205号室

丸膝玲吾

第1話

 仕切りをいくつか置いただけの無機質な白い箱の中で、黄色い歓声が銃弾のように飛び交った。

 声は秩序も理性も持っていなかったが、唯一、蜂のように毒を含んだ針を尻にくっつけていた。互いに盾は持っていない。全ての攻撃を、ところどころが青く爛れた薄い皮一枚で受け止め、全ての神経を相手の攻撃に集中させた。

 何年も続くその抗争の果てに、ある時一人が、一方の真っ白で傷のない、青緑色の血管が肘から手の甲にかけて浮き出る皮膚を見て思った。彼に言葉で傷をつけることはできないのだろう、と。

 彼女は言葉で罵ることをやめ、代わりに近くに置いてあった、確かに存在する物理的なものを投げつけた。彼女が投げつけたのは、滑然としたリビングの机の上に置いてあった新聞とチラシの束だった。羽ばたく鳥のように翼を広げて宙に舞った紙は、彼に当たりはしたものの、当然皮膚に赤い線を描くことなく、青印をつけることもなく、重力に従って落ちていった。

 彼女は本能的に、自分は一方的な被害者でなくてはならない、と知っていた。だから同じ机に置いてあったリモコンを手に取ることはしなかった。だから彼女には理性が残っていた、と言うことができた。

 しかし、彼女は物を投げつけてしまった。言葉ではなく、物理的に干渉しようとしてしまった。それが彼女の、唯一の落ち度だった。数年間破ることのなかった不文律を、彼女は一時の怒りで放棄してしまった。

 物を投げつけられた彼は、瞬間、自然に帰ったかのように雄叫びをあげて彼女を冷たい床に押し倒し、何度も揺すぶった。首がその役割を忘れたかのように頭は揺れ、肩を掴まれ何度も床に打ちつけられた。切り損ねた黒い髪を、格好の餌食として握り、引き摺り回し、腹を蹴った。

 彼女は体を丸め込んで、細く背骨が浮き出た背中を向けた。背中を向けることは降伏の印ではなく、蹴られることを前提として、せめて固い背骨を蹴ることで、彼の足の甲を傷つけれはしないか、という彼に反旗を翻した、渾身の一撃だった。

 彼は床にうずくまる、かつて他人だった女性を見て呼吸を繰り返すうちに、彼の息遣いは次第に落ち着き、一度大きく息を吐いて、体から空気を搾り取ると、まるで別人になったかのように足音を立てずにリビングを出た。

 床を伝う冷めてゆく熱を体で感じながら、彼女は背中を丸めながら涙を流した。

 彼女を覆い尽くしたのは圧倒的な敗北感と屈辱感だった。

 残虐な犯罪者であった彼が、うずくまる自分の姿を見て足を止めた。自らを顧みて、卑弱な女を一方的に蹴る強者である自分を恐れたのだ。

 丸い体を円にして床を這う自分の姿は大層哀れで、か弱く、惨めに映ったことだろう。彼女のささやかな抵抗の一撃を食らわせられることなく、彼は無傷で部屋を後にした。見下され、嬲られ、尊厳を破壊され、同情された挙句、一撃も食らわせることなく彼を理性の檻に逃してしまったことが、彼女の心を折ってしまった。

 涙の池に溺れながら、彼女は朝を待った。


 この一部始終を見聞きしていたものは、彼と彼女の他に、二種類に分けられる。

 一つは分厚い壁と堅牢な鍵に守られ、恐怖と好奇心で聞き入っていた者たち。彼らは数年前から、この二人の男女の関係を見守っていた。最初は騒音問題として迷惑そうに耳を押さえていた。

 しかし叫び声と地鳴りが何度も続くうちに、言い合いが始まった途端にそっと存在を消して壁に寄りかかり聞き耳を立てるようになった。最初は純粋な親心から二人の将来を心配がって見守っていたけれど、彼らはいつしか気づいてしまった。彼ら二人の動向は自分の人生と全く関係がないのだと。

