1-4.「behind the clouds」④


 直前に想像していたのと全く同じ様子――今朝家を出たとき、昨晩電気を消したときと全く同じ姿勢で、彼女は部屋の隅の布団に座っていた。


 部屋は外と変わらない寒さだった。

 昨日の夜からつけていたエアコンには、そういえば半日で自動的にオフになる機能が付いていた。


 ……わざわざ聞かなくても、今朝から何も食べていないのは明らかだった。


 とにかくエアコンを最大でつける。

 やっぱり先に風呂で温まるべきだろう。明日こそは浴槽を洗うと決意してから、彼女の正面にしゃがみこむ。


「エアコン、切れたんだったらつけてくれて良かったのに。今日はまだマシだったけど、この辺寒い日はもっと酷いから」

「……問題ない」


 言った彼女はやっぱり目に力がなくて、暖色照明の下なのに顔は真っ白だった。


「私は、この剣がある限り、死なない。病にも罹らない」


 真っ白な顔で、彼女は自分の余命を告げるみたいにそう言った。

 たしかにそれが本当だったら最悪なことにはならないから、俺は思わず「そうなんだ」と返してしまったけど。


「だとしても、寒いのは寒いでしょ。面倒だったら体は洗わなくてもいいから、とりあえず風呂であったまってきて」


 現に彼女はどう見ても顔色が悪い。

 死ななくたって苦痛は避けたいものだし、避けるべきものだと、少なくとも俺には思えた。


 彼女は言われた通りに風呂場へ向かった。

 そういえばと慌ててタオルと着替えを取ってくる。


 シャワーの音が聞こえ出したのを確認してから、コップやスープ用のカップが全部流し台にあったので、いくつか洗って二つは水気を拭いておく。

 それからスマホで、軽くローカルニュースとSNSを調べてみた。しかし今日の昼休みのときと変わらず、特にそれらしいものは見つからなかった。


 ……そうした色々の間に、気付けば考えてしまっていた。

 もし彼女が本当に「死なない」のだとしたら、それは「最後の手段」も選べないという意味なんだな、とか。


 洗面所のドアの開く音がして、ドアまで行ってリビングに迎える。

 少し待っててと言ってから、俺も急いで風呂に入った。

 今日は同時に食べ始めようと思った。でないとまた彼女は少ししか食べない気がしたからだった。


 風呂から戻ると、彼女はまた布団の上で座っていた。こたつに入るよう言ってから、弁当を温めて湯を沸かした。


 こたつの上に、ハンバーグ弁当とコーンスープ、お茶の入ったコップを二つずつ並べる。俺の方には追加で発泡酒とハイボールの缶。


「どうぞ」


 まずは発泡酒から二口。スプーンでデミグラスとハンバーグをすくって一口、米を二口。付け合わせのポテトを一口と、また酒を二口。


 それでも、彼女はまだ食べ始めていなかったが。


「私には、何も返せない」


 俯いたまま、絞り出すような声で言った。


「別に、返してもらおうと思ってないよ」

「……貴方は私を知らない。私は、こんなにも、恵んでもらうわけにはいかない」

「そんなに、大層なものじゃないよ。五百五十円の弁当だし」

「違う。違うんだ。私は……、私に、こんな、ふうにしてくれることの意味を、貴方はきっと」

「昨日も言ったけど、俺は君が、その、勇者で、世界を見捨てたとか、正直どうでもいい」


 ゆっくりと顔が上がって緑の瞳が俺を見る。その少し怯えたような目が。


「てか、君がそんなボロボロにならないといけないんだったら、それって元々終わる世界だったんじゃないの?」

「ぇ。……そっ、そんなこ」

「いいじゃん別にそれでも。滅ぶなら滅ぶで。少なくとも俺は、世界なんか滅べばいいのにって、結構思ってるけど」


 目の前の怯えに、驚きが混ざる。

 たしかに勇者からしたら、こんなの全くの正反対な、敵側の意見なんだろう。


 でも俺は、自分がそんなにおかしいこと言ってるとも思えない。

 たしかに誰もわざわざ口には出さないけど、みんな、大人だって時々思ってるはずだ。

 全部なくなってくれれば。こんな現実なんか終わってくれよって。

 まあ、それでも終わらないのが平和な現代日本の素晴らしい現実なんだけど。


「て言っても、実際滅ぶってなったときに喜べるかは、ちょっとわからないけどね」


 驚いた顔のまま、彼女は掠れた「え」という音を洩らす。

 さすがに適当すぎたか。でも、やっぱりそうだと思う。


 俺も、誰だって、本気では言ってない。

 世界が滅べも死にたいも、元々は今が嫌なだけなんだろうから。


 ……だからって、こんな女の子がボロボロにならなきゃ救えない世界ってのが、おかしくないとも思えないけど。


「まあ、だから、結局俺は、君を励ましたりとかはできないけどさ」


 間に一口、安酒をあおって。


「とりあえず、居たいだけここに居ていいよ」


 酔いが回ってくる前に、一番最初に言おうとしていたことを言っておく。

 やっぱり俺はこの子を追い出そうとは思えない。

 その理由。そういえばこの子も今、何も返せないと言い出したんだった。


