3-8.「心は多分正直」⑧


 それから一週間は驚くほど静かに過ぎていった。

 帰れば家にディアナがいる。

 生活で変わったところは、それだけだった。


 俺が帰ってから交代で風呂に入って、二人で弁当か冷凍食品を食べる。

 やっぱり平日は何かを作る元気も時間もないし、なんだったら皿を洗う気も起こらない。

 火曜の夜だけ寝る前に炊飯器をセットしたが、翌日食べ終わった後の釜は土曜までほったらかしていた。冬じゃなかったら危ないところだった。


 夕食の後は、ぼーっとしばらくテレビを観る。

 テレビの内容について話すこともあるし、全く関係のない話をすることもある。

 天文系の番組で国際宇宙ステーションから見た地球が映ったときには、案の定というか、地動説の衝撃をディアナに与えることになった。

 そこからの話の流れだったと思うが、彼女が空を飛ぶ魔法を使えることを聞いて、その場でふわふわと浮き上がるところまで見せてもらったこともあった。

 なんでも「落ちないようにできる」らしく、そこに風を操る魔法を混ぜることで、それなりの速度でも飛ぶことができるのだとか。

 さすがに羨ましいとは思ったが、ディアナ曰く「本来は走るのと同じくらいには疲れるもの」らしかった。

 あとは日本の神社や八百万の神様の文化についてだったり。

 ピアノはほとんど同じものが向こうにもあって、ディアナも少し弾けるが、実家の近くに住んでいるアデリナさんの方がもっと上手だとか。

 俺はブロッコリーが苦手で、ディアナはなんでも食べるが、極端に辛いものは痛いから苦手だとか。

 他にも色々話していたはずだが、すぐには思い出せない。


 ぼーっとし終わったら、入浴前に回しておいた洗濯物を窓際に干す。

 ……仕方ないことではあるし、極力触れる時間は短くして、バスタオルだとかで見えにくいようにはしているつもりだが、碧音にあれだけ購入時に配慮してもらったのに申し訳ない。


 夜はだいたいこんな感じ。

 朝になると買い溜めている菓子パンを一つずつ、二人でコーヒーと食べて、俺は家を出る。


 昼の間、ディアナはずっとテレビを見ているらしい。

 しかし言いつけ通り昼食は自分で冷凍モノをチンして食べてくれていて、カップ麺の作り方を教えてからは交互に食べるようになった。

 今のところ、気に入っているのはシーフードのカップ麺らしい。


 そういえば、あれからディアナは少しだけ眠れるようになった。

 まだまだ布団で横にはならず、吐かない夜の方が少ないらしいが、夜中に目覚める回数は少し減って、悪夢に起こされてからは一睡もできない、ということはほとんどなくなったらしい。

 相変わらず目元に深い隈を付けながら「これは、いいことなのだろうか」と聞かれたけど、俺は「いいことだと思うよ」としか答えられなかった。



「ホントにそれだけ?」


 約束通り次の土曜に訪ねてきた碧音をそのまま大家さんに説明して、ついでに駅前でハンバーガーを買って帰って、それを三人で食べながら簡単にこの一週間の話を碧音に聞かせて、彼女の口から最初に出てきたのがそれだった。


「うん。特に、問題とかは起きてない、かな」


 しかし今回は、別に俺のことを疑っているわけではなさそうだった。

 もっとも、疑われたって今回は言えないことがあるわけでもない。

 一番不安な部分はさっき謝った。もちろんディアナがそれを身に付けているところは一度も見ていないし、先週土曜の夜中以降、彼女には一切触れていない。


「そういうもんなんだ」

「まあ、そうなったね」


 少なくとも、俺の場合は。


「わかんない。そうなるのが普通……?」


 と聞かれても俺にもわからない。調べようもないし。


 ……そりゃあ、俺だって考えなかったわけじゃない。

 だって異世界から逃げてきた勇者を拾ったんだ。

 向こうの世界から何かや誰かが追いかけてきて騒動になったり、こっちの世界に隠れていたファンタジーが現れ始めたり、シンプルに監禁の疑いでいよいよ警察が押しかけてきたり……まあ何が起こってもおかしくないと、それなりにずっと怯えつつ気構えてはいた。


