5-2. 「揺るがない幸せが」(後)


 家を出てから約一時間半。

 電車とバスにゆっくり揺られて、最後に二十分ほど上り坂を歩き続けて、ようやく俺たちは『ひさご牧場』に到着した。


 そして全部正直に言うと、久々のバスで酔った上に最後の坂がキツ過ぎて、もうほとんどの体力を持ってかれていた。

 割と本気で気を抜いたら吐きかねない感じだったので、なんとかディアナには平気なふりをしながら、俺たちはさっそく休憩スペースのベンチでひと休みすることにした。


「イチノスケ、その、大丈夫なのか……?」


 はい。平気なふりは全く通用していませんでした。

 ……まあ、そりゃこんだけ息上げてベンチに着くなり座り込んでたら普通にバレますよね。でもこれが今の俺の限界なんですよ。――本気で。冗談抜きで。


「ごめん。ちょっと、座ってたら、マシに、なると、思うから」

「ああ、大丈夫だ! 大丈夫だから、どうかゆっくり休んでくれ」

「あり、がとう。ごめん、ホントに」


 ふるふると不安そうな顔で首を振るディアナに「あはは」と笑いながら、自分への情けなさでそのまま本当に少し笑ってしまう。


 一体いつの間にここまで弱っていたのか。別にもともと運動ができる方ではなかったけど、これでも高校までは陸上部だったはずなんだけど……と思い出してみて気付いてしまったが、高校生がもう十年前のことだった。日課のランニングもいつの間にかやめてしまったし、当然といえばそうなのかもしれなかった。


 ひゅるりと、ほどよく冷たい風が首元を通り抜けていく。

 登ってきただけあって、ここは少し高い場所にある。周りに牧場関係以外の建物はなく、見えるのは針葉樹の高い林と遠くの山と高い空と、一面に広がる牧草地だけ。

 大きく柵で囲われた放牧場の中で、多くの牛と何頭かの羊や豚や馬が、のんびりと草を食べたり寝転んだり歩き回ったりしている。

 よく晴れた土曜日だからもう少し混むかと思っていたけど、家族連れが十組程度と、あとはちらほらと夫婦や友達連れがいるくらいで、まだまだ牛の方が多いくらいだった。


 また吹いた風からは、動物の匂いが混ざった濃い草の匂いと、すぐそばの売店で何かを焼いているらしい煙の匂いがした。


「よしっ。なんか、食べよっか」

「あ、ああ。もう、いいのか?」

「うん、大丈夫」


 そういえばこれも懐かしい感覚だった。

 走った後、もう全部出てしまいそうなくらいに息が荒れていても、どうにか吸って吐いてを繰り返していたら最後には楽になる。苦しさがなくなった反動で、むしろ気分が軽くなる。

 それで次にはお腹が空いてくる。

 さすがに昔みたいに全快はしなかったけど、もう無視できる程度には落ち着いていた。

 まだ少し不安そうなディアナも、もう一度「大丈夫だから」と笑うと「わかった」とおとなしくついてきた。


 売店はコンビニ程度の広さで、その中に土産コーナーと小さなフードコートがあるようなものだった。席はそれなりに埋まっていたし、メニューにほとんど種類もなかったので、俺たちは分厚いベーコンのバーガーとぐるぐるのソーセージと瓶の牛乳を二つずつ買って、さっきのベンチに戻った。


 もしかしなくても、ここはそれほど力を入れて商売をしている場所じゃないんだろう。

 駅で看板を見て知っていたという理由だけで来てしまって、そういえばあの看板もホームにあったチラシもめちゃくちゃ日に焼けてたなと思い出して、ここでディアナは本当に楽しめるのだろうかとか不安になってたのが一気に全部吹っ飛ぶくらい、バーガーとソーセージと牛乳は美味かった。

 ディアナも夢中でもくもく食べていた。それが本当に美味しそうに食べるから、俺の方もどんどん食べてしまって、少し買い過ぎたと思っていたのに気づけば二人とも食べ終わっていた。


