1-6.「behind the clouds」⑥
一度部屋がしんとしてから、彼女は静かにそう言った。
相変わらずにこりともしないで、しかし目だけは真っ直ぐに俺を見ていた。
「俺は、菱川、一之助。あ、この辺だと苗字が先で、名前が後だから」
「では、イチノスケ」
「え」……慌てて口を押さえたが遅かった。
「すまない、どうかしたか?」
「いや……っていうか、長くない? 一之助って」
「そうだろうか? イチノスケ、イチノスケ……うん、大丈夫だと思う。あ、私の家名はメイヤだ。ディアナ・メイヤ、それが私の名だ」
「……じゃあ、ディアナで」
「わかった」
一応言っておくと、俺は異性を名前で呼んだことも、呼ばれたこともほとんどない。
小さい頃どうかだったか分からないが、少なくとも中学生以降にそういう経験はなかったはずだ。あったら覚えてないはずがない。
だから、多少動揺するのも仕方ない話なんだ。
でもまあ、彼女――ディアナがどんな心境で名乗ったのかはわからないが、それ自体はたぶん良いことなんだろう。
上手く言えないし別の理由があるのかもしれないが、なんとなくそう思った。
「イチノスケ」
「はい」
とはいえやっぱり慣れないものは慣れないんだけど。
「さっき言った防音の魔法だが、早速使うべきだろうか」
「えっと、今すぐの必要はない、けど……使えるの?じゃなくて、それって、疲れたり、しないの?」
「疲れは全くない。付与だから一日一度でいいし、剣の力で消費は小さくなっているから」
「そっ、か。なら、一応使っといてもらおうかな」
「了解した」
いや何もしないでいいって言ったくせにやらせんのかよと思って「やっぱり」と振り返ったときには。
――ディアナの右手の上に、青く光る毛糸玉のようなものが浮かんでいた。
「う、わ」
彼女は英語のような発音の全く聞き取れない言葉で何かを言ってから、右手を広げて床に付ける。すると糸玉は細切れの青白い糸になって部屋中に広がって、すっと床や壁、天井の中へ消えていった。
……そういえば、彼女の存在感以外でまともにファンタジーを目の当たりにしたのは、これが初めてだった。
もちろん驚いた。今目の前で起こったことが現実なのか、何度も自分の中で確かめた。
けれど目の前で起きてしまったからにはそれは現実で、割とすんなり俺の現実に収まった。
「すごい、ホントに魔法、使えてる」
やっぱり、彼女の存在感が既にあったからなんだろう。
俺としては、全部妄言だったとしても何か事情があるんだろうと考えていたつもりだったけど、いつの間にか俺は、ほとんどそれを事実として感じていたらしい。
「もしかして、魔法を見るのは、初めてなのか?」
「初めても何も……、この世界に魔法は存在しないんですよ」
ぱちぱちと、緑の瞳が大きなまばたきを二回する。
まあ、こうして実在を確認してしまったから、今までだって本当に存在していなかったのかわからなくなってきたけれど。
「そんなことが、あり得るのか……?」
……完全に、今の俺と同じ反応だった。
「ではどうやって生活を、あの、風呂を沸かしたり、この灯りだって、どうやってるんだ?」
「それは、ちょっと説明が難しいけど、うーん、そうだね。自然にあるものを思いっきり使いやすくしてるってところかな。風呂だとガスっていう、燃える空気みたいなので、照明は電気っていう、小さい雷の力で、って感じで」
「……すごいな、そんなことができるのか」
「いや、絶対魔法のほうがすごいけどね」
思わず笑いながらツッコんでしまう。
たしかに、その聖剣が特別なんだろうが、今のところ科学の粋を集めたって人は生き返れないし、排泄は止められないし、触るだけで床を防音素材にすることはできない。
「……ああ、そうかもしれない。魔法なら、手から火を出せるし、狙った場所に雷を落とすこともできる」
やっぱりすげえ。
「でも、使いやすいのは、やはりすごいと思う。魔法は、誰もが使えるものではなかったから」
すげえけど、そう言われると科学の方が使い勝手はいい気もする。
実際、火が出せたって雷が落とせたって、俺の生活だとタバコに火をつけるくらいでしか活かせないだろうし。
「ではどうしてイチノスケは、魔法というものを知っているんだ?」
と、自分の小ささを笑いそうになったところだったから、一瞬質問の意味がわからなかった。
なぜ魔法を知っているか。そりゃ知ってるだろ。なんで。存在しないのに?