 おおよそ交わることのない線に、彼らは檻の中にいるような、画面を一つ隔てているような、二人の男女が別次元に住んでいるような錯覚を覚えて、憂いや同情は消え、無視していた好奇心を隠さずに、人に見せることも憚られるような表情で男女のいく末を味わった。

 アパートには、口に出さずとも妙な連帯感が生まれ、二人の関係を壊すことなく、かといって修復させることもなく、楕円は放置された。


 そしてもう一人、好奇心など持たず、ある種当事者のような形でこの一部始終を体験していたものがいた。

 それは今、彼女が横たわっているいビングから数歩歩いた先の風呂の中で、細く小さな足を抱えながらお湯に浸っている。

 三十六度のぬるま湯は彼の発達途上の体を温めるには不十分で、血の巡りも変わらなかったから入る理由もなかったが、彼は母からお湯には毎日浸かりなさい、という言いつけを守るために入っていた。

 母は他にも息子に対して外に行くには帽子をかぶること、起きたらおはようをいうこと、靴のかかとは踏まないこと、などいくつもの言いつけを伝えていたが、彼は律儀にその全てを守っていた。

 彼は母に怒られるのが怖かったし、何より、その全てを守ることで母が自分から離れることを防げると思っていた。角ばったコンクリートをそのまま顔に貼りつけたかのような怖い担任の先生も、彼のいうことを守っていれば怒ることはなかったし、宿題を遅れることなくずっと出していたら寧ろ褒めてくれた。大人はいうことを聞く子供が好きだ、ということは彼にとって、夏になるとアイスを食べたくなるほどに真実だった。

 二人の喧嘩が始まったのは、彼が風呂に入って体についた石鹸を流している最中のことだった。人を排除した工場の中で駆動する機械の音に、皿が割れるような鋭いソプラノが被さる。廊下の壁を反射して、風呂の中で増幅された叫びは裸の彼を襲った。

 彼は急に心細くなって、泡を落とし切らず湯船に浸かった。水の衣を着ても不安は拭いきれず、壁を伝う振動が数年分の記憶と共に彼の深部に流れ込み、後悔の汗が流れ出た。父と母は息子の前で喧嘩を始めることはなかった。

 二人とも意識はしていなかったが、指輪もお揃いのペンダントもしていなかった二人にとって、息子は二人の愛し合った証明であり、その息子の前で喧嘩をするということは彼の存在を否定する気がして、怒りが頭を掠めたときはそっと息子の顔を見て落ち着かせた。

 息子も言葉で表せるほど成熟していなかったが、地中に染みる雨水のように、長年も過ごすうちに理解していった。だからいつも喧嘩をし始めた時は、少ない玩具と、母と自分の服が入っている箪笥が置かれた北向きの部屋から出てきて、二人に顔を見せることで仲裁をした。

 しかし、今日はただならぬ気配を感じて、風呂を飛び出すことなく湯に閉じこもってしまい、その結果、母の叫び声がぴたりと不自然に消えて、父は家を出てしまった。もし濡れたまま、裸のままリビングに飛び出していたら、その滑稽さに二人は腹を抱えて笑って、母は夕食の支度をして、父は読みかけの新聞を手に取っただろう。

 洗面所に出るドアに怯えることなく、風呂に貼る湯がぬるいことも、多分気づかなかった。玄関の扉が開けられ、換気扇をかけていたから、洗面所を通り外の冷たく乾いた空気が、水面から出ていた頭を撫でる。扉は一拍置いて閉まる。鍵をかける音は聞こえなかった。

 少年は母を待った。ぬるま湯に浸かった体は冷えて、指はふやけてシワが葉脈のように走った。水で束ねられた髪の先から雫が垂れて、水面に同心円上の波紋を作る。広がる波紋は浴槽の壁と腹で跳ね返って、山と谷を作った。