 けれど、今のところディアナが原因で何かが起こる様子はない。

 ディアナが何かを起こすこともない。

 それで俺からも何もしていないのだから、何かが起こるはずはなかった。


「ふーん」と伸びをしながら言った碧音も、色々考えていないわけがなかった。


 ……だったら今の彼女は期待が外れて落ち込んでいるのだろうか。

 現実のファンタジーなんて、こんなものかと。


 別にその気持ちがわからないわけではない。

 けど、やっぱり俺は違った。だって残念よりも、遥かに安心の方が強かった。

 理由はわかりきっていた。

 俺は本気で、そういう期待をできていなかったんだ。自覚はあったけど、これで完全に実感してしまった。


 ……何かとんでもなく大きな出来事の当事者になりたいだとか、運命を乗り越えて何かを手に入れてやろうだとか。


 俺にはそういう、大きな役が欲しいという気持ちは、もうすっかりなくなってしまったようだった。

 そんな元気がない、というのも大きな理由の一つだとは思うが、やっぱりこの『自分にはできない』という面倒臭さのような諦めが、一番の原因のような気がした。

 おっさん臭い感覚なのは自覚している。

 やっぱり疲れと、早くも時々感じる加齢のせいなのかもしれないけど、もっと根本的な何かが、もう俺には無いんだろうなとも思えてしまった。


 もちろんだからといって、代わりに大切な従妹が危険に巻き込まれるような展開は、絶対に望んでやれないけど。


「とりあえずよかった。ディアナさんも元気そうだし。上手くいってるじゃん」


 けれど碧音も、何かをディアナから引き出そうとすることはなかった。

 ……いや、このあと浮遊の魔法と抜き身の聖剣を見せてもらって、一時間ほど魔法について問い詰めたりはする。

 けれど自分の利益や便利のために魔法を使わせようとしたり、向こうの世界での冒険について尋ねたりするようなことはなかった。

 色々と万が一の危険があるということと、ディアナにとって繊細な部分の話だということは、碧音も感じ取ってくれたらしかった。


 とか言っているが、碧音の方が俺よりも正しく危機感を持っているのかもしれない。


 生活の中にディアナが馴染んでいくにつれ、悪い想像はより現実味を、具体性を持つようになり、俺はこの頃、自分に実感が足りていないことを思い知り続けている。

 なにより、ディアナはこの世界にとっても向こうの世界にとってもすさまじく重い存在だった。

 なにせ世界を救う役割と、そのための強大な力を持たされてしまっていた。

 そんな存在が、本当にいつでも触れてしまえる距離で、不安定になっている。

 押したら倒れてしまうなんてものじゃなくて、俺の行動、言葉一つが、彼女ごとどちらの世界も傾けてしまうかも……違う、傾けられるんだ。


 ディアナは、自分からは何もしない。

 しかし、だからこそ。

 俺が言えばおとなしく「わかった」と従うディアナを見ていると、時々震えが体を通り過ぎていく。


 それは明らかに「どうとでもできてしまえる」という感覚だった。


 そうだ。やっぱり俺には、大きすぎる。

 だから俺は、ただ静かに休めるように、この場所を提供するだけだ。


「まあ、この平穏もいつまで続くかわかんないけどね」

「変なフラグ立てようとしない」


 縁起の悪いことを言う碧音を軽く睨むと、想像と違って彼女は笑っていなかった。

 その真剣な顔に嫌な予感がするが、俺の薄ら笑いが消えたのを見計らったように碧音は「大丈夫。私は何もしないから」と笑った。


「私は」の部分には、やはり碧音の期待がこもってるんだろうと思った。

 自分は何もしない。でも本当に何も起こらないのかな?、と。


 ふと思った。

 だったら、もしディアナの方から何かを持ちかけてくるようなことがあったときには。


 ……そんなこと、まだまだ考えられないけれど。


「ディアナ、鼻にケチャップついてるよ」

「ティッシュどうぞ」

「む。ありがとう」


 ディアナは俺と碧音の会話より、初めて食べるハンバーガーに気を取られていた。

 一番どこにでもあるチェーン店の、一番人気のありふれたバーガーだったが、夢中になってしまうくらいには気に入ったらしかった。

 ついでにポテトもナゲットもコーラも口にあったらしく、「全部不思議な味だが、すごくおいしい」とのことだった。

 コーラはともかく、バーガーなんかは向こうにあってもおかしくない気はしたが、確かに何がどう美味しいのかは、俺たちにもわからなかった。


 まあ、とりあえずはこうして、ディアナには日本での健康で文化的な最低限度の生活を営んでもらう。

 その中で彼女が何を考えてどうなるのかは、彼女次第だ。

 ……もし彼女が俺に頼るようなことがあれば。


 俺も自分の負担にならない範囲で、無責任に協力しよう。


 どうせ俺にできることなんてたいして無いだろうし、案外あっさり回復して旅立ってしまうのかもしれないが。

 少なくとも俺は彼女がまともになることを、多少は本気で望んで、彼女を拾ったはずなのだから。

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