1-2.「behind the clouds」②



 招いたはいいが、そういえば家は散らかっていた。

 玄関や廊下は何もないけど、生活エリアのリビングには洗濯物とコンビニの空き容器と他の色々がほったらかしのはず。


 ちょっと玄関で待っててと言おうとしたところで、彼女は脱いだコートを「ごめんなさい」と渡してきた。

 そういえばこの子は鎧を着ていて、しかもそれが土や何かで汚れている。


「いいよ、大丈夫。ごめん、鎧はここで脱いでてくれる? 俺ちょっと部屋片付けてくるから」


 当たり前に頷いてくれたので、俺は大急ぎでリビングを片付ける。

 ゴミは一旦全部ゴミ袋へ、洗濯物はソファからかき集めて俺の部屋へ。


 戻ると彼女はとてもシンプルな格好になっていた。

 ブラウスと細身のズボン。小さなフリルが付いていたり、金の刺繍があったりと上等そうな服だったが、微妙にどこか見慣れない形で、全体的に使い古した雰囲気があった。鎧は玄関の隅に重ねてあって、剣は胸に抱きしめていた。

 質素な格好になった彼女にはそぐわない、真っ白の柄と鞘を持つ、いかにも異質で重そうな剣だった。


 そして初冬の玄関で待たせるには、頼りない格好だった。

 すぐに風呂に入れてやるべきだと思った。湯を張ってやりたかったが、湯船はしばらく洗っていなかった。


「まず風呂に入って、身体温めよう。靴脱いであがってくれる? 風呂、こっちね」


 彼女が移動する間に、部屋から急いで洗濯済みのタオルとスウェットを取ってくる。他に何かいるか、下着か。ちょうど新品のボクサーがあった。上は、厚めの肌着でいいか。


 洗面所の入り口で、彼女はおとなしく待っていた。


「一応、こっちをひねったら、ここからお湯が出るから。で、こっちが髪洗う用の石鹸で、こっちが身体、これが顔用。体綺麗にできて温まったらこれで拭いて、この服着ていいよ。脱いだ服は、ここに入れといてくれれば洗っておくから。で、もし何かあったらノックしてくれたら来るけど、基本俺はこのドアは開けません。あとここ回したら、内側から鍵かけれるから。てことで、大丈夫、かな?」


