1-3.「behind the clouds」③


 不快だった。

 うるさい。ピーピー、頭に響く。


 うるさい。もう少し。もうちょっと。

 もう一回だけ…………


「……あ」


 がばりと引き寄せた時計は、六時五十五分じゃなくて、七時四十五分と表示してる。


 ……俺が止めたからだ。スヌーズのこれが五回目。


 普段家を出るのは七時五十五分。

 マジでヤバい時間だった。


「くっ、そ」


 飛び起きて洗面所へ。顔と口は洗う。髭も剃る。

 少し伸びすぎて女々しくも見える前髪はいつも通り真ん中で分けて、寝癖ごとワックスで押さえつける。

 スウェットをベッドへ放って、シャツとスラックス、カーディガンに着替えて、コートと鞄を持つ。

 ここまでで九分。

 定期とスマホを確認してから、栄養ドリンクだけ取りに台所へ――


「うおっ!」


 視界の端、リビングの隅に、人が――彼女が、布団の上で膝と剣を抱えて丸まっていた。


 虚な目は開いたままで、もしかすると昨日から寝ていないのかもしれないが、今はそれどころじゃなかった。


「ごめん、俺今から仕事に行くから、お腹空いたら、あそこの戸棚にあるパン食べて。あと、もし出て行くんだったら、玄関にある昨日のコートあげるから、それ着て行って。昨日も言ったけど君は目立つから、剣は絶対、髪と鎧は極力隠すように。……それくらいか。あ、あと暗くなったらここのスイッチ押したら、電気点くから。じゃあ、ごめん、そろそろ行ってくる」


 返事を確かめる余裕もなく、玄関を飛び出す。

 そういえば鍵の開け方教えてなかったなと思い出して、もう鍵は閉めないことにする。

 この辺りの治安は良いはずだった。どうせ盗られるものなんて何もない。


 何度も時計を確認しながら駅まで走ったが、電車はいつもの時間になっても来なかった。

 今日が土曜日だと気付いたのは、駅のホームで時刻表を見たときだった。


 五分遅れでも快速で、なんとか遅刻は回避できた。けれど栄養ドリンクを忘れていたことに気付いたのは、ちょうど改札を出たときだった。

 弊社の入っているビルのエントランスを抜けてエレベーターに乗ったときには、駅で昼飯を買い忘れていたことにも気が付いた。


 と、色々混ざった溜め息を吐きながら自分のデスクについて、今日の予定を確認してから、仕事に取り掛かり始めたときのことだった。




 ――昨夜の自分が道端に倒れていた奇妙な格好の女の子を家に連れ帰って、それが異常なことだと気付いたのは。




 今。職場の現実的な空気感や、具体的な作業内容なんかが目の前ではっきりしていく中で、昨日の夜の色々が突然膨らんで、凄まじい動悸になった。


 俺は昨日、成人してるかも怪しい女の子を、家に連れ込んだ。

 女の子は夕日のような長髪と翡翠みたいな瞳で、別世界の勇者を名乗っていた。

 それを信じようと思えるくらい特別な見た目で、役目から逃げてきたってずっと悔やんでて、嘘を言ってると思えないくらい苦しそうで。

 その子が今も、たぶん家にいて。


 ……それって、ヤバいよな?


 もし昨日のを、誰かに見られていたら?

 もし全部本当で、あの子が本当にとんでもない存在なんだとしたら?



 ――あれ俺、なんで昨日あんなことした?



 昨日の俺だって状況は理解していた。

 けれど事の重大さを、全くとらえられていなかった。


 なんでそうなった?

 とにかく疲れていて、考えることが本当に面倒だった。

 でもそれだけであんなことできるのか?