「ふぅ……。すごい、マジで美味かった」

「ああ。本当に美味しかった……」


 と、二人で飲み終わった牛乳瓶を片手にちょっとぼーっとしてしまうくらい、マジで良かった。

 なんなんだろう。これがとにかく素材が良いものを丁寧に焼いた美味しさなのか。バーガーもソーセージもほとんど味付けはなかったのにめちゃくちゃ味がした。もちろん牛乳も。すげえ美味かった。ホントごめん、碧音。


「今度は、絶対碧音連れてこよう」

「ああ。これはぜひ食べるべきだ」

「その前に明日めちゃくちゃ自慢してやろう」

「え。そ、それは、どうだろう……?」


 真面目に慌てて目をぱちぱちさせるディアナに思わず笑ってしまいながら「冗談だよ」というと、「そ、そうか」とまた分かりやすく顔を緩ませる。


 ……さあ。たしかにこれだけでも、十分ここまで登ってきた価値はあったけど。


「よし。じゃあ、色々体験しに行こうか。どうする? ディ、ナディアは、なにやりたい?」

「え、えっと、そうだな……」


 もちろん美味しいものを食べることも目的の一つではあったけど、それだけじゃない。

 メインは、ディアナに動物と触れ合ってほっこりしてもらうことだった。


 ……が、じっと俯いてパンフレットを眺めるディアナを見ていると、急に不安になってきた。

 果たして、そんなに簡単なことなのか。

 だって、いくら牧場が慣れ親しんだ場所といったって、別にここはディアナが生まれ育った牧場ではない。勝手に動物セラピー的なものを期待していたけど、動物の言葉がわかるディアナは、果たして見ず知らずの動物に癒されてくれるのだろうか。そもそもそれが本職だった人に、体験も癒しもないんじゃないのか。

 というか、それこそ実家を思い出して、寂しくなったりしないのだろうか。


 俺、もしかして、ディアナにとても酷いことをしていたりしないか?

 ただ、自分の満足のために?


「――すまない、イチノスケ。やっぱり私は、見ているだけでいい」

「そっ、か。……ナディア、もし帰りたくなったら、いつでも言ってくれていいからね」

「え」


 これだと俺が早く帰りたいみたいじゃないかと考えるのと、ディアナがとても驚いた顔で俺の方を見たのはほとんど同時だった。

 指先から血が抜けていくような感覚になる。


「違う。その、なんかディアナが、あっナディアが、寂しくなってたりしないかなと、思って。その、実家を思い出したりとかして。……ここも、牧場ではあるけど、違う場所、だから」


 全部言い終わると、ディアナは驚いた顔のまま何度か瞬きをしてから、また俯く。

 けれどすぐにこちらに向き直った顔には、薄く笑みが浮かべられていた。


「ありがとう。イチノスケは、本当に優しいな」


 ふっと指先に体温が戻る。

 けれど、そんなことを言ってもらっていいとは思えなくて、そんなことないと言いかけたところで。


「たしかに、少し寂しい。どうしても思い出してしまうのは、その通りだ。だがそもそも……いや、私は、こういった場所にいられるだけで、気分が落ち着く。――だから大丈夫だ。ありがとう、イチノスケ」


