第2話

 父親が出ていった翌日、少年は起きてリビングに向かい、何事もなかったかのようにおはようと言って、朝ごはんの支度をする母親を確認すると、すぐに洗面台に向かった。

 少年は疲れていた。親がなぜあのような行動をとったのかわからなかったし、どうせ喧嘩するぐらいなら結婚しなければよかったじゃないか、とさえ思った。昨夜、朝起きると母もいなくなってしまっているのではないか、と悩み、肋が折れると思われるほど、軋むベッドの中で苦しんだ。

 もし少年に悩みを打ち明けることのできる人物がいれば、導き出された答えはもっと柔らかく、丸みのあるものになっただろうが、少年は街灯が差し込む部屋の中で、一人で考えた。

 苦しみから逃れる方法を模索すればするほど、全ての道の果てにあったのは二人の出会いを否定することだった。少年はご飯と味噌汁を体に流し込み、皿を台所に下げ、歯を磨くと、「友達と遊んでくる」と言って家を飛び出した。

 母は「お昼ご飯は?」と玄関のドアを開ける少年に向けて言ったが、少年は返事もせずに飛び出してしまった。


 昨日の今日で、息子が普段とは違う行動をとったから、母はもう息子は私たちに愛想を尽かしてしまったのかも知れない、と息子の唾液のついた箸をスポンジで擦りながら悲しくなった。

 そして、二人で暮らしていくことを決心していたのにも関わらず、私”たち”、と父親の存在を肯定してしまったことに、更に悲しくなった。自分と父親を繋ぎ止めているのはなんなのか、父親と息子がいなくなった箱の中で、母は砂の中から金を見つけるように、心の内を探った。


 


 少年が家から持ち出したものは二つ、棚の上に置いてあった三百円と、電話台の横に置いてあった、以前図工の授業の時に作ったドングリの人形だった。少年はとにかく遠くに行きたかった。彼にとって遠くへ行くとは、電車に乗るといことであったから、少年は三百円を持ち出して一目散に駅に向かっていった。


 土曜の午前に道を駆ける子供の姿はさほど珍しくなかったから、少年は外にうまく溶け込むことができたが、電車は別だった。

 誰に話しかけられた、ということもなかったが、周りを見渡せば、自分と同じくらいの歳の子は全員が隣に家族がいて、彼らは少年を不思議そうな目で見ていた。少年は袋の中を探るような好奇の目に不快感を感じたが、同時に自分は一人で電車に乗っているのだと、自負心が芽生えて勝ち誇った気になった。

 ポッケの中から切符を取り出し、時刻表と路線図を悩ましげに見た。少年の大人像は、どこか悩ましげなアンニュイな表情をするものだったから、眉をへの字型に曲げ、顎を触り、時々ほぉ、と息を漏らした。

 大人は背伸びをする少年を微笑ましく見て通り過ぎたが、子供は自分たちと同じ見た目の少年が、分相応な振る舞いをしていることに違和感と不気味さを感じて、慌てて目を背けた。少年は二度目の優越感に浸った。


 少年が買った切符で行けるのは、家から4駅離れた場所だった。少年はこれからどうするか計画を立てていなかったが、お昼は戻らないだろうと、パンを買える分だけのお金を残しておいた。

 最初は当たり前のように三百円の全てを電車賃に使い切ろうと思っていたが、お金を投入口に入れる時、昼ごはんを買わなければ、と咄嗟に思いつき、半分はとっておいたのだ。

 フカフカのシートに尻を落ち着かせて、太陽の光を反射して金色に弾ける住宅街を眺めながら、少年はその英断を誰かに伝えたくなった。思わず口角が上がり、これみよがしにポッケから切符と百四十円の小銭を手に取って、繁々と眺めた。

 周りの大人は少年の奇行を、大人らしく無視していた。少年はつまらなくなって、口を尖らせながらポッケに再びしまって、足をフラフラ前後に揺らして、両手を体の横についた。


 ソーダ瓶を開けたような、空気の抜ける音がしてドアが開いた。少年は電車からひらりとホームに降り立って、軽く伸びをする。走る電車にかき混ぜられた空気の匂いを堪能して、すぐに改札に向かい、切符を入れて外に出る。

 少し喉が渇いたからコンビニに寄ってメロン味の甘い炭酸を買った。シュワシュワと弾ける砂糖が口の中を刺激した。コンビニを出て、バスターミナルにある地図を見てどこへ行こうか、と白い道をなぞった。

