4-7.「確かなものなんてない」⑦
少なくとも口角は上がっていた。
けれど何かに邪魔をされて、らしくない歪な表情になっていた。
自分でも気づいていたんだろうけど、碧音はそのままじっと俺を見た。
……この子も。ずっと疑っていたんだ。
碧音もずっと俺に裏があると思っていた。
俺の自覚に関わらず。頼りない曖昧な従兄の言葉では納得できなかったから。
自分の良く知っている平凡な臆病者が、突然意味のわからない電話をかけてきて、なんの目的もなく危険を抱えこむと――普通の状態なら言うはずのないことを、言い出したから。
碧音は不安になったんだ。
破滅願望でもあるんじゃないかと。
まともに生きるのに疲れてしまったとかで、ディアナが全て壊してくれることを、内心では願ってるんじゃないかと。
……昔から仲良くしてくれている親戚が、おかしくなってしまったのかもしれないと、不安になったんだ。
そして俺はそれを否定してやれない。
疲れていたからディアナを拾えたのは間違いない。あのときは残業に休日出勤が重なっていて、俺は確実に色々なことが面倒になっていた。
それは今だってわからない。
俺は本当に正しく判断ができているのか。
賢いこの子に異常だと思わせた行動は、本当に正しいことなのか。
……この子を今、これだけ不安にさせているのに、俺はこのままでいいのだろうか。
そのとき、無意識に向けてしまった視線が、本から上げたディアナの目とぶつかって――ふいに思った。
ディアナはどうかしたのかとでも言いたげに瞬きをし、目線を碧音に移して、その様子に気づいたのか少し慌てたようにまた俺を見た。
俺は少し笑いながら口だけで「なんでもない」と言って小さく首を振った。
……俺は今、またあの子を拾ったことの正しさを疑って、この奇妙な状況を終わらせるべきかと考えようとした。
ふいに思っていたのは、どうしてそうなんだろうという疑問だった。
わかっている。
明らかに正しいのは。碧音が求めてるのは。
「気づくのが遅れたけど、俺はディアナを助けたかったらしい」と言うことだ。
そう明言してしまえば、話は丸く収まるはずだった。
それが言えないのはなぜなんだろう。
助けたくないわけじゃない。深入りして危険に巻き込まれるのは普通に怖いけど、やっぱり恐れきれてはいない。
結局は失敗したくないだけだ。
俺は、俺のせいで何かが変わるのが怖いんだ。
大きなことを良い方向に動かすような力が、自分にあるとは思えないから。
俺は、自分を信じていない。
――自分を信じられない原因は、“これ”に決まっていた。
盗難防止のバネで繋がれたペンを持ち、サンプル品の画面を軽くつつく。
腹の底に感じるありふれた諦め。
くだらない劣等感。
大げさな無力感。
「大丈夫、だと思う。俺も普通に怖いし、本気で壊してほしいって思えるほど、受け入れられてないわけじゃないから。……碧音のことで神経質になったのは、碧音の人生を変えちゃいたくなかったのと……たぶん、嬉しかったから、かな。これは俺が好きなことでもあったから、普通に頑張ってほしかった」
自分の腹にあった感情を言葉にしてから、言っていることは学歴コンプレックスを持つ毒親と変わらないなと思った。
本当に、本当につまらない、一度の自分への失望だ。
そんなもののせいで碧音はまた不安になる。
ディアナも救われない。
マンションの隅っこに居場所を与えられる以外、何もしてもらえないまま。
……ああクソ、気分が悪い。
ここまで。ここまでわかってて。なんで俺は、
「イチノスケ」
呼ばれて振り返るとマスクをつけた女の子が……ディアナが立っていた。
いつの間に。全く気づかなかった。
考え込んでいたから……いや魔法のせいか。
「ど」
どうしたの――と言おうとして、直前に碧音と話していた内容を思い出して動けなくなる。
「あ、勝手に、動いてすまない。だが、二人がただならぬ様子だったから。……何か、あったのか?」
見つめてくる翡翠の瞳。
――怯えたような目。
「どうもしてないですよ。すみません、お待たせしてしまって」