 大丈夫。ありがとう。


「そっ、か。……よかった」


 ――そうか。この子がそう言うなら、俺は別に間違ってなかったのかもしれない。


「でも俺は、ちょっと心配性なだけだよ。もし迷惑かけてたらって、不安になっただけで。結局は自分のためだから」

「……それも、一つの優しさじゃないのか? 現に私は、とても助けられているし、この間はアオネだって……そうだ。イチノスケは、絶対に優しいと思う」


 しかしそこまで真っ直ぐ言われると、ほっとするのを通り越してかなりむず痒い。コートのポケットに入れていた手にも汗がにじんでくるので、


「それは、どうも。ていうか俺のことより、ナディアは、ホントにいいの? このふれあい体験、何もしなくて。動物やっぱり好きなんでしょ?」


 なんとか話を逸らす、というより、戻す。

 だって実際、牧場や動物が彼女にとって落ち着くものであるんだったら、そこにもっと近づきたいと思ってもいいんじゃないのか。


「いや、いいんだ」

「……そうなんだ」


 なんとなく視線を落とすと、隣でディアナが膝の上に開いているパンフレットが見える。

 紹介されているのは、乗馬、乳搾り、羊の毛刈り、牛の世話、餌やりなど。


 やっぱり酪農家の娘にとっては、どれもわざわざ体験したいものでもないのか。

 もしくはプロとして、この牧場の管理に何か不安点でも見つけてしまったのか。

 けれどきちんと柵は張られているし、それぞれの体験コーナーに注意点を書いた看板も専門の係員も立っている。一日の人数制限もされているし、夜遅くまで開いているわけでも――と、慌てて売店の入口前にある『実施状況』の看板を見たけど、羊の毛刈りと牛の世話以外は『受付中』となっていた。「羊の毛刈り」はオフシーズンで、牛舎の掃除なんかの本格的な業務が経験できる「牛の世話」は、毎日抽選に当たった三人だけが体験できるらしくて…………あれ、待てよ。


「もしかして、人数制限あるから、遠慮してる?」


 少し離れたところで、小学生くらいの男の子が馬の上で緊張しながらも親へ向けてピースをしているのをじっと眺めていたディアナが、ぴくりと頭を揺らした。


「仕事で慣れてる自分より、ああいう子たちのほうが体験するべきだとか?」


 今度は完全に図星だったらしい。

 振り返ったディアナはまた少し頬を緩ませていた。「イチノスケは、なんでもわかってしまうんだな」


「ナディアが、ちょっとわかりやすいだけだよ。……俺なんか、わかんないことだらけですよ」


 今回だって当てずっぽうではあるわけだし。でも、みんながディアナくらい素直だったら、世の中もっとわかりやすくなるんだろうな。


「てか、ナディアも他人のこと言えない……ってのは正しいのかな。とにかく、俺は俺よりナディアのが優しいと思うけどね」

「……そんな、ことは。だって、子どもを優先することは、きっとどこでも変わらないだろう?」

「それはそうだけど、なかなかそこまでは考えないよ」

「それを、言うなら、さっきのイチノスケだって、そうじゃないのか?」


 こんなに食い下がってくるディアナが珍しくて驚いて、この子が何をそんなに主張してるんだっけと思い出して、また思わず頬が緩んだ。手で押さえるつもりだったけど間に合わなくて、ディアナは不思議そうな顔で俺を見る。


「ごめん。じゃあ、同じくらいってことにしとこう」


 なんだその結論はと内心ツッコんでしまったけど、ディアナが「そうだな」と少し嬉しそうに言ってくれたのでよしとする。すぐ近くで大きな牛が一度低く「モー」と鳴いた。

 俺たちはいったい何をしているのか。


「でも、せっかくだし、餌やりくらいしとかない? これは制限とかないみたいだし」

「……うん、そうだな。では、そうする」


 危うくこの微妙な空気のまま固まってしまうところだった。別にあのまま座ってぼーっとやり過ごしてもよかったんだけど、やっぱりまあ、せっかくここまで登って来たんだし。



「ほい、ナディアのぶん」

「ありがとう」


 ここの餌はガチャガチャで売られていて、一回たったの百円だった。しかもそこそこ大きなカプセルで、せっかくなので俺も一つ買うことにした。中身は草を固めた細長い粒状のものだった。

 柵越しならどの動物にあげてもいいらしかったが、『必ず手のひらの上に乗せてあげてください』『カプセルは動物に近づけないで、必ずゴミ箱へ捨ててください』と、あちこちに大きな注意書きの看板が立てられていた。


 昼も過ぎて少し人は増えていたけど、とにかく大きな放牧場で、しかも牛は人間にめざとく気づいて寄ってくるようだったから、客はそれぞれでゆっくり餌やりを楽しめるようになっていた。


