5-2.「揺るがない幸せが」②
家を出てから約一時間半。
電車とバスにゆっくり揺られて、最後に二十分ほど上り坂を歩き続けて、ようやく俺たちは『ひさご牧場』に到着した。
そして全部正直に言うと、久々のバスで酔った上に最後の坂がキツ過ぎて、もうほとんどの体力を持ってかれていた。
割と本気で気を抜いたら吐きかねない感じだったので、なんとかディアナには平気なふりをしながら、俺たちはさっそく休憩スペースのベンチでひと休みすることにした。
「イチノスケ、その、大丈夫なのか……?」
はい。平気なふりは全く通用していませんでした。
……まあ、そりゃこんだけ息上げてベンチに着くなり座り込んでたら、普通にバレますよね。
でも、マジで余裕がない感じだったんです。
「ごめん。ちょっと、座ってたら、マシに、なると、思うから」
「ああ、大丈夫だ! 大丈夫だから、どうかゆっくり休んでくれ」
「あり、がとう。ごめん、ホントに」
ふるふると不安そうな顔で首を振るディアナに「あはは」と笑いながら、自分への情けなさでそのまま本当に少し笑ってしまう。
いったい、いつの間にここまで弱っていたのか。
別にもともと運動ができる方ではなかったけど、これでも高校までは陸上部だったはずなんだけど……と思い出してみて気付いてしまったが、高校生がもう十年前のことだった。
日課のランニングもいつの間にかやめてしまったし、当然といえばそうなのかもしれなかった。
ひゅるりと、ほどよく冷たい風が首元を通り抜けていく。
登ってきただけあって、ここは少し高い場所にある。
周りに牧場関係以外の建物はなく、見えるのは針葉樹の高い林と遠くの山と高い空と、一面に広がる牧草地だけ。
大きく柵で囲われた放牧場の中で、多くの牛と何頭かの羊や豚や馬が、のんびりと草を食べたり寝転んだり歩き回ったりしている。
よく晴れた土曜日だからもう少し混むかと思っていたけど、家族連れが十組程度と、あとはちらほらと夫婦や友達連れがいるくらいで、まだまだ牛の方が多いくらいだった。
また吹いた風からは、動物の匂いが混ざった濃い草の匂いと、すぐそばの売店で何かを焼いているらしい煙の匂いがした。
「よぉしっ。なんか、食べよっか」
「あ、ああ。もう、いいのか?」
「うん、大丈夫」
そういえばこれも懐かしい感覚だった。
走った後、もう全部出てしまいそうなくらいに息が荒れていても、どうにか吸って吐いてを繰り返していたら最後には楽になる。
苦しさがなくなった反動で、むしろ気分が軽くなる。
それで次にはお腹が空いてくる。
さすがに昔みたいに全快はしなかったけど、もう知らないふりができる程度には落ち着いていた。
まだ少し不安そうなディアナも、もう一度「大丈夫だから」と笑うと「わかった」とおとなしくついてきた。
売店はコンビニ程度の広さで、その中に土産コーナーと小さなフードコートがあるようなものだった。
席はそれなりに埋まっていたし、メニューにほとんど種類もなかったので、俺たちは分厚いベーコンのバーガーとぐるぐるのソーセージと瓶の牛乳を二つずつ買って、さっきのベンチに戻った。
もしかしなくても、ここはそれほど力を入れて商売をしている場所じゃないんだろう。
駅で看板を見て知っていたという理由だけで来てしまって、そういえばあの看板もホームにあったチラシもめちゃくちゃ日に焼けてたなと思い出して、ここでディアナは本当に楽しめるのだろうかとか不安になってたのが一気に全部吹っ飛ぶくらい、バーガーとソーセージと牛乳は美味かった。
ディアナも夢中でもくもく食べていた。
それが本当に美味しそうに食べるから、俺の方もどんどん食べてしまって、少し買い過ぎたと思っていたのに気づけば二人とも食べ終わっていた。
「ふぅ……。すごい、マジで美味かった」
「ああ。本当に美味しかった……」
と、二人で飲み終わった牛乳瓶を片手にちょっとぼーっとしてしまうくらい、マジで良かった。
なんなんだろう。これがとにかく素材が良いものを丁寧に焼いた美味しさなのか。
バーガーもソーセージもほとんど味付けはなかったのにめちゃくちゃ味がした。
もちろん牛乳も。すげえ美味かった。
ホントごめん、碧音。
「今度は、絶対碧音連れてこよう」
「ああ。これはぜひ食べるべきだ」
「その前に明日めちゃくちゃ自慢してやろう」
「え。そ、それは、どうだろう……?」
真面目に慌てて目をぱちぱちさせるディアナに思わず笑ってしまいながら「冗談だよ」というと、「そ、そうか」とまた分かりやすく顔を緩ませる。
……さあ。たしかにこれだけでも、十分ここまで登ってきた価値はあったけど。
「よし。じゃあ、色々体験しに行こうか。どうする? ディ、ナディアは、なにやりたい?」
「え、えっと、そうだな……」
もちろん美味しいものを食べることも目的の一つではあったけど、それだけじゃない。
メインは、ディアナに動物と触れ合ってほっこりしてもらうことだった。
……が、じっと俯いてパンフレットを眺めるディアナを見ていると、急に不安になってきた。
果たして、そんなに簡単なことなのか。
だって、いくら牧場が慣れ親しんだ場所といったって、別にここはディアナが生まれ育った牧場ではない。
勝手に動物セラピー的なものを期待していたけど、動物の言葉がわかるディアナは、果たして見ず知らずの動物に癒されてくれるのだろうか。
……そもそもそれが本職だった人に、体験も癒しもないんじゃないのか。
というか、それこそ実家を思い出して、寂しくなったりしないのだろうか。
俺、もしかして、ディアナにとても酷いことをしていたりしないか?
