1-1.「behind the clouds」①
駅前の弁当屋を出て帰り道を歩き始めたのは、日付が変わる少し前だった。
いつも通りの残業と、下り電車の人身事故のせいだった。
明日も七時起きだというのに。
帰ってシャワーを浴びて弁当を食べたら、もう五時間しか眠れないというのに。
……でも、明日さえ乗り切れば。
来週は月曜も休みだから昼まで眠れる。
寝溜めしたら洗濯と、そろそろ掃除もしなければ。ゴミも今週は出せなかった。
せっかくの休みも、色々片付けて終わることになりそうだ。
月と街灯だけの暗い住宅街。自分の靴の音だけが響いている。溜め息をつきながら、今日が金曜日だと思い出す。
……そういえば、どうして今日だったんだろう。
そもそも意思があったのかはわからないけど。
俺みたいに明日も仕事だったのかな。それか曜日なんて関係ない何かがあったんだろうか。
……ああ、もしかすると、休みの前から休みが終わることを考えたのかもしれない。
休みなんてすぐに終わると思っておかないと、いつの間にか出社七時間前になっている。
眠ってしまったら出社しなければいけない状態になっている。
常に備えるようにしておかなければならない。
あとから苦しんだり怖くなったりしないように。
俺はそうしてやり過ごしている、つもりだけれども。
……でもやっぱり、俺にはこの当たり前を手放そうとは思えない。
最寄駅を過ぎようとする特急の前に飛び出したり、朝いつもと反対側のホームから海の方へ行く電車に乗れば、もう出社しなくて済むのは分かっているけれど。
手放そうとは思えない。
そこで「どうして」と考えてしまうと、自然と思考は「何のために生きているんだろう」に流れる。
鼻から息が漏れた。
そのまま大きく吸って大きく吐く。もう十一月に入ったが、まだ息は白くならない。
さすがに、こんなありきたりな疑問で不安になっているわけにはいかない。
考えても仕方がない。考えてはいけない。答えなんか出ないんだから。
……時計を見るともう日付は変わっていた。
あたりは暗くて、それなりには寒かった。
目蓋は重いし、腹も減っていた。
早く帰って寝よう。
足を速めて、少し明日のことを考える。
今日の感じだと明日も絶対に長引く。
今日見つかったエラーはなんとか直しきったが、今日の範囲であれだけ出て、明日出ないはずもない。
冷たい風が吹く。軽く身を縮めながら角を曲がる。
明日も、
――その前に。
一つ先の街灯の下。
アスファルトの上に、赤色が広がっていた。
夕焼けみたいな淡い赤色。美しい色。
それが『人の髪』らしいとわかって。
――全てが、遠くなった。明日も、夜も、住宅街も。
しかし、頭が理解し始める。
夜中の道路の真ん中で、人がうつ伏せに倒れている。
派手な色のとても長い髪が、ぼんやりと異質さを放ちながら広がっている。
自分が緊張し始めていることに気づく。きっと、睡眠時間について考えたからだ。
なんで倒れてる? 寝てる、酔っ払いとかか。救急車が必要なアレなのか。でも赤い。大学生か、パンクか、コスプレイヤーとかなのか。ここからでは女か男かもわからない。
なんにしたってあんな頭の色の倒れてる奴、まず普通じゃない。
だから関われば時間が取られる。
迂回にも時間はかかるが、それなら5分程度で済む。
周りを見回してみる。
通行人どころか明かりがついてる家すらない。
どうすればいいのかわからずに呆然としていると、俺は少しだけ『それ』に近づいていた。
……混乱する。
関わりたくない。見殺したくない。
どちらにも傾いていないのに、俺は『あれ』に近づいて確認しようとしている。
軽いパニックみたいになっている。
だって人が倒れていて、俺がどうするかに全てがかかっている。
落ち着こうと、意識的に息を深くしながら、音を立てないよう『あれ』に歩み寄っている。
赤い髪。手前側に頭があって、くくっているのか二つに分かれて流れている。
白いロングコート、ではなくマント、から、力なく伸びている右手には光沢が――金属のような。
……どうみても、それは鎧だった。