 俺たちが人の多いところから離れても、きちんと二頭が柵に沿ってあとを追ってきた。


「なんか、人に慣れきってるね」

「ああ。きっとここの人たちは、丁寧に世話をしているんだろうな」


 とか言っていると、二頭が揃って催促するように「モー」と鳴いた。


「ああ、こんにちは。すまない、今開けるから、少しだけ待ってくれ」


 おっと、挨拶だったのか。


「こんにちは。こっちも今開けますので」

「……、ああ、すまない。どうぞ、食べてくれ」

「ンモー」

「ああ。どうしてか昔からわかるんだ」

「……、モォォ」

「すごいな、わかるのか。たしかに、私はとても遠いところから来た」

「モー!」

「え。あ、すまない。イチノスケ? どうかしたのか?」


 ……しまった。ファンタジーすぎて、ついぼーっと見てしまっていた。


「すみません! えっと、こう、かな? どうぞ」


 餌をいくつか手のひらに乗せてもう一頭の前に差し出すと、大きな唇と舌でモソモソされる。くすぐったいと思っているうちになくなって、また「ンモー」と低く鳴く。


「いや、わかるのは私だけだ。彼はこのあたりに住んでいる人で、遠くからきた私に、とても良くしてくれている」

「えっと、どうも菱川です。すみません、俺は全然わかんなくて、って、俺が喋ってるのって、伝わってるのかな?」

「ああ。きちんと目を見て伝えようとすれば、ある程度は。ただ、できるだけ簡単な言葉と文章にした方が伝わりやすい」

「なるほど。じゃあ、えっと――」


 それから、俺が何かを言いながら餌をあげて、食べ終わったら牛がモーと答えて、ディアナがそれを訳してくれるということを何度か繰り返していると、すぐに餌はなくなってしまった。

 関わりの薄い上司とするような当たり障りのない話ばかりになってしまったが、一度ディアナが「いや、違う。私が居候させてもらっているだけだ」と答えたときは、なんとなく翻訳は聞けなかった。


 ディアナの方も餌は無くなっていたが、会話はまだ続いていた。牛と話している彼女はいつもより気楽そうに見えた。

 だからというわけでもないけど、俺は席を外して、すぐ近くの街灯にもたれて座っていることにした。ディアナは少し不安そうな顔をしたけど、「大丈夫。すぐそこで座ってるから。おしゃべり楽しんで」と言うと「ありがとう」とぎこちなく笑ってくれた。


 今は柵を挟んで二頭の牛と、トコトコと寄ってきた一頭の羊と、いつの間にか柵の上に座っていた一匹の猫と一緒に、静かに会話を弾ませている。

 一応近くに他の客はいないし、今のところ彼女の特別さに気づいている人はいないように見える。

 猫まで寄ってきたときはさすがに少し慌てたけど、遠くから見るくらいではそれほど気にならないものなのか、もしくは単に『気配消し』が強すぎるだけか。

 まあ、どちらにしても、ディアナの静かな時間が邪魔されることはなさそうだった。


 本当に静かな、静かな時間だった。

 ――先週想像したのと違う部分はいくつもあって、やっぱりディアナの笑顔はまだまだ薄かった。

 

 でも今まで見てきた中では一番ディアナに似合う光景だった。

 不自然なのにとても自然で、彼女は本来こうあるべきなんだろうなとか、何の根拠もなく思えてしまった。


 タバコを吸うわけにもいかなかったから、緑の匂いの空気だけ大きく吸って、ぐっと伸びをする。


 ――その拍子にふと考えてしまった。

 もし、ディアナが剣になんて選ばれてなかったら、と。

 そうしたらこの子はここにいなくて、今もどこかの世界のどこかの牧場で、こうして動物たちに囲まれて穏やかに暮らしていたかもしれないのに。


 どうして剣は彼女を選んでしまったのか。そもそも何から世界を守るための剣なのか。剣に選ばれた彼女は、何を思って剣を振るって、その剣を抱えたまま逃げ出すことを選んだのか。


