3-6.「心は多分正直」⑥


「違うんだ。私の国では、私はもう酒が飲める歳だった。あと、たしかに、私は酔って眠ってしまったが、私は、敵意や悪意があれば気付く。それに、おかげで久しぶりによく眠れた。だ、だから、許して、もらえないだろうか


 今度もディアナが言ってくれた。

 またしばらく何も言えなかったのは、やっぱりディアナのその必死に庇おうとしてくれているのが、結構嬉しかったからなんだろう。


 碧音はディアナと俺を何度か見比べてから、一度「本当に、何もされてないんですね?」とディアナに確認をとった。

 彼女がこくこく頷くと、碧音はすっと嫌いな大人を見るような目で俺を見て「何も、してないんだよね?」と聞いてきた。


「はい、何もしてません」


 即答して「これからも絶対、何もしません」とも付け足しておく。

 痛いくらいに冷たい目つきが俺を覗き込んで、ふっといつもの無愛想なものに戻った。


「……わかった。まあ成人してるんだったら、何を飲むのも自由でしょう」


 言葉の通り、ほっと息をついてしまう。そのままお茶を一口啜ろうとしたが、碧音は「ただし」と米のついたスプーンを向けてきて。


「絶対に飲みすぎないこと。どちらかが一度でも泥酔したら、二人とも禁酒です。あとディアナさん」


 ぴっとスプーンが自分に向き、ディアナはびくりと肩を揺らす。


「イチ兄は、自分のためにディアナさんを助けています。恩を感じるな、は難しいと思いますが、感じすぎる必要はありません。つまり、文句があったら言ってください。……いえ、はっきり言います。イチ兄を必要以上に庇わないでください。それがイチ兄のためでもあります。いいですか?」


 ディアナは少し固まった後、真面目な顔で「了解した」と頷く。


「最後。もし何かがあって、私がアウトだと判断した場合は、ディアナさんはバアちゃんに引き取ってもらいます。バアちゃんだったら絶対に受け入れてくれるし、田舎に住んでるから面倒なことにもならないと思うから。はい、異論はありますか?」


 また俺の方に向いたスプーンをじっと見つめてしまう。

 碧音はそんな俺を睨みながら、スプーンについた米をついばむ。


 異論なんてあるわけもなかった。

 まだ碧音は事情を知って三時間程度だというのに、的確に俺とディアナを理解して、状況を整えてみせた。

 やっぱり碧音はすごい子だ。俺なんかよりずっと。

 その実感と誇らしさの中で、俺はここで頷けばいいのか、少しわからなくなってしまった。

 碧音はそれにめざとく気づいた。形の整った眉が、小さく動いたのがわかった。


「ディアナ」


 くるりと、ディアナは翡翠みたいな緑の瞳で俺を見る。

 劣等感も少しあったのかもしれない。

 けれどそれは実際俺には思いつけなかったことで、そこには多少なり俺の思い上がりがあったんだろうと、碧音を見ていて痛感した。


「碧音が言ったみたいに、俺らの祖母なら、絶対良くしてくれると思う。そこそこの田舎に一人で暮らしてるから、俺らもディアナが一緒にいてくれたら安心だ。ちょっと厳しいけど、優しい人で、料理も俺よりずっと上手い。絶対、俺といるより――」


