5-4.「揺るがない幸せが」④
「もういいの?」
「ああ。みんな今からご飯なんだそうだ。この子は、今は気分じゃないらしい」
「そっか。もしかして、喋り足りないナディアに付き合ってくれてるのかな」
「ナー」
「なっ。いや、私はもう十分だ。だから、大丈夫だ」
……さすがに気になった。何が「ナー」で「なっ」なのか。
尋ねるとディアナは目を逸らしながら「えっと」とだけ呟いた。
……どんどん気になってくる。
あの悪意のなさそうな鳴き声には、いったいどんな意味が。
「その……、お前がやれ、と」
ふっと肺から空気が漏れて、なんとか「なるほど」と言うことしかできなかった。
それ以来どちらも猫も声を出さないから、遠くではしゃぐ子供の声しか聞こえなくなる。
……やっぱり、動物は色々と感じ取ることができるらしい。
ディアナにさっき教えてもらった『きちんと伝えようとする』も、きっとそういうことなんだろう。
だんだんと静かになっていく気がしたのは、たぶん牛たちがどんどんと牛舎へ戻っているからだった。
辺りはまだ明るかったけど、空には藍色が混ざり始めていた。
……じっと見てくる猫の目に耐えられず、とりあえず話しかけることにした。
「それで、どう? おしゃべり楽しかった?」
「ああ。とても楽しかった。みんな良い子たちで、私まで穏やかな気分になった。――本当に、自分の役目を、忘れそうになるくらいに」
強く冷たい風がざわりと木々を揺らした。
その風のせいで、今だということが俺にもわかってしまった。
ディアナは薄い笑みを残したまま、足元の猫の顎を撫でている。
……おそらく今日のお出かけは、少なくとも今のところ成功している。
口数も、微笑ばかりだが笑顔も、今までになく多い。
なにより今のディアナは、何かを待っているような気がする。
たとえ勘違いだとしても、俺はそう勘違いする程度には、もう尋ねてしまおうと思えていた。
だからあとは、それを喉から出すだけだった。
俺を優しいと言ってくれたこの子に歩み寄るために。
――そうして俺が優しいことを、証明するために?
「……忘れても、いいんじゃない?」
「え……?」
黒ぶちの猫は行儀良く座ったまま、真っ直ぐに俺たちのことを見上げていた。
琥珀のような瞳の中心で、真っ黒な孔が俺を覗いていた。
「ごめん、冗談。……でも俺だったら、そうしてたかもしれない、かもね」
俺はちょっと笑って、猫から目を逸らす。
……反射的に言ってしまった。
きっと防衛本能みたいなものだった。
自分が今からしようとしていることはとてつもなくエゴ的なんじゃないかと思った次の瞬間には、一番言いやすかった言葉を口にしていた。
「私も、似たようなことを考えていた」
視界に入った、一瞬。
ディアナの髪が赤色だった。
あの街灯の下で出会った夜のように。
風が出始めていて、ちょうどディアナの奥に夕日があったから、広がった髪に日が透けて赤く見えただけだった。
けれど俺は焦るより先に、その光景に見惚れてしまっていた。
なぜだかさっきよりも強く、彼女はこうあるべきなんだと思ってしまった。
「その、馬鹿馬鹿しいんだが、……いっそ私も、牛や猫だったら、もっと気楽だったのにな、と」
それからディアナは「どうせなら、猫がいいな」とまた薄く笑いながら、足元の猫の背をそっと撫でた。
だから俺も「俺は犬派だから」と小さく笑った。
「そうか。だったら、犬が一番いいな」
……隣を向くと、ディアナも何も考えてなさそうな顔で俺を見て少し首を傾げた。
その顔の通りに何も考えてないんだろうなと結論づけたところで、ぱっと猫が走り出して、柵を抜けてどこかへ行ってしまった。
「しまった。怒らせてしまったかもしれない」
「……猫の前で、する話じゃなかったね」
ぼーっと柵の向こうを見るが、もう何もいない。
「やはり私は、猫にも犬にもなれない。私は人間だ」
ディアナも、猫が去った方を見つめていた。
ちらりと盗み見た横顔はとても真剣で、どう返していいか全くわからなかった。
「そう。君は人間だよ。勇者である前にね」
だから俺も何も考えていないふりをして、またとりあえず言いたいことを言った。
遠くにあるソフトクリームと書かれたありきたりの幟を中心に置いた視界の隅で、隣のディアナがずっと俺の顔を見ているのがわかった。