 ……ここで身震いしてしまうのは、やっぱり俺が自分を信じていないからだ。

 気付いたって変わらない。これは既に俺の奥底に広がってしまっている。

 俺は凡人だったから、俺が本気を出したって大きなことは成功させられない。今後もそれは変わらない。

 けど、同時に思う。

 もっと頼りがいのある奴が、碧音が、バアちゃんが、あの子の隣にいたとしたら。

 あの子はその誰かの手を借りて、もう既に立ち上がっていたんだろうか。

 そうだったとしても、俺は――


「……。っ、すぅー、はぁぁ。……あーあ」


 ……どうしても。

 静かな場所でぼーっとしていると、色々と考える前に思考が滑っていく。

 せっかく晴れているのに、気がつくと不安が湧いて気分が暗くなる。性格だから仕方ないことではあるけど、どうせならもっと明るいことを考えたい。

 そうだ。そういえばまだソフトクリームを食べていなかった。あとで温かいコーヒーと一緒に買って、それから碧音へのお土産も買わないと。やっぱり牛乳と、あのベーコンとソーセージも売っているといいけど。

 食べものばかりだなと思って、他にも、明日のゲームのこととか、明後日の仕事のこととか、今日の夕飯のこととか、昔家族で似たような牧場へ行ったこととか、これから本格的に寒くなることとか、色々と考えていた。


 すると視界の中でふらっと、牛が歩き出して、すぐに羊もどこかへ走っていってしまった。

 猫はこちらに向かってきたディアナの後ろを、ゆっくりとついてきていた。


「私も、座っていいか?」

「どうぞ」


 ディアナが俺の隣に腰掛けると、猫もその足元でちょこんと座った。


「もういいの?」

「ああ。みんな今からご飯なんだそうだ。この子は、今は気分じゃないらしい」

「そっか。もしかして、喋り足りないナディアに付き合ってくれてるのかな」

「ナー」

「なっ。いや、私はもう十分だ。だから、大丈夫だ」


 ……さすがに気になった。何が「ナー」で「なっ」なのか。

 尋ねるとディアナは目を逸らしながら「えっと」とだけ呟いた。

 どんどん気になってくる。あの悪意のなさそうな鳴き声には、いったいどんな意味が。


「その……、お前がやれ、と」


 ふっと肺から空気が漏れて、なんとか「なるほど」と言うことしかできなかった。

 それ以来どちらも猫も声を出さないから、遠くではしゃぐ子供の声しか聞こえなくなる。


 やっぱり、動物は色々と感じ取ることができるらしい。ディアナにさっき教えてもらった『きちんと伝えようとする』も、きっとそういうことなんだろう。


 だんだんと静かになっていく気がしたのは、たぶん牛たちがどんどんと牛舎へ戻っているからだった。

 辺りはまだ明るかったけど、空はもう青くなかった。


 ……じっと見てくる猫の目に耐えられず、とりあえず話しかけることにした。


「それで、どう? おしゃべり楽しかった?」

「ああ。とても楽しかった。みんな良い子たちで、私まで穏やかな気分になった。――本当に、自分の役目を、忘れそうになるくらいに」


 強く冷たい風がざわりと木々を揺らした。

 その風のせいで、今だということが俺にもわかってしまった。


 ディアナは薄い笑みを残したまま、足元の猫の顎を撫でている。

 おそらく今日のお出かけは、少なくとも今のところ成功している。口数も、微笑ばかりだが笑顔も、今までになく多い。

 なにより今のディアナは、何かを待っているような気がする。たとえ勘違いだとしても、俺はそう勘違いする程度にはもう尋ねてしまおうと思えていた。

 あとはそれを喉から出すだけだった。俺を優しいと言ってくれたこの子に歩み寄るため――そして俺が優しいことを、証明するために?


