第3話
少女は、少年を吸い取るように大きな目を見開いてじっと見つめた。窪地に溜まった透明な水を濾過して凝縮したような瞳に、少年は見入っていた。
声を発せば、身一つ動かせば、彼女はどこかへいってしまうかもしれない、と思い少年は眠るように、ただ呼吸をしていた。濃厚な土の匂いが正面の少女の背後から、彼女の匂いを織り交ぜながら漂う。文明社会からかけ離れた、自然そのものの匂いがした。
陸に上がった小魚のようにピクピク動く少年の鼻を見て、少女はニコッと微笑んだ。熱風が正面から吹きつけ、全身の血を濯ぎ、手足が硬直する。足元から湯気が上り、鼻筋を通って空へ霧散していく。反応がない少年を見て、少女は不思議そうに首を傾げた。
「て、寺西卓」
少年は何か言わなければ、と喉の奥から言葉を搾り取った。少女は慌てる少年がおかしいのかふふっと笑って手を差し出した。少年は素直に少女の手に自分の手を乗せた。雲を型取って麻の布で包んだような、柔らかく湿っぽい手だった。
少女は少年の手を引っ張って山の方に連れて行く。少年は訳がわからなかったが、強引に引っ張っていく彼女に頼もしさと快感を覚え、そのまま従った。
少年の背の何倍もある木々が二人を出迎える。茂る葉の間から陽光が漏れ出て足元に光の海を作る。風が木の葉を揺らし、光の海はそれに呼応して来客に喜ぶように湧き立つ。少女は喝采を浴びた舞台女優のように晴々とした笑顔で、少年の手を離し、森の奥に駆け出していった。
少年は足の速さに自信があったが、少女のそれは比べものにならなかった。空を駆ける隼のように、葉の海を泳いでいく。少年が待って!と叫ぶも少女は振り返ることなく茶色の景色に紛れていった。
少年は傾斜に体を寝そべらせて、休息を取った。
発酵した枯葉の匂いが鼻の奥を刺激する。目元から生える杉が空を突いてできた日々から葉っぱがのぞいた。少女に置いて行かれた怒りも当然感じたが、少年は愉快だった。家では為すすべなく、親の犠牲になっていた自分が、四駅も離れた知らない山奥で一人寝そべっている。
今、自分を取り巻く環境は全て自分によるものだった。思いのほか簡単に絶対的な存在であった親の手から逃れることができたから、なんで自分はあんなにも矮小な問題でクヨクヨしていたのだと可笑しくなった。
フフフ、と息が漏れ出ると決壊したダムのように笑いが止まらなくなった。腹を抱え、肩を揺すり、皮膚を膨張させて転げ回った。土や枯葉の屑がシャツにつく。転がるたびに無機質な箱から遠ざかり、自然に回帰していった。
無垢の表情を浮かべた可愛らしい顔がのぞいた。少年は勢いをつけて飛び上がり、少女と向かい合った。
少女は少年を待たせたことを謝るそぶりはなく、後ろで組んでいた手を前に回すと、スカートの裾を掴んで右往左往した。
少年はため息をついて彼女の思考を読み取り「いいよ、遊ぼう」と言うと、彼女の表情はパッと明るくなり、木々の間を駆け回った。
少年は少女の後を必死に追った。少女はまるで飛んでいるかのように縦横無尽に木々の間を駆け巡り、少年ような不恰好な足跡を残すことはなかった。
小枝の上で鳴く鳥も、彼女のために歌っているかのように見えた。未知のエネルギーで駆け回る少女に、次第に少年は母性を抱き始めた。
コンクリートに反射した光にやられた、掠れた眼差しはその全てを収めるには不十分だった。翻るスカートも、剥がれかかる木の皮も、踏まれ土の養分となる枯葉も、漏れ出る太陽の光も、全てを完全に見ることはできなかった。
唯一、レンズを通したようにくっきりと見えた少女の表情は、彼が守るべき最後の旗だった。決して追ってはいけない、信念の旗だった。それから二人は山中を駆け回った。
太陽が山の頂上に触れた。彼女はルンルンとスキップしながら先を行った。すでに少女は少年にとって欠かす事のできない柱の一つとなっていた。