 俺はどうして、この子を拾ったのか。

 今日一日中考えていた。

 ハンバーグを一欠片取って、飲み込むまでにもう一度考えてみたけど。


「やっぱ、返すとか、別に考えなくていいよ。……正直言うと、俺も、その、人恋しかったってところもありそうだし。君は、そう――」


 ――言ってしまっていいものか。でも、思ってしまったんだし。


「そう。もう、どうせ一回逃げちゃったんだから、一旦しばらくは自分のことだけ考えるようにしたら、いいんじゃないかな」


 勢いで言ってしまってから、ぐいっと缶の残りを流し込む。

 だってこの子は昨日から、ひたすら逃げたことを悔やんでいる。

 それをわざわざ再確認させるのは酷いことなのかもしれないが、俺にはどうしてもその行為が、無意味で自傷的で、痛々しいことに見えた。

 実際この子が悔やんだところで何も変わらない。

 彼女が今どうしようと置いてきた世界は……もちろん、仮に全部本当だったらの話だけど、何にしたって遠く離れた場所には、何の影響もない。


 だったらいいじゃないか。ちょっと開き直って、自己中になることくらい。


「私は、逃げたんだ」


 カシュっと音を立てて、濃いめのハイボールを開ける。「うん」


「なのに、自分のことだけ考えるなんて、私にはできない」


 じゅるじゅると啜ってから、「そっか」と言う。


 ……少なくとも俺には、本気で言っているようにしか見えなかった。

 とても真面目な子が、自分の不甲斐なさに心の底から怒っているようにしか見えなかった。

 あまりにも固まっていて自然で、それが特別な雰囲気になっているから、たしかに勇者が実在するならこんな感じなんだろうとか、本気で思ってしまった。


 でも、じゃあなんで逃げなきゃならなかった。

 その特別なはずのこの子は、なんで今こんなことになっている。なんでこんなマンションの一室で、剣を抱きしめながら、苦しそうに唇を噛み締めている。


 ……知らない。知っているはずがない。

 何にしても、その得体の知れない雰囲気も苦しさも、俺なんかではどうにもしてやれない。


「じゃあまあ、誰のことでも何でもいいからさ、考え終わって、落ち着くまで、ここに居たらいいよ。泣いても、ぼーっとしててもいいから、とりあえず、動けるようになるまで」


 ふいに彼女は、噛み付くような目で俺を見た。

 俺の思惑とは真逆に、表情はますます苦しそうになっていた。


「どうしてなんだ。どうして貴方は、そこまで私に優しくする」


 そこで俺は、なぜか少し苛立った。

 どうして。どうして。そろそろ面倒くさかったのかもしれない。


「優しくするのが、気分良いからだよ」


 誰でも気が向いたら落とし物拾ったり、年寄り手伝ったりするだろ。クソみたいな自己満足の偽善だよ。


「寂しいからだよ。話し相手が、欲しかった」


 一人暮らしで、この辺には友達もいない。

 同じ職場に五年いても、誰とも仕事仲間以上にはなれていない。


「てか、帰ったら誰かいるって、いいだろうなって思って」


 実際、今日はちょっとだけ帰るのが楽しみだったりした。

 あとは。


「それと、君が可愛かったから。可愛い子が、困ってたら、優しくしてあげたいなって思うのは、男だったら、てか誰でもなんじゃない、かな」


 このあたりでようやく自分が酔っていることに気付いた。


 ……気付いたときにはもう言ってしまっていたから、あとは悔やんで目を逸らすことしかできない。

 泥酔したり寝落ちするほど酔っているわけでもないから、ひたすらバツが悪い。

 本当に。なんだ君が可愛かったからって。今だ。今終わってほしい。世界より先に、俺に。


「……貴方は、寂しい、のか?」


 そう聞かれたのにも苛立ってしまったのは、やっぱり酔っているからなんだろう。けど彼女の言う通りだったから、「そうだよ」と低く言う。


「私がいると、助かるのか? 不都合は、ないのか?」


 気がつくと彼女の表情から少しだけ力が抜けていて。


「不都合は、もちろん多少はあると思うけど、まあそんなに気にしないかな。てか、君の方に色々不自由が出てくるかもしれないけど」

「私は、別に、ただ……、あっ」


 力が抜けかけていた瞳がふいに小さくなって、手のひらが口元に覆い被さる。


「違う、ダメだ。私はっ、何を……。どうして、何を」

「君は」


 彼女は怯えたように肩を跳ねさせて俺を見た。


 出会ったときと同じ、あの発作のような状態に見えた。

 だから遮らないとと思ったら、声は思ったより大きくなった。

 何を言うかは、全く考えていなかった。


「君は、さ」


 見開かれた緑の瞳がじっと俺を見る。思えば俺は、この子の何かに怯えるような目しか見たことがない気がした。


「もう、勇者なんかじゃないと、俺は思うんだけど」


 ――その目だ。


 突然そう思った。

 理由。俺が現実的に彼女を追い出せない理由。

 緑の瞳の中で、怯えが、かつてないほど大きくなった。


 ……あれ、俺は、何を言った?


