1-5.「behind the clouds」⑤
「疲れてたから、かな。なんか俺も、よくわかんなくなって」
俺の腹から顔を上げた彼女は、少し驚いたように濡れた目を見開いていた。
思わず言い訳、というか白状してしまったのは、俺が泣いているのが改めて本当に訳がわからないと思ったからだった。
いくら疲れてて、酔ってるからって、大の男が、理由もなく、こんな年下の女の子の前で、鼻までずるずる鳴らして……情けなさすぎる。
「て、えっ」
「……すまない」
だからなんとか格好をつけようと袖で顔を拭いていたのに、顎に伝っていた涙を彼女はタオルで拭ってくれた。
自分だって、まだ涙も鼻水も垂れているくせに。
もう笑って誤魔化すしかなかった。
「君はちょっと、どころじゃなくて、優しすぎるんだろうね」
「そんな、ことは……」
また俯きそうになった彼女に、あまり説得力はないだろうけど「そうだよ」と言っておく。
言った勢いで立ち上がって、俺はキッチンで何度か鼻をかんでから、冷たい水で顔を洗う。
一度空っぽになってさっぱりした頭を、さらにはっきりさせて考える。
……疲れてて、酔ってたとしても。
これ以降、彼女には触れない。
そうするべきだ。彼女のためにも。俺のためにも。
俺があの子を拾ったのは、庇護欲みたいな同情があったからだ。
でも知っている。俺はそんな優しい人間じゃない。さっき言ってしまった人恋しさも、性欲だって絶対にあった。
他にもあるのかもしれない。あの子を利用しようとする俺の欲望が。
そして大きな問題を解決する能力も、厄介事に向き合う気力もないことを、俺は知っている。
だから自分の中で決まりを作る。
俺は、必要以上にこの子に近づかない。
俺はただ、この子が最低限静かに過ごせるように、この子が望む期間だけ衣食住の世話をしてやるだけだ。
「……よし。じゃあまず確認。これから君は、しばらくここに滞在するってことでいいね?」
床に座ったままの彼女の前で、もう一度しゃがんで目線を合わせる。さっきより半歩離れた場所で。
彼女は少し目を泳がせた後、自信なさげに頷く。
「私を、貴方に預ける」
……さっそく気後れしそうになるが、知らないふりをする。
「承りました」
結局『預かる』ことには間違いない。絶対にまともなやり取りではないけれども。
「じゃあ次、ここに住むにあたってだけど、何個か注意点があります」
指を三本立てて、注意点と一緒に一つずつ折り曲げていく。
まずは、彼女が誰かに存在を知られてはいけないこと。
理由は俺の社会的地位と彼女の安全の確保。基本的に外出は禁止で、出て行くのは自由だがそのときは絶対に髪と装備を隠すこと。部屋から声が漏れるようなことも、できる限りあってはいけない。
そこで彼女が「あっ」と声を出した。
「どうした?」
「あ、あの、すまない。その、今思い出したんだが、私は音を捕らえる魔法が使える。それをこの部屋に付与すれば、声が漏れる心配はなくなる、が」
彼女がたどたどしく言ったことの意味を、俺は数秒かけて理解した。
何か凄まじいことを言っているのだと。
「そうか。勇者だったら魔法とか、やっぱり使えるんだ」
「ああ。私は、この剣の力で、見たことのある魔法であれば、全て扱うことができる」
凄まじいどころじゃないのかもしれない。
「見れば使えるって、完全にチートだね」
「……?」
黙ってしまったと思えば、彼女は「あれ?」といったように瞬きを繰り返していた。
なんとなく言葉が通じていないのはわかったし、たぶん「チート」が通じなかったんだろうとも、わかってしまった。
いやそもそも、この子が本当に別の世界から来たというのなら、どうして俺と普通に会話できるのか。
「もしかしてその剣って、翻訳機能まで付いてたりする?」
「おお、その通りだ。私は知らない言語を理解して、扱える。……だが、すまない。おそらく剣が知らないものは、理解できないらしい。こんなこと、初めてなんだが……」
「ああ、いいよ全然。でも便利だろうね、勉強無しで多言語使えたら」
「ああ、重宝した。私は、世界中を巡らなければならなかったから」
「……まあ、俺だったら持て余しちゃうけどね。そもそもあんまり人と話すの、得意じゃないから」
「そうなのか?」と小さく首を傾けた彼女に「残念ながら」と言ってから。
「脱線してたね。次、二つ目。ちゃんと人間らしい生活をすること。とりあえずは最低限、一日三回ご飯を食べることと、一日一回風呂に入ること、あと寝ること。君たぶん、昨日寝てないよね?」
