第4話

 母は携帯を手にして警察への電話をかけようとしていた。午前中に遊びに出かけると言った時、少しおかしいと思ったのだが、実際に引き止めることはしなかった。

 昼を回り、おやつの時間を回り、日が沈んでも警察に電話をしなかったのは、事情聴取の際に、自分の生活が他人にバレてしまうのではないか、という心配があったから。自分の行動を顧みて母は深い後悔と、情けなさを感じた。


 電話をとった手は震えている。長い葛藤の末に自分の悲劇を語る覚悟はできていたが、電話をすることで彼が戻ってこないことが確定したらどうしようか、と別の不安が襲ってきた。

 事故にあってないか、犯罪に巻き込まれていないか、友達の家でご馳走になっているのではないか。頭を駆け巡る可能性に辟易して、彼女は壁にかけたカレンダーを見つめた。

 確かに明日はあるのだと、紙に書かれた数字を見て安心した。ガチャッと音がして玄関が開き、リビングの白いカーテンが膨らんだ。

 母は風のように、立ち上がって玄関に走った。

 靴箱の前で息子が佇んでいた。

 母は気が動転して、かけるべき言葉が見つからないまま、玄関の灯りをつけた。息子の目は赤く腫れていて、シャツは鼻水と汗と涙で丸めたティッシュのようになっていた。


 「どうしたの?どこにいってたの?」


 膝を折りたたんで息子の目の高さに合わせた。息子は俯いている。母はとにかく無事に息子が戻ってきてくれたことに安堵して、「よかったぁ、よかったぁ」と子供のように感情を漏らしながら、息子を抱いた。


 無臭の服の下から、蒸れた母の匂いが少年の体を包んだ。

 言葉を発しようとしても、母の肩が口を塞いで言葉が出ない。少年は服の裾をギュッとつかんで、ポッケから小銭とどんぐりの人形を取り出し、母から体を引き離すと「ごめんなさい」と言って母に返した。

 母はそれらを受け取ると、目に焼き付けるように見つめてから床に置いて少年に目を合わせた。母の目は潤んでいた。

 言うべき言葉を先に言われた母は「ごめんね、ごめんね」と言いながらまた息子を抱いた。息子の手が母を求めることはなかったが、寄りかかる母を拒むこともなかった。


 父親が出ていった今、アパートの住人の興味は急速に冷えていった。人々は自分の生活に意識を戻して、壁に聞き耳を立てることも無くなった。幾本かの線はやはり交わることはなかった。

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205号室 丸膝玲吾 @najuna

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