 震える息子が風呂の中で待っている間、彼女は息子の存在を忘れ、愛情の端で横たわっていた。冷える体に耐えかねた息子が自ら風呂を出た時、それは親からの独立を表していた。


 風呂の戸が開けられた音で彼女は母に戻った。目の前にできた池をシャツで吸い取り、母は口の中に血の味を認めると、すぐに戸棚の上に置いてあるティッシュで血を拭き取った。

 顔の表面を石工像を作るように触りながら、血が出ていないこと、息子の前にこのまま現れてもいいことを確かめた。


 「お母さん?」


 水を滴らせながら、寝巻き姿の息子は心配そうに、小さな目を大きく開きながら、すべての情報を吸い取ろうとしているかのように、上目遣いで母を見つめた。

 への字型に曲げられた眉を見て、すぐに鏡の前に立って顔の状態を確認したい衝動に駆られた。母としての尊厳を保てているか、父と決定的な亀裂を走ったことを悟られていないか。血縁という呪縛に縛られた、自分とよく似た顔が疲弊している様子を見て、自分の身に起こったことなのだと錯覚させてしまっていないか。

 母は口角を無理やり吊り上げて、水の重みで平たくなった頭を撫でた。


 「早く乾かしておいで。風邪ひいちゃうよ」


 「うん」


 息子は表情を変えずに、素直に踵を返して洗面台に向かった。かろうじて親として振る舞えた気がして力が抜けた。

 餃子と、ご飯があったか、と冷蔵庫の中身を思い出しながら、夕飯の支度に取り掛かった。レンジが鳴るのを待ちながら二人分の皿を戸棚から出して、机の空いたスペースを埋めた。

 床に散らばっていたチラシと新聞紙をまとめて机に置く。薄くなるシャツについた涙の後を見て、起こったことの証拠が次々に消え、全てが無かったことになるような気がした。

 ドライヤーの音が消えた。廊下をかける息子の足音を、今度は安心して迎えられた。こちらの表情を窺う息子は変に大人びていて、その一端が自分にあるのだと考えると、なんて自分は残酷なことをしたのだろうと懺悔の気持ちに襲われた。


 「ほら、食べよう」


 椅子を引いて息子を座るように促す。息子はガラスの床を進むように、慎重に椅子に座り、母を見つめた。真意は彼にしかわからなかったが、その視線は非難と追求が含まれている気がしてたじろぎ、そっと目線をそらしてレンジの前に立った。

 今、机に座っている自分を見つめているものはなんなのだろうか。


 一度、血縁から抜け出した少年は夜に立ち込める霧のような不穏な雰囲気を纏っていた。


 手に膿のような汗を握りながら、湯気のたつ白い米粒をレンジから取り出して、少年の前に差し出した。続けてフライパンに敷いてあった餃子を皿に取り出し、茶色の羽を上にして醤油をかけた。

 少年は餃子にかかる、カブトムシのように輝く液体をじっと見つめた。微かに瞳孔と口が開き、箸を持つ手が疼いた。母は安堵した。得体の知れない少年から、息子に変わり、二人は夕食の時間を共にした。

 息子はこのリビングで起きた出来事について聞かなかったし、まして母が言うはずもなかったから、父と母に亀裂は語られることなく、そのまま放置された。

 餃子と米を口の中に詰めて帆張る息子を見て、母は自然と二人で暮らす将来を思い描いた。乗り越えなければならな問題はたくさんあるだろうが、三人で暮らしていくことを家族の中で想定している者は誰もいなかった。餃子おいしいね、と息子が笑いかけるのを見て、彼女の中で息子は二人で生きていくことを同意した、とみなした。

 夕食が終わり、普段の半分以下の食器を洗いながら、母は改めて決心し、あらゆる障壁を乗り越え、息子を守ろうと誓った。

 その翌日、息子は友達と遊ぶと言って朝ごはんを食べるとすぐに出ていった。

 十二時を過ぎ、昼食の時間を超えて十五時をまわっても、息子は帰ってこなかった。

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