そういえばこの子はよく、こうして人の顔をじっと見つめてくる。
まるで猫や犬のように。
けれど何も言ってこなかったし、俺も振り向くこともできなかった。
――もう少しで。
俺は、もう少しで間違えるところだった。
利用したくないと言いながら、自分の安心を得るためにこの子の傷を開くところだった。
そもそも俺は、一番最初に自分で決めただろう。
必要以上に近づかない。
これは絶対だ。
これを捻じ曲げてしまうと、歪みが生まれて、少しずつ色んなところが崩れていく。
そんな直感めいた予感がした。
おかげで、反射的にも正しい選択ができたらしい。
そして、俺が本当に優しいって言うのなら、たぶんこれが俺なりの優しさなんだろう。
導く強さがないなら、見守って支えてやればいいんだ。
その瞬間。
すとんと、ようやく置き場所が決まったような感覚があった。
……けれど、思えばこれだって、最初から分かっていたはずなんだけど。
見上げると、空には夜の色が混ざり始めていた。
遠くのどこかでカラスの群れが鳴いた。
「もしまたあの猫に会うことがあったら謝ろう」というと、ディアナはふっと柵の方を向いて静かに「ああ」といった。
「んじゃ、最後にソフトクリーム食べて、お土産買って帰ろうか」
街灯の根元のブロックから腰を上げて、軽く伸びをする。
ディアナも猫に合わせてしゃがんでいたところから立ち上がって、「わかった」と肩の竹刀袋をかけ直した。
他の客も同じように考えたらしく、売店は昼より混んでいた。
特に土産コーナーは大盛況で、もうベーコンもソーセージも牛乳も値札しか残っていなかった。なんとか買えたのは小さいチーズとソフトクリームだけだった。
コーヒーも売り切れていたから、店先の自販機でありきたりの缶コーヒーを二つ買って、またあのベンチに座った。
「ん、美味いけど、さすがにちょっと寒いな」
「ああ。だが、美味しい」
「うん。……そういえばさ、ディアナって実家では乳搾りとか、普通にやってたの?」
「ず……ん、ああ。近頃はできていなかったが、小さな頃から、ずっと手伝っていた」
「てことは、もし体験してたら、無双して注目されちゃってたかもね。じゃあ乗馬と、羊の毛刈りは?」
「向こうでは馬でも移動していたから、乗ることはできる。毛刈りも、一応できる。私の実家には一匹しかいなかったが、毎年毛刈りの時期は、ルビオさんのところを手伝っていたから。こう、羊をお尻から座らせて、後ろ足も浮かせると、大人しくなってくれるんだ。けれど、私はルビオさんほど上手くハサミが使えない。あの人は、剥がすみたいにどんどん切っていくんだ」
「あぁ、剥がすみたいって、昔動画で見たことある。でもあれはバリカン、っていう、自動でチョキチョキするハサミみたいなの使ってたけど」
「そんなものまであるのか……! だが、こちらにも『毛刈り』の魔法はあった。もっとも、あんなに高価な再生符は、とても農民に使えるものではなかったが……あ、再生符というのは、力を込めるだけで魔法が使えるというものだ」
「へぇ~やっぱそういうのあるんだね」
「ああ。例えば、これは『大氷柱』の再生符だ」
「持ってるんだ……ってかちょっと待って。すごい物騒な名前だし、今それどっから出した?」
「え、あ、言ってなかったか。剣には、収納の機能もあるんだ。私が持ち上げられるものなら、いくらでも剣の中に収納することができて、今は剣の中とポケットを繋いで、そこから出した」
「ごめん、そういえば聞いてた。でも、びっくりした。なんかその危なそうなのを、普通にポケットに入れてたのかと」
「それはすまない。……向こうでは普通に携帯するものだったんだ。再生符なら、展開に時間のかかる魔法でも瞬時に発動できるから、こういった実用的なものは、常に肌に触れる場所に入れていた」
ソフトクリームを食べ終わったら、そんなことを話しながらバス停までゆっくり歩いた。
さすがにバスの中でまで魔法の話をするわけにはいかなかったけど、帰りは細々と会話が続いた。
バスに酔わなかったのは、そのおかげかもしれない。
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