5-1.「揺るがない幸せが」①
「すまない。お待たせした」
「……うん、大丈夫。『気配消し』もちゃんと効いてるし、そういえば中に人、いなかったよね?」
「ああ。念のため『人物探知』の魔法も使ったが、遠くに一瞬通り過ぎた以外、気配はなかった」
「あー、さっきバイクの音してたからそれかな。……よし、じゃあ行こっか」
「ああ」
――結局あの後、碧音が心変わりすることはなかった。
いきなりどうして。俺が間違ったことを言ってしまったのか。何か機嫌を損ねたのか。まさかあの自分が脇役だという話を気にしているのか。
あの子の最寄駅に着くまでの間にも、別れてからはチャットでも何度も尋ねたが、彼女の結論は「二人でも全然行けそうだったし、二人の方がのんびりできるでしょ?」ということだった。
実際、そうかもしれないとは思ってしまった。ディアナの魔法は想像より遥かに便利だったし、碧音はのんびりと何もしない時間を過ごすよりは、常に何かをしていたいタイプのはずだった。
それからついに「めんどくさい」と言われてしまった後、追加で『二人でゆっくり色々話したらいいと思うよ』『ていうかディアナさんにいっぱい言いたいこと言わせてあげて』と送られて来た。
そこで何となく碧音の言いたいことがわかった。要するに「私がいるとディアナさん話せないんじゃない?」ということなんだろう。
またそれは正しかった。碧音がいると、会話は俺と碧音の間で起こることがほとんどだった。というより俺もディアナもあまり喋る方じゃないから、必然的によく喋る碧音が場の中心になってしまっていた。
だったら最善はディアナと碧音の二人で出かけることなんだろうが、さすがに不安が残りすぎる。
あと、そもそも碧音が同行すると言い出してくれたのは、上手くディアナに歩み寄る自信が俺になかったからだ。もちろん今だって自信はないけれど、俺は先週、自信がないなりにやってみることに決めていた。
とどのつまりは、どこまでも碧音が正しい。
……ただしそれは、俺が碧音の期待している通りに機能することができればの話。できないなら、やっぱりあの子がディアナの相手をしてやるべきだった。
「本当に私は、アオネに悪いことをしていなかっただろうか」
人のいない公園から特に会話もなく歩いていたが、ふとディアナが言った。
もしかすると、この子はずっとそう悩んでいたのだろうか。せっかくきれいに晴れた冬の朝なのに、彼女の顔はいつにも増して影が濃いように見えた。
「大丈夫。碧音は、不機嫌なときはもっとわかりやすく態度に出すから」
「そう、なのか。だが、そうでないとしても、何か気を遣わせてしまったんじゃないだろうか? ……いや、いまさらな話では、あるだろうが、私には、アオネも楽しみにしていたように見えていたんだが」
……ほら、早速。ここで気の利いた答え一つ、作ってやれない。
「考えても仕方ないよ」
「……ああ。そうだな」
けれどこのまま黙って歩き続けたら、きっとこの子はずっと引っかかり続ける。
――今この子の隣にいるのは俺だ。俺が向き合ってやらなければ、絶対に変わらない。
俺が立ち止まると、すぐにディアナは隣から見上げてきた。相変わらず目元に隈をつけた暗い顔で。
「たしかに碧音は、気は遣ってると思う。でもそれは、俺たちにゆっくり遊んでもらいたいかららしくて……その、碧音ってあんまり、ぼーっとしてるのが得意じゃないから。あとあの子、実は動物もちょっと苦手で、逆にそういう気を遣わせたくないっていうのも、あったんだと思うよ」
なんとか必死に考えた。でも上手く嘘を作りきる自信もなくて、半端に本当のことだけを言ってしまった。
事実、碧音は小さい頃に馬に頭を噛まれて大泣きして以来、動物全般に対して苦手意識があるらしい。叔父さんから昔聞いた覚えがあって、今回の同行しない理由としても碧音の方からチャットで言っていた。
が、果たしてこれをディアナは、あの子が一度行くと言い出したものを引っこめるほどの理由になると、思ってくれるのだろうか。
「気を遣わせたくなくて、気を……。その、つまりは、アオネは私たちが二人で牧場へ行くことを、本心から望んでいる、ということ、なのか?」
「そう。そういうこと。とりあえず、碧音が俺たちのこと嫌いになったとかは、絶対ないよ。明日だって遊ぶ約束してるんだしさ」
「そう、か。そう、だな。……わかった。では今日は、よろしく頼む、イチノスケ」
「うん」と軽く笑いながら、ほっと息をつきそうになるのをなんとか堪える。
なんか結果的には碧音の弱点を無駄に晒してしまった感じがしなくもないが、どうにか目の前の関門は越えられた。
俺もやればできるじゃないかと思った直後に、まだスタート地点だったことに気づく。
俺はこれから、もっとディアナに心を開いてもらわないといけない。
今この子の好感度がどれだけあるのかはわからない。が、自分から話し出してくれるまではいかなくても、俺自身が尋ねていいかもと思えるくらいには高めておきたい。
だって俺が尋ねれば、ディアナは必ず答えてしまう。
だから、なんだけど。
……気づくと喉の奥が詰まって、鼓動が速くなっていた。明らかに俺は緊張していた。
でも仕方ないだろう。
よくよく考えてみれば、俺が、女の子の、心を開く。
俺がどうリードするかで、この子の今日という日が決まる。
今まで碌に彼女もいなかったのに。二ヶ月付き合った大学の先輩にも、会社の社長にも「面白味がない」と言われたことのある、この俺が。
無理――とは言わないけど。……これ、普通に無謀だったんじゃないのか?