二人は北西に進んで、平地に流れる川の上流部分の谷に着いた。勢いよく斜面を駆け降りる水の飛沫が頬に跳ねた。少女は踊り場のような、斜面の切れ目の流れがゆったりとした水の溜まり場の淵に立ち、顔を近づけて水面を舐めた。
花弁のような小さく丸みの持った舌が、ちろっと水面を触る。少年はいたく興奮し、首を九十度ひねって目線を逸らした。後ろめたさが胸の奥に巣くった。
濡れた口元を拭かないままに少女は顔を上げて少年の肩を叩き、滝の上部を指差した。少年は糸をはかし兼ねて困惑した表情を見せると、少女はムッとして上流に向かって歩き始めた。
少年は遥か上から大きな音を立てて落下する水の塊を目の前にして、怖気ついた。日はだんだんと沈み始め、土と木漏れ日の色が同化し始めた。彼を歓迎していた森全体が、今度は彼を追い返そうとしているように見えた。
少女はその場から離れようとしない少年の姿に痺れを切らして、腕を強く握って無理やり連れて行こうとした。
少女の気迫は獣じみていて、檻がないことに恐怖した。少年はありったけの力を込めて少女の手を振り払うと、川沿いを走って山を下っていった。
地面に散らばる角張った石や尖った小枝は、少年の足裏を易々と貫いた。少年は嗚咽を漏らしながら、走った。自然は彼に牙を向いた。
脱ぎ捨てた靴と靴下置いてある窪んだ石に腰を下ろし、溢れる涙を拭った。足を川に浸して血を洗う。荒れ果てた足裏に水が溜まる。
少年は足を自ら引き上げてシャツで水を拭き取ると、湿ったまま靴下と靴を履いて山を背にして歩き出した。背中から鋭い針のような高音がした。振り返ると少女がこちらに向かって猛スピードで走ってきていた。
少年はもう逃げる気力を失っていた。こけた頬とやつれた眼差しで少女をじっと見つめた。少女は息も切らさず少年の前に立ち、両手をお椀の形にして少年の前に差し抱した。
みると少女の手の上に一匹の灰色のずんぐりとしたネズミが、首を細かく振りながら少女の手の平を探っていた。
山に隠れる太陽が二人の姿を隠して行く。互いに表情は見えずらくなっていた。
少年は彼女の薄青色のシルエットを見る。少年はネズミにそっと手を伸ばすと、鷲掴みにしてぎゅうぎゅうと力を込めて握っていった。
ネズミはキュウキュウとか細く泣いた。少女は咄嗟に少年の手を振り払った。
少女はモヤのような光の中で少年を睨みつけた。怒りをあらわにして、少年を非難した。少年は手に残る小さな命の脈動を噛み締めていた。ネズミは何も理解していなかった。
少年は踵を返し、駅に向かって歩いた。すっかり冷え込んで、少年はクシュンとくしゃみをした。下流から副風が少年の長い髪を逆立てた。鬱陶しそうに前髪をあげ、視界を確保する。
川から離れ、住宅街が近づくに連れて、少し気になって、家のこと、父母のことを思い出し、足取りが重くなった。家のことを考えるほどに、天秤が傾くように少女の存在が大きくなり、少年は振り返った。少女の立っていた場所には鹿がいた。
鹿はじっと少年を見つめていた。逃げ出すことなく、近寄ることもなく、じっと見つめていた。
呆気に取られた少年を鹿は特に反応を示すことなく、川を伝って暗い山の中へ消えていった。
手が、足が震えた。振動は体の全体に伝わり、目からは水滴がこぼれ落ちた。悲鳴とも歓喜ともとれない嗚咽を漏らして、少年は走り出した。
彼女は自分とは違う世界に生きていた。住処を追われてたどり着いた少年は、自然を住処としていた彼女を仲間だと思っていた。
裏切られた。
少年はなるべく記憶を頭から消そうと、首を振った。
少年はたった今、全てから切り離された。
地につける足も、空を飛ぶ翼も、海を泳ぐヒレも持っていない少年は、ただ泣き喚きながら走った。
駅に着いた時、少年は家に帰るお金がないことに気がついた。
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