 思わず早口で説明してしまったが、彼女はやっぱり黙って頷いた。本当にわかっているのか。

「じゃあ」とドアを閉めてもなかなかロックがかからなくて不安になったが、少しするとシャワーの音は聞こえ始めた。


 その間に飯の準備だ。エアコンとコタツを点けてから弁当を電子レンジに入れ、ケトルで湯を沸かしながら、台所のゴミも簡単に片付ける。

 ついでにいくつかコップだけ洗っていると、いつの間にかスウェット姿の彼女が廊下とのドアの外にいた。

 驚いていないふりをして「入っていいよ」と言うまで、リビングにも入ってこなかった。

 多少血色は良くなったようだが、目の虚さは何も変わっていない。

 灰色のスウェットとあまりに合わない夕日のような色の長い髪は、まだかなり湿っていた。

 そして胸にはやはり剣が抱かれていた。


「ドライヤーあったらよかったんだけど」


 服が濡れないよう肩にかけた方がいいと新しいタオルを渡すと、ゆっくりな動作ではあったが言われたとおりにした。

 こたつに座ることを勧めると、彼女は剣を抱きかかえながら座った。

 よく見ると剣も洗ったようだった。剣を床に置いていいし足は布団の中に入れていいよと言うと、彼女は自分のすぐ隣に剣を下ろして、三角に折った自分の膝に布団を乗せた。


 それから俺は温めた唐揚げ弁当とインスタントのコーンスープを彼女の前に置いた。


「食べていいよ。俺の分もあるから、遠慮せずに」


 そこで初めて、彼女は首を横に振った。

「お腹空いてない?」と聞くと、こくりと頷く。


「だとしても、食べれるだけ食べた方がいい。ちゃんとしたものじゃなくて申し訳ないけど」


 今度はじっと俯いたままだったが、もう一度「食べれるだけでいいから」と念を押したあと、俺も風呂に入ることにした。

 風呂場には誰かが使った後の温かさが残っていた。しばらく替えていない排水口のネットには石鹸カスや黒い毛と、赤色の長い毛と砂粒が絡まっていた。


 戻ってきてみると、唐揚げ一個と米は少しだけ、コーンスープは全部なくなっていた。

 しかし俺が風呂へ行く前と、彼女は少しも変わっていないように見えた。


「もういいの?」と尋ねると、彼女は小さく頷いた。「もったいないから残り食べていい?」にも、同じ反応だった。

 少し考えてから、結局食べることにした。昼を食べてなかったから、追加でシーフードのカップ麺、あと発泡酒も。


 カップ麺ができるまでの間、唐揚げをつまみに缶を傾ける。食べ慣れた濃い味と安酒。

 ふと向かいに座る彼女を見ると、やっぱり俯いたままだった。


「唐揚げ、もしかして口に合わなかった?」


 ふるふると首を振る。それが本心だとしたら、少食なのはただの体質か、やはり精神的なものか。


「あったかいスープとかまだ用意できるけど、飲む?」


 また首を振るけど、そこでちょうどカップ麺が出来上がってくれた。


「これ食べてみる? ちょっと変わった味かもだけど、不味くはないと思うよ」


 ふたを剥がし終わったとき、彼女は深く俯いていた。ダメなら仕方ないかと思ったけど、何かが小さく聞こえた気がした。


 聞こえた何かは、声の予兆の息音だった。


「――私は、生娘だ。だからきっと、あまり楽しめないだろう、から」


 初めてまともに彼女の声を聞いた。

 印象よりも大人びた、しかし弱々しく頼りない声。そして聞き慣れない口調。


 ……遅れて、言われた意味を理解した。

 理解して最初に感じたのは、言われなければ遠からず“そういうこと”になっていたという直感だった。

 だって俺は彼女が『綺麗な』『女の子』であることを、確実に重要なこととして考えていた。


 おかげで気付くことができた。

 自分が知らないふりをしていたことと、どこか当然のように期待していたそれが、どれだけ間違っているのかを。

 ……こんな弱りきった、「やめてほしい」ではなく「役に立てない」と言い出すような女の子を。


「別に、楽しむために連れてきたんじゃない。“そういうこと”は、しなくていい」

「ではどうして、私を助ける」


 しかしこう言えば、そう返ってくるに決まっていた。

 答えはたった今出ていたのかもしれない。けれど否定した以上、何か他に必要だった。


「君が、困ってるように見えたから」


 少し口元が緩む。


「あと、逆の立場だったら、こうして欲しいなって思ったから、かな」


 全部思いつきだった。けれど嘘をついたつもりはない。なんなら結構本音に近いような気もする。


「俺には、君がすごく苦しそうに見えて、苦しいなら、一回どこかでちゃんと休みたいんじゃないのかなと、思った」