「……。だが、その、少ししつこいかもしれないが、イチノスケは、迷惑ではないんだ、よな?」
表情に出ないよう意識はしていた。しかし隣を歩くディアナは、俺の顔をじっと窺っていた。
「大丈夫。実は俺も、結構楽しみにしてたんだよ? たまに思い出して、ちょっとそわってするくらいには」
するりと言えたのは、それも結局本当のところだったからだろう。
もちろん、その『そわっ』の中にはこの緊張も含まれているのだろうが、
「そ、そうか。なら、イチノスケも、ちゃんと楽しんでほしい」
……ディアナがそう言ってくれたとき、嘘みたいに気分が軽くなった。
そうだ。俺も、色々な面倒ごとを除けば、このどこかへ遊びに行くという久々のイベントに少し……いや、それなりに浮かれていた。
馬鹿馬鹿しいのは知っている。綺麗な女の子が隣にいる、ということが一因になってしまっていることも、俺は自覚している。
でも何よりもディアナが、俺にもちゃんと楽しんでほしいと望んでいた。
つまりそれは、俺も楽しまなければ、彼女も十分に楽しめないということになる。考えてみれば、同行者が楽しんでいない二人旅なんてつまらないに決まっているのだが、きっとディアナはそんな考え方はしていないのだろう。
……じゃあ、なんか、もういいか。
「うん、ありがとう。ディアナもね」
だってディアナがそう望んでいるんだから。
そもそも正直言って、色々考えながら楽しむなんて器用なこと俺にはできるとも思えなかった。
でも投げ出すわけじゃない。仲を深めたいなら、同じものを見て楽しむことは別に悪い方法じゃないだろう。……たぶん。
そう。上手く他人の心を開く方法どころか仲を深める方法さえ、俺は怪しいんだから。
だからもう彼女の言う通りにしてしまおう。俺にできる限り、この子が今日を楽しめるように尽くすために、俺もある程度楽しもう。そしてもし運良くタイミングが見つかれば、もちろん慎重に考えた上で、踏み込んでみよう。
……きっとたくさん考えて今日辞退してくれた碧音には、悪いけれど。
そう思った瞬間、本当に不思議なくらい気持ちが楽になった。
「ま、気楽にいこう」
「……ああ」
ちらりと隣を見ると、ディアナの表情の仄暗さも少しだけマシになったように、少なくとも俺には見えた。
ディアナと反対側の大きな川に目をやりながら、息をゆっくり吐く。
しかし、自分から外出することなんて、本当にいつぶりだろう。
この頃の休日はとにかく体を休めるための日だったから、一歩も外に出ないことがほとんどだった。出たとしても買い物か散歩くらいで、ごく稀に昔の友人に誘われて飲みに行くこともなくはなかったけど、年に一、二回あるかどうかで、それ以外は本当にベッドの上かテレビの前から動かない日だった。
でも本当は別に嫌いじゃないはずだったんだ。外に出て色々見たり、体験したりすることが。ただ自分一人のために外出するだけの活力がなかっただけで。
だから今日は、もう力を抜いてしまっていいだろう。
……本当に碧音には悪いと思うけどさ。
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