 可哀想だと、あの子を静かに泣かせてあげたいと、逆の立場だったらこうしてほしいと思ったのは、きっと本当だった。


 だからってそれを実行できるほど、俺はできた人間だったか。


 知ってる。

 俺は俺が大した人間じゃないことを知っている。

 謙遜なんかじゃない。何度も馬鹿みたいに期待して、思い知った後なんだ。俺に「実は」は無い。無いってわかってるのに期待できるほど、俺はもう子供じゃないし元気じゃなかった。


 やっぱりあの子が美人だったからか。実際あんなに綺麗な顔を俺は初めて見た。

 しかもあれは自分で目指しているキレイではなかった。

 本物の綺麗で、幼くて拙い、弱りきった可哀想な女の子。


 最低だとわかっていて、昨日はああ言ったけど、本当に今も“そうなること”を期待していないかと聞かれてしまえば、わからないとしか言えない。


 俺は一人だ。大学のときに二ヶ月、気の迷いみたいに付き合ってもらえたことがあっただけで、他は一切なかった。

 二十七で童貞だった。それをどうにかしようとできるほどの意欲もコミュ力も、やっぱり元気もなかったが、そこそこ頻繁に寂しいと思えてしまうくらいには平凡だった。


 もしまだあの子が家にいて、これからそれが続くとしたら、あの子は、俺は、どうなるんだろう。


 ……どこまで考えてもあの子を追い出そうと思えないのは、やっぱり“そういう”理由からなんだろうか。


 俺は、家に警察が押しかけて来るかもしれなくても、厄介事に巻き込まれるかもしれなくても、あの女の子と“そういう”関係になりたいのだろうか。

 それとも俺は他に何かを、彼女に期待しているんだろうか。



 …………なあ、俺ってもっと、現実が見えてたはずじゃなかったか。



 手を動かしながらずっと考えていた。けど何も答えは出ない。今さら、悪い考えばかりが浮かんでくる。


 昨日見ていた誰かが通報して、警察が家に入ってあの子を保護して、今にも電話を取った上司に名前を呼ばれたり、オフィスに警官が入ってきたりしないだろうか。

 そのあとの俺は、あの子は、一体どうなってしまうんだろう。

 でも考えたってわかるわけがない。それを自分に言い聞かせて不安を抑えつけるために、俺は考え続けていた。昨日の自分と、あの子について。


 当然、仕事の進みはかなり悪かった。そもそも仕事をしている場合なのか、早退するべきなのかとも考えたけど、今の動揺している状態でうまく嘘をつける気はしなかったし、なにより作業が立て込んでいた。


 結局会社を出るのは、昨日よりもさらに遅くなってしまった。



  ◯



 いつもの弁当屋で少し迷って、ハンバーグ弁当を二つ買った。

 店員のお姉さんに「二つ」と聞き返されたときに、なんだかすごくバカなことをしている気分になった。


 今夜の帰り道には、当たり前だが赤色も鎧もなかった。

 マンションの前に警察が待ち構えてるようなことも、ポストに大家さんや他の住人からの警告が入っているようなこともなかった。


 ドアの鍵は開いていた。けれど中は真っ暗だった。

 玄関に鎧が無かった。コートは朝のまま残っていた。


 ……出て行った? 何も隠さないで?


 今日一日あれだけ怯えていたのに、最初に考えたのは彼女が今どうしてるかだった。安心も落胆もあったけど、少し自分を見直しながら、とにかくニュースとSNSを確認しようと考えられた。

 あの外見で目立たないはずがない。剣を背負っていて警察が黙ってるはずがない。最悪ネットから世界中に知られて騒がれて、都市伝説みたいになっているかもしれない。

 ……もっと悪かったら、警察か何かの機関に捕まって、ひたすら問い質されているかもしれない。


 真っ白な、机と椅子しかない部屋で。

『別世界』なんていう世界がひっくり返りかねない情報を取り出すために、世界がひっくり返らないように存在も隠蔽されて。

 彼女は一人きりで、剣と膝を抱えて座っている。


「うおっ!」


 リビングの電気をつけると、その彼女がいた。

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