「……忘れても、いいんじゃない?」

「え……?」


 黒ぶちの猫は行儀良く座ったまま、真っ直ぐに俺たちのことを見上げていた。

 琥珀のような瞳の中心で、真っ黒な孔が俺を覗いていた。


「ごめん、冗談。……でも俺だったら、そうしてたかもしれない、かもね」


 俺はちょっと笑って、猫から目を逸らす。

 ……反射的に言ってしまった。きっと防衛本能みたいなものだった。

 自分が今からしようとしていることはとてつもなくエゴ的なんじゃないかと思った次の瞬間には、一番言いやすかった言葉を口にしていた。


「私も、似たようなことを考えていた」


 視界に入った、一瞬。

 ディアナの髪が赤色だった。あの街灯の下で出会った夜のように。

 風が出始めていて、ちょうどディアナの奥に夕日があったから、広がった髪に日が透けて赤く見えただけだった。


 けれど俺は焦るより先に、その光景に見惚れてしまっていた。

 なぜだかさっきよりも強く、彼女はこうあるべきなんだと思ってしまった。


「その、馬鹿馬鹿しいんだが、……いっそ私も、牛や猫だったら、もっと気楽だったのにな、と」


 それからディアナは「どうせなら、猫がいいな」とまた薄く笑いながら、足元の猫の背をそっと撫でた。だから俺も「俺は犬派だから」と小さく笑った。


「そうか。だったら、犬が一番いいな」


 ……隣を向くと、ディアナも何も考えてなさそうな顔で俺を見て少し首を傾げた。

 その顔の通りに何も考えてないんだろうなと結論づけたところで、ぱっと猫が走り出して、柵を抜けてどこかへ行ってしまった。


「しまった。怒らせてしまったかもしれない」

「……まあ、そりゃ怒るか」


 ぼーっと柵の向こうを見るが、もう何もいない。


「やはり私は、猫にも犬にもなれない。私は人間だ」


 ディアナも、猫が去った方を見つめていた。ちらりと盗み見た横顔はとても真剣で、どう返していいか全くわからなかった。


「そう。君は人間だよ。勇者である前にね」


 だから俺も何も考えていないふりをして、またとりあえず言いたいことを言った。

 遠くにあるソフトクリームと書かれたありきたりの幟を中心に置いた視界の隅で、隣のディアナがずっと俺の顔を見ているのがわかった。

 そういえばこの子はよく、こうして人の顔をじっと見つめてくる。まるで猫や犬のように。

 けれど何も言ってこなかったし、俺も振り向くこともできなかった。


 ――もう少しで。


 俺は、もう少しで間違えるところだった。

 利用したくないと言いながら、自分の安心を得るためにこの子の傷を開くところだった。


 そもそも俺は、一番最初に自分で決めただろう。

 必要以上に近づかない。これは絶対だ。


 これを捻じ曲げてしまうと、歪みが生まれて、少しずつ色んなところが崩れていく。

 そんな直感めいた予感がした。おかげで、反射的にも正しい選択ができたらしい。


 そして、俺が本当に優しいって言うのなら、たぶんこれが俺なりの優しさなんだろう。

 導く強さがないなら、見守って支えてやればいいんだ。


 その瞬間。すとんと、ようやく置き場所が決まったような感覚があった。

 ……けれど、思えばこれだって、最初から分かっていたはずなんだけど。


 見上げると、空には夜の色が混ざり始めていた。

 遠くのどこかでカラスの群れが鳴いた。


「もしまたあの猫に会うことがあったら謝ろう」というと、ディアナはふっと柵の方を向いて静かに「ああ」といった。


「んじゃ、最後にソフトクリーム食べて、お土産買って帰ろうか」


 街灯の根元のブロックから腰を上げて、軽く伸びをする。ディアナも猫に合わせてしゃがんでいたところから立ち上がって、「わかった」と肩の竹刀袋をかけ直した。


 他の客も同じように考えたらしく、売店は昼より混んでいた。特に土産コーナーは大盛況で、もうベーコンもソーセージも牛乳も値札しか残っていなかった。なんとか買えたのは小さいチーズとソフトクリームだけだった。