 この街は東西に走る線路によって南北に分かれていて、駅の南、バスターミナル側には住宅街と、本屋、スーパーなどが点在している。反対に北には山とそこから流れる川があった。

 少年は自宅周辺と同じ景色の南側は、遠くへ行く感じがしなかったから、自然と北側を選んだ。日は天井を目指し、暑さは増していた。


 少年は線路をまたぐ橋を通って、北にある山を目指すことにした。

 駅から山までは遠く、背の低い家々の上に緑色の稜線がのぞいて見えた。道路も車が一台通るか通らないか不安になるほど狭く、上を見上げると雑に引かれた電線が青い空を引っ掻いていた。

 少年は一人で見知らぬ土地を歩いていることを自覚し、夏だと言うのに腹の奥が冷え込んで空洞が開いたように感じた。空いた腹を通り抜ける風は、濡れた手で服の中を弄られるかのように不快で、少年の足を早めた。

 途中途中、通りかける人は、なぜ小さな子供がここを足早に通り抜けていくのかわからなかったが、その逼迫した表情から、他ならぬ重大な事情を察知して、角に消える少年の背中を視線で支えるかのように見送った。


 昼をまわって、午後になると視界が開けて、河原に出た。

 川の向こうには山の裾が広がっていて、木々の間を通った風は濃厚な匂いを運んだ。足元には爪から人の頭までの、様々な大きさの石が並べられ、くすんだ灰色が川に近づくにつれて水に濡れて色が濃くなる。

 このところ雨が降ってなかったからか、水深は少年の脛の真ん中までで、広い幅は川の流れを緩やかにした。緑の群れから逸れた青色の幼虫は、時間をかけて南へと進み、海にたどり着く。

 少年は境遇を共にした親友を目の前にして、一休みすることにした。


 川のすぐそばの、赤血球のように真ん中が窪んだ石に腰をかける。尻の曲線が窪みに見事に嵌まり、血の流れが眼前に横たわる川と一体になって、地球の表面を巡る。

 跳ねた水が細く色白い脛に当たる。勢いよくぶつかった水に痛みなど感じなかった。寧ろ愛のこもった指先で触れられたかのような心地よさを感じた。

 少年は目の前に悠然と流れる水を見て、ごくりと粘っこく乾いた唾を飲んだ。一滴でこの快感を味わえるのなら、川に身を閉じればどれほど気持ちがいいのだろうか。少年はよろよろと立ち上がり、靴と靴下を足元に脱いで、そっと足を透明な川に踏み入れた。


 少年はしばらく思考をやめた。


 流れる水は広げた足指の間に入り込み、芯から揉んでほぐしていく。駅から川に着くまで歩いた足はだいぶ固まっていた。揺れる足元に合わせて体はリズムを刻む。流れの中に規則性を見出した少年は、前後に体を大きく揺さぶった。


 サートントンナッ。サッサッサ。 


 水に揉まれた足で立つことは困難になり、少年は川底に尻餅をついた。今度は足だけだなく、全身でリズムを感じた。


 サートントンナッ。サッサッサッ。


 サートントンナッ。サッサッサッ。


 サートントンナッ。サッサッサッ。


 サートントンナッ。サッサッサッザッザッザダザダザザザカッザザザザダザザザ。


 急にリズムが変わり濁音が混じる。自然が作り出す神秘的なメロディーに、誰かが傲慢で感情的な解釈で五線譜を書き直してしまったようだ。


 少年はハッとして川上を見ると、遠くに白い影が川の真ん中に立っているのが見えた。調和を乱した犯人は風鈴のようにゆらゆら揺れながらこちらに近づいてくる。少年は姿を確認しようとして目を細める。

 栗をすりつぶして塗りたくったかのような、艶やかな茶髪は肩にかかり、髪と対照的に真っ白なワンピースを着た少年と同じぐらいの歳の、裸足の少女が淡々と川の流れに乗りながら歩いている。近づくほどに川のリズムは戻っていく。


 サートントンナッ。サッサッサザザサッサ。


 山の方から歩いてきた少女は、川に尻をつけた少年の姿を認めると、餅のようなほっぺを上に寄せ、少年に微笑みかけた。


 ザッザッザッザッザザザザザザサガギュンブジジジジジジジジジ。


 少女の足が手の届くところまで来た時、少女は川のリズムと同化した。一方で少年の心臓は震え出し、彼を中心に波紋が形成される。彼の周りで波がぶつかり合い、互いに凌ぎを削ったが、海へと続く大きな流れには勝てずに、怒りと一緒に流されていった。少年は頬を赤ぁく染めた。

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