5-3.「揺るがない幸せが」③


「ほい、ナディアのぶん」

「ありがとう」


 ここの餌はガチャガチャで売られていて、一回たったの百円だった。

 しかもそこそこ大きなカプセルで、せっかくなので俺も一つ買うことにした。中身は草を固めた細長い粒状のものだった。


 柵越しならどの動物にあげてもいいらしかったが、『必ず手のひらの上に乗せてあげてください』『カプセルは動物に近づけないで、必ずゴミ箱へ捨ててください』と、あちこちに大きな注意書きの看板が立てられていた。


 昼も過ぎて少し人は増えていたけど、とにかく大きな放牧場で、しかも牛は人間にめざとく気づいて寄ってくるようだったから、客はそれぞれでゆっくり餌やりを楽しめるようになっていた。


 俺たちが人の多いところから離れても、きちんと二頭が柵に沿ってあとを追ってきた。


「なんか、人に慣れきってるね」

「ああ。きっとここの人たちは、丁寧に世話をしているんだろうな」


 とか言っていると、二頭が揃って催促するように「モー」と鳴いた。


「ああ、こんにちは。すまない、今開けるから、少しだけ待ってくれ」


 おっと、挨拶だったのか。


「こんにちは。こっちも今開けますので」

「……、ああ、すまない。どうぞ、食べてくれ」

「ンモー」

「ああ。どうしてか昔からわかるんだ」

「……、モォォ」

「すごいな、わかるのか。たしかに、私はとても遠いところから来た」

「モー!」

「え。あ、すまない。イチノスケ? どうかしたのか?」


 ……しまった。

 ファンタジーすぎて、ついぼーっと見てしまっていた。


「すみません! えっと、こう、かな? どうぞ」


 餌をいくつか手のひらに乗せてもう一頭の前に差し出すと、大きな唇と舌でモソモソされる。

 くすぐったいと思っているうちになくなって、また「ンモー」と低く鳴く。


「いや、わかるのは私だけだ。彼はこのあたりに住んでいる人で、遠くからきた私に、とても良くしてくれている」

「えっと、どうも菱川です。すみません、俺は全然わかんなくて、って、俺が喋ってるのって、伝わってるのかな?」

「ああ。きちんと目を見て伝えようとすれば、ある程度は。ただ、できるだけ簡単な言葉と文章にした方が伝わりやすい」

「なるほど。じゃあ、えっと――」


 それから、俺が何かを言いながら餌をあげて、食べ終わったら牛がモーと答えて、ディアナがそれを訳してくれるということを何度か繰り返していると、すぐに餌はなくなってしまった。

 関わりの薄い上司とするような当たり障りのない話ばかりになってしまったが、一度ディアナが「いや、違う。私が居候させてもらっているだけだ」と答えたときは、なんとなく翻訳は聞けなかった。


 ディアナの方も餌は無くなっていたが、会話はまだ続いていた。

 牛と話している彼女はいつもより気楽そうに見えた。

 だからというわけでもないけど、俺は席を外して、すぐ近くの街灯にもたれて座っていることにした。

 ディアナは少し不安そうな顔をしたけど、「大丈夫。すぐそこで座ってるから。おしゃべり楽しんで」と言うと「ありがとう」とぎこちなく笑ってくれた。


 今は柵を挟んで二頭の牛と、トコトコと寄ってきた一頭の羊と、いつの間にか柵の上に座っていた一匹の猫と一緒に、静かに会話を弾ませている。

 一応近くに他の客はいないし、今のところ彼女の特別さに気づいている人はいないように見える。

 猫まで寄ってきたときはさすがに少し慌てたけど、遠くから見るくらいではそれほど気にならないものなのか、もしくは単に『気配消し』が強すぎるだけか。


 まあ、どちらにしても、ディアナの静かな時間が邪魔されることはなさそうだった。


 本当に静かな、静かな時間だった。


 ――先週想像したのと違う部分はいくつもあって、やっぱりディアナの笑顔はまだまだ薄かった。

 

 でも今まで見てきた中では一番ディアナに似合う光景だった。

 不自然なのにとても自然で、彼女は本来こうあるべきなんだろうなとか、何の根拠もなく思えてしまった。


 タバコを吸うわけにもいかなかったから、緑の匂いがする空気だけ大きく吸って、ぐっと伸びをする。


 その拍子になぜか、ふいに考えてしまった。


 ……もし、ディアナが剣になんて選ばれてなかったら、と。


 そうしたらこの子はここにいなくて、今もどこかの世界のどこかの牧場で、こうして動物たちに囲まれて穏やかに暮らしていたかもしれないのに。


 どうして剣は彼女を選んでしまったのか。

 そもそも何から世界を守るための剣なのか。

 剣に選ばれた彼女は、何を思って剣を振るって、その剣を抱えたまま逃げ出すことを選んだのか。


 ……ここで身震いしてしまうのは、やっぱり俺が自分を信じていないからだ。

 気付いたって変わらない。

 これは既に俺の奥底に広がってしまっている。


 俺は凡人だったから、俺が本気を出したって大きなことは成功させられない。

 今後もそれは変わらない。


 けど、同時に思う。

 もっと頼りがいのある奴が、碧音が、バアちゃんが、あの子の隣にいたとしたら。


 あの子はその誰かの手を借りて、もう既に立ち上がっていたんだろうか。


 そうだったとしても、俺は――


「っ、すぅー、はぁぁ。……あーあ」


 ……どうしても。


 静かな場所でぼーっとしていると、色々と考える前に思考が滑っていく。


 せっかく晴れているのに、気がつくと不安が湧いて気分が暗くなる。性格だから仕方ないことではあるけど、どうせならもっと明るいことを考えたい。


 そうだ。そういえばまだソフトクリームを食べていなかった。あとで温かいコーヒーと一緒に買って、それから碧音へのお土産も買わないと。

 やっぱり牛乳と。あのベーコンとソーセージも、売っているといいけど。


 食べものばかりだなと思って、他にも、明日の碧音とのゲームのこととか、明後日の仕事のこととか、今日の夕飯のこととか、昔家族で似たような牧場へ行ったこととか、これから本格的に寒くなることとか、色々と考えていた。


 すると視界の中でふらっと、牛が歩き出して、すぐに羊もどこかへ走っていってしまった。

 猫は、こちらに向かってきたディアナの後ろをゆっくりとついてきていた。


「私も、座っていいか?」

「どうぞ」


 ディアナが俺の隣に腰掛けると、猫もその足元でちょこんと座った。

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