西洋風の鎧だ。街灯の黄色が、銀色に鈍く反射されていた。
「あっ」
赤髪の下には、剣が見えた。
それで動揺したんだろう。
「うぉっ」
盛大に蹴つまずいて、間抜けな声と、革靴がアスファルトを蹴飛ばした音が、静まり返った路地に鳴り響いた。
――まずいと思ったときには、鎧の音が聞こえていた。
赤い髪も少し動いて、見ているうちにゆっくりと身体が起きていった。
若い女の子だった。
緑色の目をした、とても綺麗な子だった。
……だから彼女が背中の剣に手をやっても、俺は一歩も動けなかった。
「あ」
そのまま気づいたら斬られていた、なんてことはなかった。
彼女は小さく声を洩らすと、辺りをきょろきょろと見回し始めた。
それがだんだん慌てていくように見えた。
静かな住宅街の風景を確かめるたびに赤色の頭は大きく動くようになって、最後に俺を見たときは、唇も目元も歪めた、とても苦しそうな表情をしていた。彼女は俺ではなく、俺の服を見ていたらしかった。
「あ。う、うあ、あ。ああ、あ、あぁ……っ!」
それからは俯いて、両手を地べたについたきり動かなくなって、かわりに喉の奥を引っ掻くような、本当に悲しく苦しそうな声を、微かに出し始めた。
でも涙が落ちたりはしていない。
体が苦しいわけではないとわかったのは、その呻きがだんだんと掠れた「ごめんなさい」に変わっていったからだった。
……正直、自分が今なにに巻き込まれているのかはさっぱりだったが。
「ごめんなさい、ごめんなさい…………あ、ごめん、なさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい」
彼女は、何かを懺悔している。
泣くこともせずに、ただひたすら自分を責めている。
それだけは確実だと思えた。
――それだけが分かるくらいに、とにかく彼女は苦しそうだった。
「君」
俺の声に、彼女は微かに肩を揺らした。
でもそれ以上の反応は見られなかったから、俺はゆっくりと彼女に近づいた。
すぐ側に来たとき、彼女は俺にまで「ごめんなさい」と頭を下げた。
膝をついて目の高さを合わせると、ようやく彼女は顔を前へ向けた。
やっぱり涙は流れていない。
綺麗な顔は歪んでいて、見開かれた瞳は暗い中の宝石みたいに無機質だった。
「――うち、来る?」
髪が揺れる。
顔が上がり、緑の瞳が街灯の光を受けて、俺を見る。黙ったまま。
「その、君の、その格好は普通じゃないから、このままだとそのうち誰かに見つかって、人が多いところに連れて行かれると思う。……たぶん、今の君には、それがキツいんじゃないかな、と、思って」
混乱は続いていた。
俺自身も、自分が何をしているのかわからなかった。
そうしようとも、したいとも、するべきだとも思えていない。
選ぶ前に、進んでいる。
ただ少なくとも、このまま彼女を置いていった後のことを、俺はあまり想像したくなかった。
彼女はなかなか反応を見せなかった。感情が読めない顔をじっと向けられていると少し不安になった。
自分の行動が間違っていることは理解しているはずなのに。
しかし何の前触れもなく、彼女は首から力を抜くみたいに頷いた。
「じゃあ、俺のコート着て、ついてきてくれる? 俺の家、すぐそこだから」
俺がコートを脱いで渡すと、彼女は黙ってそれを羽織った。
赤い髪と整った顔、金属板がついた脛や靴は隠しきれないが、とりあえずフードは被ってもらった。
家までの間、彼女は一度も声を出さなかった。「ごめんなさい」と繰り返されるよりは良かったが、鎧も着けているはずなのにほとんど音がしないので、何度かついてきているか確認しなければいけなかった。
彼女は後ろで、ずっと俺の足元あたりを見ていた。
誰かとすれ違ったときの言い訳は一応考えながら歩いていたが、思いつく前に家へ着いた。
鍵を開けて促すと、男物のコートを着て虚な目をした女の子が、俺の部屋に入っていった。
とても現実味がない光景だった。
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