「い、いや、私は大丈夫だが、その、本当に大丈夫なのか? もし、ケンカしてしまったのなら、きちんとお互いの言いたいことを、言うべきだと思うが……」
いつもよりさらに自信がなさそうに「私の勘違いだったら、すまない」と付け足してまでディアナは言う。
碧音は一瞬だけこちらを見てから、「大丈夫ですよ。私が、高いもの買ってもらうから、ちょっと不安になっちゃっただけなので」と本当になんでもなかったみたいに笑って返した。
ディアナは俺たちのことばかり心配していた。
それにもし俺たちの――ディアナの危険性についての話を聞いていたとするなら、彼女にしては迂遠すぎる聞き方だった。
見つめてくるディアナに「ごめん紛らわしくて」と頷き返すと、力の入っていた表情がふっと緩んだ。「いや、よかった」
「これ、今から買ってもらう、色んなことができるすごいものなんですけど、実は今のイチ兄の家賃の、二ヶ月分くらいするんです」
「そんなにするのか……!」
「はい。イチ兄金持ちですよね」
「使わないだけです。……あとなんで俺の家賃知ってんですか」
「あと、私のこと応援したいらしいですよ。ホントに優しくて頼りになるお兄さんですね」
気付いたら二択のうちの高い方を選んでいるし、口の端を上げて言われてしまうと、それが冗談なのか俺にはもうわからない。
もう碧音は綺麗に笑っている。
……だからきっとここで曖昧なまま話を終えることはできた。
「俺が優しいって、それ本気で言ってんですか?」
決めきらないまま言ったから、俺も冗談っぽく言い切れなかった。
「優しいよ、イチ兄は」
けど、そう言って笑った碧音は、たぶんちゃんと喜んでくれていた。
「褒めるとしたらまず言うもんね」
「……ちなみに他には?」
「え、あー、あっ、パソコンとか詳しい」
その笑顔は冗談の方だな。そうだよな?
「――でも」
碧音は、またちらりとだけ俺の方を見て、少し息を吸ってから。
「頼りないのは認めますけど、多少信頼できる人ではあると思います。だからディアナさんも、何かあったら、是非頼ってあげてください」
「了解した。……だが、少し違う」
「「え」」
「ディアナではない。私は、サトウ・ナディアだ」
少し真面目に意味を考えてしまって、ディアナも大真面目な顔をしていた。
最初に笑ったのは碧音で、気付くと俺も笑ってしまっていて、きっとこの子は……少なくとも今は、俺たちに利用されるだとかは何も考えてなくて、真っ直ぐ信じてくれてるんだろうなと思えていた。
でも、それでいいんだ。
「あ。す、すみません、ナディアさん……ふふ」
「あ、いや……こちらこそ、些細なことを言って、すまない」
したいようにと言ったのは俺だ。ここでは楽に生きればいい。
それがもし、誰にでも全てを委ねてしまう危うい選択だとしても、委ねられた誰かがきちんと取り扱えば、彼女は楽に生き続けられる。
俺は、そうさせてやりたいとは思えているはずだ。
他に色々あったとしても、俺はこの子を利用したくないし、可能なら、この素直で優しい子には幸せであってほしい。
これが『優しさ』らしいから。
しかしこれが本当に優しさなら、俺はもう少し、あの子の抱える問題に踏み込んでやるべきなんだ。
――勇者のあの子に、一体何があって、こんなところへ逃げてくることになったのか。
聞いたってどうなるものでもないのかもしれない。
けれどそこへ踏み込むことは、信じてくれているこの子達への、一つの証明になるような気がした。
「ナディアさんはどっちの色がいいと思いますか?」
「え、わ、私は、というより、碧音の好きなほうを選ぶべきでは」
「最終的にはそうしますけど、ナディアさんは、どっちが私に合うと思いますか?」
「ええっ、え、えっと、そう、だな…………私は、こっちの青い方が、碧音に似合うと、思う」
「イチ兄は?」
碧音の整った顔が、手元の展示品へ向けていた視界に突然割り込んできた。
「えー、っと、俺は……俺も、その青い方、かな」
「じゃあこっち。イチ兄、財布用意して」
「「え、いいの?」か?」
俺たちの驚きに振り返りもせず、碧音は「いいの!」と店員を呼びに行ってしまった。