 コーヒーも売り切れていたから、店先の自販機でありきたりの缶コーヒーを二つ買って、またあのベンチに座った。


「ん、美味いけど、さすがにちょっと寒いな」

「ああ。だが、美味しい」

「うん。……そういえばさ、ディアナって実家では乳搾りとか、普通にやってたの?」

「ず……ん、ああ。近頃はできていなかったが、小さな頃から、ずっと手伝っていた」

「てことは、もし体験してたら、無双して注目されちゃってたかもね。じゃあ乗馬と、羊の毛刈りは?」

「向こうでは馬でも移動していたから、乗ることはできる。毛刈りも、一応できる。私の実家には一匹しかいなかったが、毎年毛刈りの時期は、ルビオさんのところを手伝っていたから。こう、羊をお尻から座らせて、後ろ足も浮かせると、大人しくなってくれるんだ。けれど、私はルビオさんほど上手くハサミが使えない。あの人は、剥がすみたいにどんどん切っていくんだ」

「あぁ、剥がすみたいって、昔動画で見たことある。でもあれはバリカン、っていう、自動でチョキチョキするハサミみたいなの使ってたけど」

「そんなものまであるのか……! だが、こちらにも『毛刈り』の魔法はあった。もっとも、あんなに高価な再生符は、とても農民に使えるものではなかったが……あ、再生符というのは、力を込めるだけで魔法が使えるというものだ」

「へぇ~やっぱそういうのあるんだね」

「ああ。例えば、これは『大氷柱』の再生符だ」

「持ってるんだ……ってかちょっと待って。すごい物騒な名前だし、今それどっから出した?」

「え、あ、言ってなかったか。剣には、収納の機能もあるんだ。私が持ち上げられるものなら、いくらでも剣の中に収納することができて、今は剣の中とポケットを繋いで、そこから出した」

「ごめん、そういえば聞いてた。でも、びっくりした。なんかその危なそうなのを、普通にポケットに入れてたのかと」

「それはすまない。……向こうでは普通に携帯するものだったんだ。再生符なら、展開に時間のかかる魔法でも瞬時に発動できるから、こういった実用的なものは、常に肌に触れる場所に入れていた」


 ソフトクリームを食べ終わったら、そんなことを話しながらバス停までゆっくり歩いた。

 さすがにバスの中でまで魔法の話をするわけにはいかなかったけど、帰りは細々と会話は続いていた。

 バスに酔わなかったのはそのおかげかもしれない。


 夕飯はそのまま駅前の回転寿司に寄った。

 帰りのバスの中で、そういえばまだ食べさせてやってないと気付いた。

 でもソフトクリームのせいかあまり腹は減ってなかったし、そもそも良い店なんか知らなかったので、回ってるやつにしてしまった。

 自分の経験値不足は軽く嫌になったけど、ディアナは割と楽しんでくれたようだった。


「生? 魚を、生で食べるのか……?」とお手本みたいな困惑から「すごい、柔らかくて溶けてしまった。これが鮭、なのか?」までいったのはまさに日本人な快感だった。


 けれどディアナは、俺が食べようとすると不安そうな顔をした。

 それでここが世界的なチェーン店であることや、一度冷凍しているから鮮度も寄生虫も問題ないのだと教えてやると、ほっとした顔で俺が寿司を食べるのを許してくれた。

 ちなみに勇者の状態異常無効は腐ったものを食べても大丈夫らしく、寄生虫は試したことはないけど、体を炎のような高温にしたり、身体中に雷を纏うことはできるらしい。

 ならたぶん大丈夫だねと笑いながら、やっぱりこの子は自分の扱いが軽くなっているのだろうと考えてしまう。それは自動蘇生のせいなのか、逃げた罪悪感からか。もしかすると生来のものなのか。


 あと、マグロを二つ食べながら、今俺が突然脳の血管でも詰まらせてポックリ逝ってしまったらこの子はとても困ったことになるんだよなとかも、考えてしまった。

 ……まあ、その場合も結局碧音を頼るしかない。俺に何かあれば碧音は動いてくれるだろうし、あの子からバアちゃんに話をつけてもらえば、少なくともこの子が一人になることはないはずだ。

 とはいえもし俺が死んだらなんて今のこの子に言えるはずもないので、あとで碧音に軽く伝えておこう。

 でも念のため、電話のかけ方くらいは教えておくことにした。ダイヤルパッドの呼び出し方と、一一九番と碧音の番号。また少し不安にさせてしまったが、本当に念のためだと言うと納得してくれた。