「あ、や、ちが」


 言っちゃいけなかった。これは絶対に。

 なのに、彼女を見ているとそれを痛感するばかりで、何も言葉が出てこなかった。


 彼女は見て明らかにわかるくらい、顔を歪ませ、怯え、怯え切って、絶望していった。


「そうだ。私は――」


 そのまま瞬きさえしないで、今にも止まってしまいそうな声で、


「逃げたんだ」


 彼女はそっと、言った。


 なんとなく予感がした。

 このまま何もなかったら、今から彼女は壊れてしまうのかもしれない。

 なぜだかはわからないが、きっとそうだと思った。

 だって彼女を見ているだけで、とてつもない焦りに襲われた。


 違うんだ。


「ゆ、勇者なんかじゃなくて、君は普通の女の子だって言いたかった」


 俺は君を傷つけたかったわけじゃない。


「もう、勇者じゃなくなったんだから、割り切って、一回普通の女の子に戻ればいいって、思って」


 ただあまりにも苦しそうで、悲しそうで、弱々しくて。


「普通の女の子だったら、もっと楽になれるんじゃないかな」


 その苦しそうなのが、きっと他人事に見れなくて。


「勇者じゃなくて、君はさ」


 だから、もし俺だったら。


「君は今、どうしたい?」


 ――楽になりたいって、思ったから。



「…………なにもしたくない」



 声に出かけた「え」をなんとか喉で押さえ込む。


「私は、ただの、農家の村娘だったんだ」


 彼女は相変わらず怯えた目をしていた。けれど、あの崩れ落ちてしまいそうな気配はなくなって、瞳はじっと固まっていた。


「村娘だった。勇者になったけど、もう勇者じゃない。でも、そんなこと言っていいのか? 私は、もう、勇者なんて名乗れないけど、本当に……?」

「……少なくとも、ここでは」


 俺に聞いているわけではないのかもしれないとは思った。

 でも仕方ないだろう。

 今この場で、彼女の問いかけに答えられる人間は、俺しかいなかったんだから。

 彼女が、答えた俺を見た。

 目が合ったまま、彼女は口を開いて「あ」と言った。



「あ」は、最初の泣き声だった。



 両手が彼女の顔を覆う。それでも押さえきれないくらいの嗚咽が、彼女の喉からあふれ始める。


 ……女の子を泣かせた。でも結果的にはよかった、はず。


 苦しいときには泣いた方がいい。泣いても事態は何も変わらないけど、そういう機能が付いている以上、きっと人間には必要なことなんだと思う。

 いや、それ以上に彼女はもっと危なかった。

 どこまで俺のせいと考えていいかわからないけど、まあ、とにかくよかった、はず。


 でもあまり泣き声が響いて隣室の爺さんにでも聞かれたら、俺も彼女もまずいことになる。

 そして彼女は俺が言ったのを覚えていて、溢れてくる声を必死に押さえつけている。涙と色々で濡れた手のひらで、たぶん俺が貸したスウェットも汚さないようにして。


「はい。これ、汚してもいいから。……ごめんね。声、出せなくて」


 俺がタオルを取って戻ってくると、彼女は受け取って顔に当てながら、何度も首を横に振った。


「俺、ちょっとタバコ買ってくるから」


 言い出したのは、誰だって泣いてるところを誰かに見られるのは嫌だろうと思ったからだ。

 タバコはもう一箱あったけど、近くのコンビニまで行って帰って来れば二十分くらいにはなるはずだった。

 と、スマホをどこに置いたかと考え始めたところで、彼女が何か言おうとしているのに気付いた。


「ん?」

「ぁ、ぅ、す、ずま、ないぃ」


 ――立ち上がりかけた俺の腹に、どっと彼女の頭がぶつかってきた。

 その勢いで、尻餅をついた。


「ぇ、ちょ!」

「う、ぅああぁ、うあああぁぁ、あああぁ……!」


 律儀に間にはタオルを挟んで、彼女は俺の胴に抱きついていた。

 押し離すことは、きっとできた。

 抱きついてきたと言っても、彼女の腕は背中にまで回っているだけで、ほとんど力は入っていなかった。


 ……だから本当は、離れるべきだったんだろう。

 そこまでしないとしても、何もせずにただ受け止めるべきだった。


 全部気付いたのは、右手が彼女の頭を撫でて、彼女が少し力を入れてくっついてきた後だった。


 まずいとは思ったけど、腕の中の彼女は温かくて柔らかくて、それにだんだんと、腹に響く彼女の泣き声の方がまずいと思うようになった。


 必死に歯を食いしばって、左手で口を押さえつけたけど、ダメだった。

 俺だって理由なんか全くわからなかった。

 けど身体中に響く泣き声を聞いていたら、今は泣いていいんだと思えてしまって、何かが喉の奥から溢れて止まらなくなった。



 ――そうしてしばらくの間二人で泣き続けていたが、先に泣き止んだのは彼女の方だった。

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