2-4.「泣いたり笑ったりしてもいいよ」④


 下だけジーパンに履き替えて、上はスウェットのままコートを羽織る。

 スマホ、財布、タバコ、ライターをポケットに、ディアナには「ちょっと買い物してくるから、コタツでゆっくりテレビでも見てて」と言って、玄関を出てきた。


 外は白色に曇っていた。

 風が思ったより冷たくて、さっそくマフラーを忘れたことに気づいた。


 早足で歩きながら、買うものを順番に頭の中で確認していく。

 和食。鮭と豆腐と味噌とにんじんと玉ねぎ。出汁は粉のやつでいいか。米も、久々に炊こう。やっぱり出汁もちゃんと取ろう。鰹節。と、ほうれん草。あと食パンと卵と、冷食とインスタント系も買い足しとこう。

 そしてビールと、せっかくだし日本酒も。


 地域スーパーの軒下の隅には、スタンド灰皿が置いてあるだけの喫煙所があった。

 吸いながら、これから家ではどうしようと考えていた。

 一日1、2本吸えればいいから、出社する日は別にいい。

 けれど今日みたいな日は。今まではベランダで吸っていた。幸いなことに角部屋だったし、ご近所さんも喫煙者らしかった。


「いっそやめるか」


 と声に出してはみたものの、すぐにできるわけないと思った。

 そうだ。別にいつも通りベランダで吸えばいいんだよな。

 そこまで気にしてやる義理なんか、俺にはないんだから。


 ……が、タバコをねじ消して、スーパーに入って少ししてから、俺はもっと大きな問題があることに気がついた。


 そのスーパーは、薬局的な売り場が併設されているタイプだった。

 ああそういえばトイレットペーパー買わなきゃと気がついて、次にトイレ用の消臭スプレーを思い出した。

 店内を回りながら目につく必要なもの。歯ブラシ、シャンプー、リンス、ボディタオル、生理用品。


 そういやあの子、まだ男物の下着履いてるんだった。

 他にも色々足りないものがあった。

 でも、俺には買えないものも多かった。当然そういうものを買った経験はなかったし、どれがあの子に合うのかなんてわかるわけがなかった。

 たぶん今のあの子なら聞けば素直に答えてくれるだろうが、そういうわけにもいかなかった。

 いっそネットで色々買って、合うやつを使ってもらえばいいのか。


 ――ていうか俺って、そこまでしてやるべきなんだろうか。


 あの子がいつまで家にいるのかも、わからないっていうのに。

 そう考えると、なんだか自分が浮かれているような気がしてきた。

 実際俺はあの子がいることに浮かれていた。誰かと一緒に暮らすということに、俺は自分で思っていた以上に憧れていたらしかった。

 今度は思い切り溜め息をついて、この場は安い歯ブラシと消臭スプレー、あとトイレットペーパーと風呂用洗剤だけ買っておくことにした。



  *



「あ、おかえり、なさい」


 帰ると、ディアナは言っておいた通りコタツでテレビを見ていた。

「ただいま」と言いながら、また一つ自分が憧れていたことに気づかされてしまった。


 テレビではグルメ番組が流れていて、最近よく見るお笑い芸人の二人組が、一つ千円する高級たい焼きを食べて大騒ぎしていた。


「どう? テレビ、見てて意味わかる?」

「あ、ああ。やはり、言葉がわからないことはあるが、今は、おいしいものを紹介しようとしている、ということはわかる」

「面白い?」

「……どう、だろう。でも、この世界を知れることは、良いことだと思う」

「そっか。あ、気になったこととかあったら、遠慮なく聞いてくれていいからね」


「わかった。ありがとう」と言ったのを聞きながら、買い物袋の中身を冷蔵庫へ移し始める。


「そういや、朝ご飯と昼ご飯、ちゃんと消化できた?」

「ああ、そのようだ。ちょうど、ついさっきトイレを借りた」


「それはよかった」と返して、袋から消臭スプレーを取り出す。


「これ、臭いを消せる煙みたいなのを出せるやつ。ここ押したら使えるから、よかったら使って」


 するとディアナは少しの間スプレーを見つめてから、視線を落として「すまない」と言った。


「私は、臭いを消す魔法が使えるから、必要ないと思う」


 おお、やっぱり魔法。とことん便利だ。


「完全に消せるんだったら、絶対そっちの方がいいだろうね」

「そう、か。その、もしよかったら、トイレを臭いがしない空間にできるが、どうだろう?」

「おお、じゃあ、お願いしようかな。もちろん、負担がないんだったらだけど」

「大丈夫だ。では、魔法をかけてくる」


 廊下へ出ていったディアナの背中を見ながら。

 今すごくおかしな会話をしてしまったような気がした。


 それから俺は、洗濯が終わった俺とディアナの服を窓際に干して、数ヶ月ぶりに浴槽を掃除した。

 全部が終わって風呂が沸く頃には、もう外は暗くなっていた。


 さあ、ここから夕飯の準備を始めなければ。


「ディアナ、先にお風呂入ってくれる?」


 素直に「わかった」と立ち上がった彼女に、湯船の説明をする。

 どうやら彼女自身に習慣はないが、湯に浸かるいう風習は知っていたらしい。

 ただ「どのくらい浸かればいいんだ?」と聞かれて、俺はとっさに「体がぽかぽかしてくるまでかな」と答えてしまった。

 でもわかってくれたので良しとした。


 その間に、米を炊飯器にセットして味噌汁を作る。

 炊飯器の上のホコリを掃除するところからだったので、ディアナが肌を赤くしながら廊下から戻ってきたときには、まだ鍋に味噌が入っていなかった。


「どうだった風呂は。気持ちよかった?」

「ああ。温かくて、気持ちよかった」


 実際ディアナの顔色は今までで一番良かったし、少し声まで柔らかくなったような気がした。

 味噌汁を完成させて、ほうれん草を茹でて冷ましてカットして、あとは鮭を焼くだけにしてから、俺も風呂に入ることにした。


 身体を洗いながら、よく考えてみればあの子が浸かった後のお湯じゃないかとも思ったが、もうよく考えないことにした。

 久々に浸かったお湯は、やっぱり疲れが溶けていくみたいで最高だった。


 けれど家の湯船に浸かるとどうしても、もっと自由に足が伸ばせる大きな風呂に浸かりたい、温泉に行きたいと思ってしまう。

 ディアナも、連れて行ったら喜んでくれるだろうか。そもそもあの子は本当に風呂を喜んでくれただろうか。でもあの子を一人で女湯に行かせるわけにも、そもそもあんな目立つ子を連れ出すわけにもいかないから、結局現実的じゃないな。


 色々考えていたら、本当にゆっくり入ってしまった。


 急いで体を拭いて戻ると、ディアナはいつもの膝を抱えた綺麗な姿勢で、テレビの中のカピバラ親子を見つめていた。


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