ただ何かしてやってるという自己満足のために?
「――すまない、イチノスケ。やっぱり私は、見ているだけでいい」
「そっ、か。……ナディア、もし帰りたくなったら、いつでも言ってくれていいからね」
「え」
これだと俺が早く帰りたいみたいじゃないかと考えるのと、ディアナがとても驚いた顔で俺の方を見たのはほとんど同時だった。
指先から血が抜けていくような感覚になる。
「違う。その、なんかディアナが、あっナディアが、寂しくなってたりしないかなと、思って。その、実家を思い出したりとかして。……ここも、牧場ではあるけど、違う場所、だから」
全部言い終わると、ディアナは驚いた顔のまま何度か瞬きをしてから、また俯く。
けれどすぐにこちらに向き直った顔には、薄く笑みが浮かべられていた。
「ありがとう。イチノスケは、本当に優しいな」
ふぅっと、指先から痺れのようなものが消える。
けれど、そんなことを言ってもらっていいとは思えなくて、そんなことないと言いかけたところで。
「たしかに、少し寂しい。どうしても思い出してしまうのは、その通りだ。だがそもそも……いや、私は、こういった場所にいられるだけで、気分が落ち着く。――だから大丈夫だ。ありがとう、イチノスケ」
大丈夫。ありがとう。
「そっ、か。……よかった」
――そうか。この子がそう言うなら、俺は別に間違ってなかったのかもしれない。
「でも俺は、ちょっと心配性なだけだよ。もし迷惑かけてたらって、不安になっただけで。結局は自分のためだから」
「……それも、一つの優しさじゃないのか? 現に私は、とても助けられているし、この間はアオネだって……そうだ。イチノスケは、絶対に優しいと思う」
しかしそこまで真っ直ぐ言われると、ほっとするのを通り越してかなりむず痒い。
コートのポケットに入れていた手にも汗がにじんでくるので、
「それは、どうも。ていうか俺のことより、ナディアは、ホントにいいの? このふれあい体験、何もしなくて。動物やっぱり好きなんでしょ?」
なんとか話を逸らす、というより戻す。
だって実際、牧場や動物が彼女にとって落ち着くものであるんだったら、そこにもっと近づきたいと思ってもいいんじゃないのか。
「いや、いいんだ」
「……そうなんだ」
なんとなく視線を落とすと、隣でディアナが膝の上に開いているパンフレットが見える。
紹介されているのは、乗馬、乳搾り、羊の毛刈り、牛の世話、餌やりなど。
やっぱり酪農家の娘にとっては、どれもわざわざ体験したいものでもないのか。
もしくはプロとして、この牧場の管理に何か不安点でも見つけてしまったのか。
けれどきちんと柵は張られているし、それぞれの体験コーナーに注意点を書いた看板も専門の係員も立っている。一日の人数制限もされているし、夜遅くまで開いているわけでも――
と、慌てて売店の入口前にある『実施状況』の看板を見たけど、羊の毛刈りと牛の世話以外は『受付中』となっていた。
「羊の毛刈り」はオフシーズンで、牛舎の掃除なんかの本格的な業務が経験できる「牛の世話」は、毎日抽選に当たった三人だけが体験できるらしくて…………あれ、待てよ。
「もしかして、人数制限あるから、遠慮してる?」
少し離れたところで、小学生くらいの男の子が馬の上で緊張しながらも親へ向けてピースをしているのをじっと眺めていたディアナが、ぴくりと頭を揺らした。
「仕事で慣れてる自分より、ああいう子たちのほうが体験するべきだとか?」
今度は完全に図星だったらしい。
振り返ったディアナはまた少し頬を緩ませていた。
「イチノスケは、なんでもわかってしまうんだな」
「ナディアが、ちょっとわかりやすいだけだよ。……俺なんか、わかんないことだらけですよ」
今回だって当てずっぽうではあるわけだし。
でも、みんながディアナくらい素直だったら、世の中もっとわかりやすくなるんだろうな。
「てか、ナディアも他人のこと言えない……ってのは正しいのかな。とにかく、俺は俺よりナディアのが優しいと思うけどね」
「……そんな、ことは。だって、子どもを優先することは、きっとどこでも変わらないだろう?」
「それはそうだけど、なかなかそこまでは考えないよ」
「それを、言うなら、さっきのイチノスケだって、そうじゃないのか?」
こんなに食い下がってくるディアナが珍しくて驚いて、この子が何をそんなに主張してるんだっけと思い出して、また思わず頬が緩んだ。
手で押さえるつもりだったけど間に合わなくて、ディアナは不思議そうな顔で俺を見る。
「ごめん。じゃあ、同じくらいってことにしとこう」
なんだその結論はと内心ツッコんでしまったけど、ディアナが「そうだな」と少し嬉しそうに言ってくれたのでよしとする。
すぐ近くで大きな牛が一度低く「モー」と鳴いた。
俺たちはいったい何をしているのか。
「でも、せっかくだし、餌やりくらいしとかない? これは制限とかないみたいだし」
「……うん、そうだな。では、そうする」
危うくこの微妙な空気のまま固まってしまうところだった。
別にあのまま座ってぼーっとやり過ごしてもよかったんだけど、やっぱりまあ、せっかくここまで登って来たんだし。
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