俺が異世界から逃げてきた勇者を拾ってしまった奇妙な出来事は、大したハッピーもバッドもなく、中途半端だけどここで終わりだ。


 現実なんてそんなもので、たいした意味もないまま終わっていく。

 それでも俺たちは、生きていかなくちゃいけないんだ。

 ゆっくり息を吐いて、体と頭から、俺は力を抜いた。



 ――暗い感情が腹の中で回る。

 体も気分も重いのに、頭が止まらない。



 だって思い出してしまった。現実を。

 このどこまでも意味を持ってくれない、現実を。

 行動したって望んだ結果は返ってこないのに、行動次第でいくらでも変化してしまう、この不確かな現実を。


 だから、異世界から逃げてきた女の子を拾ったって、それ以上の出来事は起こらない。

 俺は一緒に逃げることも、助けることもできない。


 でもこれは覚えがある焦燥感だった。

 まだ学生だった頃、忙しくなかった頃によく感じていたもので、眠って朝起きて会社で忙しくしていれば忘れてしまうものだった。


 だからどうにか、目を瞑っていた。

 真っ暗で、道に迷ったような、原理もわからず浮いているような感覚のなかで。

 ふと思った。


 だったら。

 ――それが現実なんだったら、勇者が、世界を救えないこともあるんだろうか。


 俺とディアナは昨日それを受け入れそうになって、やっぱりそんなはずがないと結論づけた。

 だってディアナは俺とは違う。

 俺と違って心の底から優しい子で、なんだってできる子だ。俺みたいに、結局成し遂げられない存在じゃない。

 なにせあの子は、剣に選ばれたんだから。


 ……目蓋が上がる。

 何かを考えなければいけない気がした。


 何かを見逃している気がして、直前の思考を思い返して、自分が思い込んでいたことに気づいた。


 ――俺は、剣に選ばれた勇者が世界を救うことを、当たり前の結末だと思っていた。


 だってゲームではそうだったから。

 でも思い返してみればゲームだってそうだった。

 無事に世界を救うエンディングへ辿り着く前に、勇者は何度も半端な結末〈ゲームオーバー〉を迎えていた。

 ディアナは死んでも甦れるが、生きているかぎり立ち向かい続けるなんて、現実の人間には難しい。


 いくら心が守られていたって。

 優しい子にとっては、さらに難しいはずだった。

 現にディアナは逃げてきた。

 昨日も、逃げようとした。


 ……俺は思い違いをしていたのか?


 剣に選ばれたディアナは、当たり前に世界を救うものだと、世界を救うことが一番の望みだと…………勝手にあの子を『勇者』にして、押しつけていたのか?


 逃げ出して、もう世界を救う道筋からはとっくに外れてしまったあの子に、俺は勝手な思い込みを押し付けて、追い出してしまったのか。


 俺を不幸にしたくないと言ったあの子は。



 今も。月もない夜の中。一人で。



 ――体が跳ね起きた。

 眠っていたわけでもないのに、気づかない間に息が上がっていた。


 少し想像してしまったんだ。

 今もどこか、寒い世界の隅っこで、膝と剣を抱えて丸くなっているディアナを。


 それだけで苦しかった。

 ただとにかく息苦しくて、どうしたらいいのかがわからなかった。

 ……違う。わかってる。どうしたいのか。


 俺は今すぐに家を飛び出して、あの子を探しに行きたかった。 


 ああ駄目だクソ。

 認めてしまった。認めてしまった。

 これが俺の、今の気持ちだった。

 結局抑えられなかった。

 俺には正しくなりきるなんて無理だった。


 結局俺は、ディアナに家にいてほしいと思っている。

 このままあの子が遠くなっていくことを、受け入れることに恐怖まで感じている。


 せめてもう一度、会って話がしたい。

 叶うなら、連れ戻したい。


 あれで正しかったはずなのに。

 考えて、片付けて、納得したはずなのに。

 あと三時間半後には出社してないといけないのに。

 どんどん、そっちに傾いている。


 ――だから考えろ。


 それはどうしてだ。

 それだけは、考えろ。

 いろんなことから逃げて、考えないようにすることを覚えて、どんどん自分の本心なのかわからなくなってきていた、偽物の大人の俺。

 せめてこれだけは。


 いつかその選択をした理由だけは、きちんと言葉にできるように。



 ――俺はどうして、ディアナを連れ戻したいのか。



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