 そしていくらを勧めると、また美味しそうに頬張った。

 ただ今回食べたなかで、カニミソだけは微妙だったらしい。



  *



 デザートのアイスも食べ終え、熱いお茶も飲んで、初めはそのまま帰るつもりだった。

 けれど店を出てもまだ二十時前で、電車はまだまだ動いていて……ふと思いついてしまった。


「ナディア、もう疲れてたり、眠かったりする?」

「大丈夫だ。まだまだ動ける」

「じゃあさ、ちょっと海の方まで行こっか」


 夜だけど今日は月が明るいし、ちょうどいいと思った。

 ディアナはほんの少しだけ驚いたような顔をしたけど、「わかった」と頷いてくれた。

 すぐに切符を二枚買って、俺はいつもと反対側のホームにタイミングよく来た急行に、ディアナと二人で乗り込んだ。


 車内は思ったよりも空いていて、並んで座ることができた。

 タタンタタンと規則正しく鳴る音を聞きながら、暗い窓を眺める。自分と、綺麗な黒髪の女の子が映っている。

 自分がそれをしたかっただけなんだろうとは、思いついたときから気づいていた。


 やっぱり俺は自覚してたより今日の非日常感を楽しんでいた。

 寿司屋で軽く日本酒を飲んだせいでもあるんだろうけど、気分に任せてディアナを巻き込んでしまった。

 でも、今日くらいはいいだろうと思っていた。


 ……でも冷静に考えてみたら海を見に行こうってのはさすがにソレっぽ過ぎたかな。

 しまったそういうの意識しないようにしてたのに。いやでも子供じゃないんだ、ただ二人で出かけるだけで……いやでもやっぱり海は違ったか。明日碧音にどう説明しよう。


 とか考えながらふと顔を上げると、窓越しにディアナと目が合った。窓の外を眺めているのかと思ったが、その瞬間にすっと逸らされた。

 いや、偶然だったんだろう。


 外ではビルや住宅街の明かりがどんどん流れていっていた。いつの間にか俺もぼーっと眺めてしまっていて、明かりが少なくなってきてようやく、もう目的地のすぐ近くだと気が付いた。


 車内が暖かかったのもあるだろうけど、電車を降りて海に近付くほど、寒さが強くなる感じがした。

 まだ深夜というわけでもないのに誰ともすれ違わなかった。


 海は予想していた通りの景色だった。

 月がとても青白く明るくて、なのに夜の海は真っ黒だった。砂浜は靴に砂が入りそうだったから、軽く堤防沿いを歩いて、灯台の近くの自販機でココアを買った。


 他は特に何もなかった。俺が少し疲れていたせいで会話も少なく、とくに意味のない短いやり取りがいくつかと、ディアナが一度「海は、どこも変わらないんだな」と呟いたくらいだった。


 帰りの電車も行きとほとんど同じだった。ディアナはずっと窓を眺めていて、俺は碧音への言い訳を考えながら、結局は窓に気を取られていった。


 最寄り駅に戻ったのは二十二時過ぎだった。そこから軽く買い物をして公園に寄って、無事に帰り着いたのは二十三時頃だった。

 風呂を沸かして順番に入って、小腹が減ったからチーズとスナック菓子を食べながら少しだけ二人でワインを飲んで、それでもいつもより一時間くらい早くベッドに入ることができた。

 寝る前に一つだけディアナに尋ねた。


「今日、楽しかった?」


 ディアナは言葉を探すように一度視線を落としてから、「ああ。とても」と少し赤味が差した顔で微笑んでくれた。


 それだけだ。それだけだけど、それで良いと思えた。

 今日みたいに、少しでもあの子が良い日を過ごせるように。

 結局変わらないけど、今までよりもう少しだけ、あの子の幸せを意識して。


 リビングの照明を消す前、布団に入ったディアナが「おやすみ」と返してくれたから、俺は素直に今日を良い一日だったと思えた。

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