 なんとなく、ディアナが静かに過ごせる場所なんてそうそうないと思っていたし、俺はその貴重な場所を提供できると思っていた。


 けど、さっそく俺一人じゃできないことがあった。

 そういうふうに引っかかる部分が、ここにはきっとたくさんある。

 少なくともバアちゃんのところにはそういう心配も気苦労もないから、ここよりずっと静かに過ごせるはずだった。


 だから、きっとそっちに行った方が幸せだと、俺は言おうとした。


 ……言えなくなったのは、ディアナが、悲しそうな、なぜか俺の胸が苦しくなるような顔をしていたからだった。

 息が苦しくなって、その表情の理由わからないから、何も言えなくなった。


 ディアナも何かを言いたそうにしていたけど、俯いたきり何も言い出すことはなかった。


「……違うイチ兄。そういう意味で言ったわけじゃない」

「でも実際、俺はそっちの方がいいと思う。やっぱり、どうしても落ち着かなかったりすると思うし、部屋も狭いし、外にも出れないし。向こうだったら自分の部屋で落ち着けるはずだし、田舎だから散歩とかもできる。あと、俺じゃ作れない美味しいご飯とかもいっぱい食べ――」

「ディアナさんは、どうしたいですか?」


 鋭く俺を睨んでから、碧音はディアナに顔を寄せてそう尋ねた。

 それは、今までに何度か俺もしていた問いかけだった。


 最初は、壊れてしまいそうなほど自分を責める彼女を見ているうちに、何もかもがとんでもなく重い「するべき」で、きっとそこには彼女の意思を挟む余地なんて隙間もなくて、だったら今くらいは、少しでも彼女を解放してやりたいと思って言ったんだった。


 なのに俺は今、たぶん一つの「するべき」を言ってしまった。

 しかも彼女にとっては、追い出されるような形の。


「一応言っておくと、俺は別に、出ていってほしいわけじゃない」


 他に言い方が思いつかなかったから、言ってしまった。

 こう言ってしまうと、やはりよくないように聞こえるはずだし、実際そのよくない未練のようなものを、俺は自覚もしていた。……けれど。


「私は、ここに満足している。だが問題があるのなら、……また手間をかけることになるが、私は速やかに他所へ行く」


 顔を上げたディアナは、あまり感情がわからない表情で真っ直ぐに俺を見ながら、同じく真っ直ぐな声で言った。


「気を使っちゃうのは、どうしようもないけど、俺は大丈夫。問題ない。……でも、うちの祖母は絶対受け入れてくれるし、実際やろうと思えば結構すぐに移れると思うけど、本当にいいの?」

「ああ、問題ない。だがイチノスケは、やはり私がいると気が休まらないんじゃないのか?」

「気が休まらないってほどじゃない。俺は、自分の部屋もあるし。でもディアナも」


「ああもう! めんどくさい! どんだけ続けんのそれ!」


 思わず肩が跳ねてしまった。目の前のディアナも同じく。

 大声を出して立ち上がった碧音は、驚いた俺たちを交互に睨んで。


「二人とも、ここにいてほしいし、ここにいたいんでしょ⁈」


 互いに相手の動きを確かめようとして目が合ってから……俺はゆっくり頷く。少しだけ遅れて、ディアナも。


「じゃあそれでいいじゃん。はい、もうこの話おしまい!」


 そんな簡単に、おしまいにしていい話なのか。

 ディアナもこちらをチラチラと見ながら、すっきりしない顔をしている。けれど碧音はもうこたつに入り直して、チャーハンの残りをかきこみ始めている。


 ……でも、たしかに。

 ディアナがいいと言ってるなら、それでいいのかもしれない。


「だけど、さっきのは変わらないからね。ディアナさん、何かあったら、すぐに言ってくださいよ」

「……ああ、わかった」


 頷いて、一度俺を見てから、もそりとスプーンを口に入れるディアナ。

 ……この子がここにいたいと言う理由。

 考えてみてもわからない。

 あの二人で泣いたことが何かになっているのかもしれないし、俺が「なにもしたくない」を許したからかもしれない。

 それにいくら俺たちが大丈夫と言ったって、新しい人に会うのは怖いし、なにより疲れる。


 何にしても、ディアナは満足していると言ってくれて、頷いてくれた。


 俺はディアナのことを、幸せにも不幸せにもしてしまえるけど、少なくとも幸せであってほしいとは思えている。

 ならそれでいいじゃないか。


 ディアナと俺の、その気持ちが変わらない間は。

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