彼女が一人で進めていくのはいつものことだけど、今はもう少し楽しそうな感じがした。
結局碧音の「何がしたいの?」という問いにはっきり答えることはできていない。
でも俺の回りくどい答えは通じてくれて、それで不安や色々が薄らいだあとに、そういえば自分がずっと欲しかったものが手に入るんだったと思い出したのかもしれない。
そう考えると俺まで少し楽しくなってきた。
そういえば俺も自分のものを買ったときは、走り回りたいくらいの気持ちだった。
とか、懐かしくなりながらレジへ行って、店員さんの話を聞きながらいくつかの付属品もまとめて買うと、まあホントにそれなりの金額になってしまった。
たぶんちょっと調子に乗ったし、店員に乗せられた。しかしここで引くわけにもいかず、カードで一括払いさせていただいた。
でもその帰り道、少し碧音がしおらしくてちょっと面白かった。
やっぱり十数万の値段に怯えるくらいには、この子もまともな高校生だった。
◯
と、碧音の寮の門限に迫りながらも、なんとか買い物を終え、俺たちは無事に帰路へつくこととなったのだが。
そのすっかり暗くなった道中で、碧音が二つとんでもないことを言った。
「そういえば、前から言おうと思ってたんだけど。……イチ兄、ディアナさんの前だとなんか口調変だよ」
ショッピングモールから駅までの道の信号待ちで、ふと俺の耳元に顔を寄せて言ってきたそれが、一つ目だった。
「碧音が、それ言うか」
近づいてきて、突然すぐそばでつま先立ちになったことにも驚いていたから、言い返すのは信号が変わってからになってしまった。
「私はまあ、もうこういうものだし? でも、イチ兄はなんか最近変わった」
「どういうふうに?」
「距離がある。なんか学校の先生みたい」
言われて、自覚はなかったけど、すぐに言いたいことは理解できてしまった。
「俺のも、そういうもんなんじゃない?」
実際今の状況は、俺だけが大人で、ちょうど先生みたいな立場なわけで。ある意味ではそこが目指す理想形でもあるんだろうし。
「もうちょっと私にはテキトーだったと思うんだけど」
「そうかな。まあ、やっぱり碧音は親戚なんだし」
「別にそこまでカッコつけなくてもいいんじゃない?」
……カッコつけ、てはいるんだろう。
けれど、だからってどうしていいか分からなかったから、俺はちょっと笑いながら「大人ですから」とごまかすことにした。
碧音もこちらを見ずに「大人かぁ」と呟いたきり、しばらく静かになって……突然、格闘ゲームの話を始めた。
最近はほとんど遊べていないけど、昔はバアちゃんの家に集まるたびに、親戚や近所の子どもともよく対戦していた。
それなりにやりこんでいたから俺が一番強かったけど、そういえば叔父さん――碧音のお父さんが急に強くなったときがあって、次の年には碧音が叔父さん以上に強くなっていたりした。
まあそれでも俺の方が強かったが。
「私まだ練習してるから。寮にこっそり持ち込んで」
「おいおい不良生徒じゃないですか」
「意外とやってる子いるんだよ。……実は、放課後2、3人で集まって、練習してたりしてる。月曜か木曜か土曜に」
「へぇ。それは、同好会みたいな?」
「ううん、勝手に集まってやってるだけ。他に部活やってる子もいるから集まりやすいのが月曜と……その顔やめて。制服で職場乗り込むよ」
「だからなんで殺しにくるの……。まあでも楽しそうでよかった。もしかしてあのコミュ強の子もいたりして?」
「教えてやんない。……いや、じゃあ私に勝ったら教えてあげる。イチ兄、ハードもソフトも持ってたよね?」
「持ってるよ。受けて立ちましょう」
「じゃあ来週、日曜! ディ、ナディアさんも、一緒にやりましょう! やり方、教えますので!」
「え、あ、ああ、私は構わないが」
「いや、でも来週は」
「――それで土曜日は、二人で出かけてください。やっぱり私は、行かないことにしましたので」
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