……たしかに不思議なのか。けど、いきなりゲームだとかポッターの話をしたって伝わらないしな。
「えっと、無いからこそ、色んな人が想像して、そういうのが出てくるお話がたくさん作られたから、かな。俺だって今見るまで、魔法なんかお話の中のものって思ってたから」
ディアナは不思議そうな顔のまま「なるほど」と呟いた。
「ま、そういうお話とかも知りたかったら追々教えるよ。暇つぶしにもなると思うし。……でもその前に、生活に必要な色々、教えとかないとね。明日は、とりあえずそれからいこう。あと常識とかも色々、とりあえず最低限知っといた方が良いこと教えるから、聞いてくれる?」
「ああ、もちろんだ」
正直に言うと、俺もちょっと彼女から聞く別世界――異世界の話に、興味を惹かれていた。
最近はそれどころじゃなくなっていたが、俺も学生の頃はちょっとしたオタクだった。
さっき魔法を見て興奮したときにこの感覚を思い出したけど、そもそもそうじゃなければこんな不思議な子、拾ってなかったかもしれなかった。
「うん、よろしく。じゃ、今日はとりあえず、もうさっさと食べて寝よう。どうする? お腹すいてないんだったら無理しなくていいけど、その弁当、食べる?」
「……すまない、頂く。お腹は、すいているんだ」
「そりゃあよかった。いっぱい泣いたからかな。じゃあ温め直すから、ちょっとだけ待ってて」
「いや、そんなわざわざ」
「できれば温かいものの方がいいって。大丈夫。すぐできるから」
俺が弁当とマグカップを持って電子レンジまで行くのを、ディアナは終始不思議そうな目で見た。
一分半、四十秒が経って二度チンが鳴り響いたときには、いちいち肩を跳ねさせて驚いていた。
「おまちどおさま」
「ありがとう。……温かい。すごいな。これも、ガス、なのか?」
「いや、電気の方。これも便利だから、明日使い方教えるよ」
「あ、ああ。その、私にも使えるもの、だろうか?」
「大丈夫。ボタン押すだけだから」
「そう、なのか? だが、火は使うだろう? 正しく使わないと、危ないんじゃないのか?」
「大丈夫、火も使わない。……うん。ま、基本的には安全だから。こっちだと、子供でも使えるし」
「そうか。……すごいな。いつでも、誰でも安全に温かいものが食べられるなんて、聖剣より便利だ」
「それは、どうかな……。でもあれだよ。金属入れて動かすと、色々あって爆発するけど」
「ば、爆発? それは、本当に安全なのか……?」
あまりにも狙った通りの反応で、ダメだと思ったけどつい笑ってしまった。
「ごめん。気をつければ、ちゃんと安全だよ」と言ったものの、ディアナは少し困ったような顔で首を傾けている。
改めて、とても素直な子だと思った。
正直で真面目で、たぶんそれが強すぎて、ちょっと抜けている。
こんな子が世界なんてもの背負わされて、心を壊しかけている。このどこか素直すぎる態度だって、もしかすると。
……こんな素直すぎる、従順な子が、もし自分のことしか考えないような人間に見つかって、拾われていたら。
俺はどうなんだ。本当にそっち側じゃないのか。
少なくともなりたくないし、だから近づかない。
できるのか。明日から一人じゃないことを、少しでも喜んでしまっている俺なんかに。
でも俺は自分の欲に気づいた。
だったらあとはそれを自覚して、悪くならないように気をつけ続ければいいはずだった。
というか、俺が拾ってしまったからには、やるしか――できると信じるしかなかった。
「少し、不安だ。私は、あまり器用な方ではないから」
そう呟きながら弁当のハンバーグを口に運び、「おお……」と瞳を輝かせるディアナと目が合う。
俺はまた少し笑って、明日からのことをぼんやり思い浮かべながら言った。
「大丈夫だよ」
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