そしてほとんど確実に、今日はまだ何も食べていない。
机の上には俺が平らげた弁当のトレーと、手が付けられていないハンバーグ弁当とスープのカップが残っている。
しかし彼女は、外に出るなと言われたときよりも、わかりやすく困ったような苦しいような顔をした。
「私は、大丈夫だ。寝なくても食べなくても、十日は生きられる。それにそのあとも、また元に戻るだけだ」
「元に、戻るって」
彼女が言った通りに考えてみた。十日生きて、そのあと。
……どこから、元に戻るのか。
「……。一応聞くけど、もしかしてそれ、一回死ぬってこと?」
すんなりと頷く。
確かめて、確認も取れてしまったけど、意味がわからなかった。
さらりと言ったくせに、なんでもないことといった様子でもなかった。
暗い顔で、少しだけ悲しそうに見える顔。
「――君、今までに何回か、死んでるの?」
尋ねながらわからなくなった。
こんな簡単に聞いていいことなのか。そもそもまず信じてしまっていいのだろうか。
彼女は何かが引っかかったような声で、「6回だ」と言った。
目の前にいる女の子は、もう6回死んだことがあると言った。
……それをどう捉えればいいのかが、俺にはもうわからなかったけど。
「君、死ぬの怖くないの?」
見開いた大きな目で俺を見た後、彼女は小さく「怖い」といった。
「じゃあなんでもいいから、とりあえずちゃんと生きてください。あと暖房もつけて風邪ひかないようにすること。わかった?」
彼女が頷いてくれたのを確認してから、音にならないようにゆっくり、大きく息を吐く。
よかった。良くはないけど、とりあえず俺が思った「死なせたくない」が彼女と同意見みたいで。
「あと一応、てかわざわざ言うけど、生活費とか、一切気にしないでいいからね。俺、金持ちではないけど、使わなくて余ってるからさ」
「……だが、普通より食べなくていいのは事実だ。私は、食べ物から効率よく栄養を取ることもできる。それに、お腹も空かないから、食事は三日に一度頂ければ、それで」
「いや、食べれるんなら、普通に一日三回食べよう。その効率が良いっていうのも、たぶん魔法なんだよね?」
「あ、ああ」
「じゃあそれ、別にここでは使わなくていいから。いや、使いたいなら使ってくれてもいいんだけど、たぶん魔法って、使うのに魔力とか体力とか、いる、よね? そっちのが効率いいとしても、ご飯食べれば済むんだったら、その方が気楽じゃない?」
また少し目を見開いた後、彼女は「そうかもしれない」と言った。
「たしかに、この魔法は便利だが、あまり気分のいいものじゃない。食べたのに、何も出なくなるから」
「……そりゃ、たしかに便利だけど、違和感すごそう」
「ああ」と答えながら、彼女は俺の足元あたりを見つめていた。
今更ながら「一応、トイレは風呂の横のドアね」と教えて、この話は終わりにする。ただの天然だったとしても、年頃の女の子がわざわざ話すことでもないだろう。
「まあ、ちゃんと食べてちゃんと寝るってのは、思ってるより大事らしいよ。馬鹿みたいだけど、人間も言っちゃえば動物だからね」
また「そうなのかもしれない」と言った後、彼女は剣と膝をきゅっと抱き直した。
「じゃ、最後三つ目だけど。……今まで言ったこと以外、見つからない・ちゃんと食べて寝て風呂に入る以外は、本当に君がしたいようにすること」
彼女が瞳だけで俺を見る。
染み付いたみたいに濃い隈のある目元。
上目遣いにも、睨んでいるようにも見えるその緑色の瞳は、やっぱりどこか怯えていた。
「だから、何もしたくなかったら、何もしなくていいよ。魔法も使わなくていいし、ずっと座ってても、寝転んでても。あと、何かしたいことがあったら、俺にできる範囲だったらどうにかするから、遠慮なく言って。……て、まあ、できないことの方が多いと思うけど」
「わかった」
思わず表情を確認してしまってのは、やけに素直だと思ったからだ。
でも俺は、彼女にどんな反応をして欲しかったんだろう。
「私にも、何かあれば遠慮なく言ってほしい」
……少なくとも、こういう反応を待っていたわけではないと思いたい。
「わかった。俺も何か思いついたら、お願いします」
「ああ。こちらこそ、不束者だが、よろしくお願いする」
どきりとした自分に舌打ちしそうになりながら、俺も「よろしく」と愛想笑いをする。
彼女は瞬きをしてから、視線だけ落とす。
「――私は、ディアナという」
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