露出

「………………」

「………………」

 洸の学校から帰って来て、二十分程経った。

 居間の一対のソファで彼女と向かい合って、更にその半分が経過している。

『話がある』とだけ云われて来てみたが、当の本人はずっと思い詰めた様に俯いているばかりで、重苦しい空気が滞留するばかり。

 面談が終わった後に買い出しした事もあって、今は夜の六時頃。これでは話以前に、今まで出来る限り健全に保ってきた生活習慣が狂いかねない。

 まだ成長期の終わっていない彼女に夜更かしをさせる様な事は避けたい。

 どうにか、この現状を打開しなければ……。

「……話って……何かな?」

「…………ッ!」

 声を掛けた途端、更に深く顔を顰められた。

 何故?

 心当たりは無い。

 彼女からすれば何かあるのかも知れないが、私からしてみれば現状を打開しようとした行動で故の読めない顰蹙を買ったのだ。

 私の内には、困惑が広がっていた。

「………………」

 彼女は、未だ押し黙ったままだ。

 振り出しに戻ってしまったかと考えたその時、漸く彼女に動きがあった。

「姉さんは……『母親』の事はどう思ってるの」

 リビングの大きな窓から射し込む夕日が、彼女を赤々と照らしている。

 その顔は、聖剣を携え魔王と相対した勇者の様にすら思えた。

 つまり、それは彼女の中で、大きな覚悟が要求される物だったと云う事。

「…………」

『母親』。

 その言葉が、彼女の口から出るとは思わなかった。

 何か重大な事柄について話すのだろうなとは予見していたが、それがまさか、昔の事についてだった何て。

 今、母がここに居なくて良かった。

「……不幸な人だったと、思ってるよ」

 自然と俯き、声が落ち込んでしまう。

『母親』とは、私達の『本当の母親』の事だ。

 私達姉妹に、身体的にも、精神的にも消えない傷を残した人物でもある。

 元々はとても優しい人で、笑顔が素敵な、温和な人物だった……と思う。

 けれど、私に物心が付く頃には既に情緒が不安定で、いつも私達に怨みの籠った眼を向け、日常的に暴力を振り翳して来る人だった。

 後から聞いた話によると、分業して私達の育児をしていた父親を交通事故で喪った悲しみと、それにより更に重く圧し掛かった私達の育児に対するストレスによって、気が触れてしまったのだと云う。

「私達にとっては、仕方の無い事だよ。私達がまだ小さい頃にはもうお父さんは死んじゃっていて、それでお母さんは、私達を恨む様になってしまった……」

 あの人の口癖は『お前達さえ居なければ』だった。

 確かに同情出来る部分もありはする。母親の負担を軽くしようと、父親が家路を急いだ、と云う事も有り得るだろう。それによる事故であるのならば、夫への愛と悲しみが火種となる事にも頷ける。

 が、それは同時に、私達にはどうする事も出来ない部分である事の証明でもあった。

「私達はあの時産まれて間も無くて、洸に至っては、まだ赤子と子供の境目だったでしょ? だから、私達にはどうする事も出来なかった……」

 私達が死者を蘇らせる秘儀を知っている訳でも無い。ただこの世界に産まれてきたばかりだった私達にとって、母親のそれは逆恨みも同じだった。

「だから、仕方無い。あの頃の私達にはどうする事も出来なかったし、今からそれが覆る訳でも無い……」

 視線を上げ、洸を見遣る。

 彼女もまた、少しばかり引き攣った顔で、私を静かに見詰めていた。

「だから、『運が悪かった』としか云えない。何かのテレビで云っていた事だけれど、事故は奇跡みたいな確率で起こる物らしいし……」

「……そう」

 彼女が、力無く俯く。

 とても好感触とは云い難い反応だ。

 私は、何か間違った事を云っただろうか。

「私は、大嫌い」

「……うん」

 そう考えても、何ら可笑しくは無い。

 母親が私達へ振るった暴力は決して許される様な物では無いし、そこに関しては私も同感だ。

 却って、そんな母親を憐れむ私の方が少数派なのだろうとも思う。

「姉さんだって、憶えてるでしょ。母親が、姉さんに何をしたのか」

「忘れようとしても……忘れられる様な事じゃないからね……」

 殴られる蹴られるは、当たり前。

 更に、火の付いた煙草を押し付けて来る事や、包丁で切り付けて来る事……お仕置きと称してベランダに放置する事等、およそ親がする事とは思えない様な事が日常だった。

 それも、全て手足や顔を除いた露呈し難い場所に限られていた為に、服を着て、身形を整えていれば露呈しない物。

 私の傷を隠す事には余念が無かった様で、一日に最低一回は風呂に入れられていたし、服も一定の質の物が保たれていた。

 だから、露呈しなかった。

 だから、虐待も止まらなかった。

 今思えば、良くそんな毎日で死ななかったなと呆れてしまう。

 殴られる事や蹴られる事等はまだ良いが、包丁に関しては、場合によっては致命傷にもなり得るというのに。

「痛かったんでしょ? 辛かったんでしょ? なら、何で恨まないの?」

「恨んでも、どうにもならないから」

 半ば被せる様にして、洸の問いに即答する。

 虚を突かれた様な顔をしている彼女を、私は毅然と睨み返した。

「昔、虐待を受けて……実際怖かったし、痛かったと思うよ。だけど、それを理由に恨んで、呪って……それが、一体何になるの?」

 洸の顔が、色を失っていく。

「恨んで恨んで、怨み抜いて、結局その人を手に掛けたとして。じゃあ加害者はその後、どこに行って、何をするの?」

 彼女の眼前に、両手を差し出して見せる。

 それを見て、『そういえば今日はハンドクリームを塗り忘れたな』と頭の片隅で考える自分が居た。

「その両手は血で濡れている。そんな手で、人と接する事が出来るの? 生き物を撫でられる?」

 云いながら右手を握り込み、左手でそれを包む。

「その手で―――」

 そうして、それを私達の間にある机に叩き付けた。

 ドン! と響いた音に、彼女は身を竦ませる。

「命を奪ったのに?」

「………………」

 蒼白になった顔の色。

 絶望に染め上げられた表情。

 半開きの口からは、浅い呼吸が漏れている。

「洸……?」

 洸が、震える両手で顔を覆う。

 指と指の隙間から漏れている呼吸が、震えを帯び、徐々に速まっていく。

 それを見て、私はゆっくりと立ち上がり、彼女に歩み寄る。

「……洸」

 呼び掛けても反応は無い。

 浅く速い呼吸を繰り返し続ける彼女に両手を伸ばし、私は彼女を抱き締めた。

 ひうっ、と声が聞こえる。

 彼女の震えが伝わって来る。

「大丈夫……」

 耳元で、優しく囁く。

「大丈夫だよ。私が傍に居る……」

 まだ小さな背中を、背に回した右手で撫ぜる。

 震えが、僅かに弱まった。

「私は、どこにも行かないから……傍に居るから……」

 私が……貴女を守るから……。

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『素敵な』お姉ちゃん 天然王水 @natureacid

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