 反応はどっちとも取れない。また彼女は緑の瞳で俺のことをじっと見る。


「とりあえずは、ちゃんと食べた方がいいかな。ちゃんとしたもんじゃないけど、あったかいよ」


 彼女の目の前にカップ麺を置くと、目がカップ麺と俺を一往復してから、彼女は箸に手を伸ばした。

 しかし箸を逆手に握り始めたから、俺はフォークを取りに行こうと立ち上がる。

 それでも彼女は滑る麺を無理矢理持ち上げ、ぐいと口の中に押し込む。

 俺がフォークをキッチンから持ってくるまで、ずっと手は動いていた。


「やっぱり腹へって――」


 渡したフォークを彼女が見たとき。その目からは大きな涙が溢れていた。目が合っている間にも、ぼろぼろと。

 彼女自身、俺が驚いているのを見て初めて気付いたようだった。


「あ」


 箸を持つ手の甲が、目元を乱暴に押さえる。


「何でもない。これは、すごくおいしい」

「そっか。……いいよ、別に。よっぽどでかい声じゃなければ、いくら泣いても」


 さすがに泣き叫ばれていたら困ったけど。

 彼女はフォークを動かしながら、制御ミスで溢れてしまったものをどうにか押さえつけるように、何度か目元を拭っただけだった。

 俺は唐揚げ弁当を食べ終わって、2缶目を空けようとして、そこで明日のことを思い出した。


 時計を見るともう一時半を回っていた。

 いつの間にか彼女の手が止まっていた。

「嫌じゃなかったら、残り食べるよ」と言うと、四分の一ほど残ったカップが「すまない」と渡された。


「――私は勇者だった。聖剣に選ばれて、世界を救う役目があった」


 冷めかけた麺を啜りながら目を向けると、彼女はまたどこも見ていなかった。


「なのに逃げたんだ。こんなところまで。……何も誰も追いかけて来ない、別の世界まで」


 声は震えることもなく、どこまでも平坦だった。


「私が逃げたせいで、あの世界は滅ぶんだ」


 今すすりきった麺で最後だった。汁を少しだけ飲んでから、油と魚介の匂いを炭酸で流し落とす。


 無意識に思い出していたのは子供の頃の感覚だった。

 ゲームの中で巨大な敵と戦う同い年くらいの勇者に、そういえば俺は憧れながら劣等感も持っていた。俺だったら戦えない、どうして逃げないんだろう、とか。


「俺は今の、自分のことで精一杯だから、ちょっと別の世界のことまでは心配できない」


 視界の端で彼女が顔を上げたのが見えた。

 自分でも薄情だとも、もしかすると不謹慎かもとも思ったが、それが本当に正直なところだった。

 決して、付き合ってられないと思ったわけじゃない。

 くだらないと切り捨てられるほど俺は堅くも賢くもなかったし、なにより彼女の外見と様子はあまりにも異質で、今の話とぴったりすぎるくらい噛み合っていた。


 でも結局は思っていた。

 付き合ってられないというよりは、知ったことか、と。


「から、とりあえず俺は責めたりしない。一旦落ち着くまで、ここにいたらいいよ」


 だって、気付いたらもう午前二時が迫っている。

 別世界の危機より、明日の睡眠不足の方が俺には問題だった。


 こたつの上のゴミを袋に詰め、クローゼットから来客用の簡単な布団を出してリビングの隅に敷く。少し心許なかったので、毛布も一枚出してくる。


「とりあえず今日はもう寝よう。この布団使って。エアコンはつけとこうか。一応、あれ、部屋を暖めてる機械なんだけど、暑かったらこれの、ここのボタン押したら温度が下がって、それでも暑かったらここ押したら止まる。で、また寒くなったらここ押したら動き出して、こっち押したら温度上がるから」


 設定は、寝るんだから十九度くらいで。


「まあ、最悪何かあったら、そこ左側の部屋に俺いるから、起こしてくれたらいいよ」


 こたつを消し、他に消し忘れがないか確認してから、最後電気を消す前に目を合わせると、彼女は布団の上から何かを待つみたいにじっと俺を見た。


 ……きっと考えなければいけないことがもっとあるんだろう。

 喉の奥に浮き上がるような違和感がある。


 けれど、部屋の隅から俺を見上げてくる女の子はあまりにも現実味がなかった。

 そして俺はとにかく眠たくて、もうあまり頭が回っていなかった。


 せめて何か言ってやるべきかとは思ったが、やっぱり何も思いつかなかった。


 結局「おやすみ」とだけ言って、電気を消す。


 自室のベッドに直行する。

 布団に潜り込むと、何かをする間もなく、意識は溶けて落ちていく。

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